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第十五話 消えた三日間

 三条(さんじょう)の泊まり込みは、宣言どおりその夜から始まった。  俺のオンボロアパートに、自動販売機サイズの男がひとつ増える。布団を担いでやって来た姿に、俺は追い返すいとまもないことを悟った。洗面所には見慣れない歯ブラシが立ち、台所には出汁のにおいが戻ってくる。  夕飯は肉じゃがと焼き魚と味噌汁だった。悔しいことに、やたらうまい。 「お代わりは」 「いる。……お前も食えよ、自分の分」 「私はこれで五杯目ですが」 「早えよ。どこに入ってんだ」  いつもの飯の風景だったが、いつもと違うものが部屋の隅々にある。玄関の内側に一枚、窓の桟に一枚、台所の換気扇の脇に一枚。きっちり整った筆跡の霊符(れいふ)が、目立たない場所に貼られていた。夕飯の支度の合間に、こいつが黙って貼って回ったものだ。 「なあ。そこまでするか」 「します」  三条は味噌汁をすすりながら、こともなげに答える。 「あなたは鬼灯衆(ほおずきしゅう)の上位に顔を覚えられ、香まで渡された。次がないと考えるほうが、どうかしています」 「……俺が訊きたいのは、そこじゃねえよ」  箸を置いた。 「なんで俺なんだ、って話だ」  三条の箸が、一瞬だけ止まる。すぐに動き出したが、俺は見逃さなかった。 「対策室を探るなら、狙うのは室長かお前だろ。陰陽師でもない出向の刑事を、わざわざ上位の術者が直々に釣りに来た。割に合わねえだろ、普通」 「……買いかぶりでは。たまたま、聞き込みで網に掛かっただけかもしれません」 「たまたま、ね」  俺はそれ以上押さなかった。押しても出ないのは、もうわかっている。だが頭の中の捜査板に、付箋が一枚増えた。  なぜ、俺なのか。  夜半、眠れなかった。  ベッドに入って目を閉じると、香袋の夢の感触が戻ってくる。石の壁、冷たい指、見つけたよ、という甘い声。解呪は済んでいるはずなのに、肌のほうが覚えている。  それに、あの夢は初めてじゃない。  ガキの頃から、ずっと見てきた。長い髪の男。顔は思い出せないのに、こわかったことだけ覚えている。子供の夢にしては、妙に手触りが生々しかった。  刑事の頭は、一度引っかかると止まらない。隣の部屋で三条が起きている気配を襖越しに確かめてから、俺はスマホを手に取って、ベランダに出た。  ベランダの夜風の中、実家の番号を呼び出す。母さんはまだ起きている時間だ。練馬署の内勤に移ってから、夜更かしの癖がついたと前に言っていた。  三コールで出る。 「矢太郎(やたろう)? どうしたの、こんな時間に」 「悪い。ちょっと訊きたいことがあって」 「なに、お金なら貸さないよ」 「違えよ。……俺さ、ガキの頃、なんか変なことなかったか」 「変なことって」 「いなくなった、とかさ」  電話の向こうが、沈黙した。  テレビの音が小さく聞こえて、ぷつりと消えた。母がリモコンを切った音だ。 「……あんた、思い出したの」  声のトーンが変わっていた。いつもの母さんの声じゃない。警察官の声だ。 「思い出したっていうか。最近、引っかかることがあってさ。それで」 「そう」  母さんは、また少し黙ってから話し始めた。 「あんたが五歳の夏なんだけどね。三日間、いなくなったの」  心臓が、嫌な跳ね方をする。俺が行方不明になった話なんて、誰からも聞いたことがない。もちろん、俺にも覚えがなかった。 「夕方まで近所の公園で遊んでて、ほんのちょっと目を離したすきに、あんたがいなくなってた。サンダルだけがそろえて置いてあって、本当に肝が冷えたわ。練馬署も含めて近隣の所轄が捜索に動いてくれた。おじいちゃんなんて、現役の伝手を全部使って、三日三晩寝ないで捜し回って。それでも、見つからなかった」 「……それで」 「じいちゃんがあんたを発見したんだよ。四日目の朝にね、玄関の前にあんたが座ってたらしいの。服装も失踪時のままで、汚れてもいないし怪我もしてない。三日前に元気に公園で遊んでいた姿だった」  ベランダの手すりを握る手に、力がこもる。 「どこにいたか、俺に訊いたろ」 「何度も訊いたよ。でもあんた、なにも話せなかった。口を開くと、泣くだけで。……あんまりこういうことは我が子に言いづらいけど、なにもされた形跡がないの。児童精神科まで行ってPTSDの疑いがあったけど、失踪時の記憶がすべてなくなっててさ。経過観察だけは怠らないようにしてたけど、あんたは思い出さずにここまで育ったってわけ」 「警察は。