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第十六話 蠱毒
今朝は生安からの一報で始まった。
対策室名義の照会が通って、高遠 名義の口座の中身が出たのだ。結果は半分予想どおりで、半分予想を超えている。
フルネームは高遠崇 。口座は数年前に開設されたもので、届出の住所も勤務先も実在しない。本人確認書類は精巧な偽造だ。つまり高遠という人間は、書類の上にしか存在しない。
だが口座の金の流れに、一件だけ拾いものがあった。自宅分の家賃とは別に、多摩地域の安アパートへの送金が数か月続いている。受取人は不動産管理会社、用途はおそらく家賃。武蔵境の拠点を引き払った時期と、送金の開始時期が重なっていた。
「……『先生』の、潜伏先か」
俺は受話器を置いて、デスクの三条 を見た。報告するより早く、三条が顔を上げた。手元には例の五芒星 の和紙と、ほおずきの包みが並んでいる。
「桃山 刑事。いま、どちらの住所が出ましたか」
「ああ、ちょっと待て——」
「……多摩市のほうでは、ありませんか」
背中がうすら寒くなった。三条