誘拐としての線は洗ったんだろ」 「もちろん、動いたよ。でも物証がなにもないし、目撃もない。誘拐なら要求があるはずなのに、なにもない。三日間、あんたはこの世のどこにもいなかったみたいに、記録が空白なのよ」  母の声が、少しだけ揺れた。 「おじいちゃんがね、一度だけ『これは人の仕業じゃない』って言ったきり、二度とその話はしなかった。あんたが元気に戻ってきてくれた、それでもう、いいことにしたの。加害の証拠もないし、犯人すら割れないから、被害届も出せないしね」 「……そっか」 「なにがあったのか、母さんにもわからないの。ごめんね……もしかして、フラッシュバック?」 「違うよ、ご覧の通りピンピンしてる」  母さんは安心したような複雑なため息をついた。俺たちはいくつかの近況を話して、電話を切る。  夜風が、さっきより冷たかった。  三日間か。  俺は五歳の夏、三日間、この世のどこにもいなかった。  手すりにもたれて、夜空を見上げる。星はほとんど見えない。東京の夜空はいつもこうだ。  頭の中の捜査板に、付箋を貼っていく。刑事のやり方で、自分という事件を並べていく。  五歳の夏、三日間の失踪。物証なし、記憶なし、靴だけ残して消えた。  同じ頃から始まった、長い髪の男の夢。  三十二歳の春、緊急事態とやらで対策室に出向。久世(くぜ)さんいわく、緊急の出向は俺が初めて。  初対面から、異常に俺を守りたがる相棒。ふれるとあいつの術式が安定する不可解な現象。  会ったその日に、天狗の長老のなつかしいお方、という呼び方。  そして鬼灯衆の上位が、数いる捜査員の中から俺をピンポイントで釣りに来た。  付箋を並べ終えて、俺は息を吐いた。  偶然じゃない。  どれかひとつなら偶然で済む。だが、これだけ並んで全部偶然なら、世の中に捜査なんていらない。  俺の三日間と、この事件は、どこかで繋がっている。つまり俺自身が、この事件の関係者だ。  ガラス戸の向こうで、物音がした。 「桃山(ももやま)刑事。眠れないのですか」  ガラス戸越しの抑えた声だ。少し間があって、続く。 「お茶でも、淹れましょうか」  たぶん聞いていたんだろう。ベランダの声なんて、薄い壁のこのアパートじゃ筒抜けだ。でもこいつは、電話の中身にはふれない。距離の取り方が、今夜はありがたかった。 「……もらうよ」  深夜の台所で、湯呑みを挟んで向き合った。  三条が淹れた茶は、妙にうまかった。ほうじ茶の香りが、夢の甘いにおいの残りを上書きしていく。  しばらく、どちらも喋らなかった。換気扇の脇の霊符が、蛍光灯の下で白く光っている。 「なあ」  俺は湯呑みを置いた。 「俺ってガキの頃、謎に三日間も失踪してんだとよ。お前は、なにか知ってんのか」  三条は答えなかった。  サングラスは外している。素の目が湯呑みの中の茶を見たまま、動かない。 「……もうひとつ訊くぞ」  俺は続けた。声は荒げない。取り調べじゃなく、逃がしたくないだけだ。 「俺がここに出向させられたのは、偶然じゃねえんだろ。久世さんもお前も、最初から俺が誰だか知ってて呼んだ。違うか」  冷蔵庫のモーターが、低く唸っている。  三条の手が、湯呑みを握った。陶器が軋むんじゃないかと思うほど、白い指がさらに白くなっていく。 「……あなたを」  ようやく出てきた声は、低かった。 「危険から、遠ざけるためでした。それだけは、信じてください」  肯定はしなかったし、否定もしない。だが、偶然だとは言わなかった。  それが答えだ。 「わかった」  視界の隅で、湯呑みを握っていた白い指から、力が抜けていく。  俺は湯呑みの茶を飲み干して、立ち上がる。 「今夜はもう寝る。……茶、ありがとな」  ベッドに戻って、天井を見上げた。  不思議と、怒りはない。騙されていた、という感じもしない。あの白くなった手が、嘘をついている人間の手じゃないことくらい、察することができる。三条も久世さんもなにかを隠しているが、それは俺を守るためだろう。  だったら、やることは決まっている。  守られて待つのは、性に合わない。  俺は頭の中の捜査板に、最後の付箋を貼った。被疑者でも参考人でもない、いちばん大きな付箋だ。  ——桃山矢太郎(ももやまやたろう)、三十二歳。五歳の夏に三日間消えた男。  俺は捜査の対象に、俺自身を加えた。

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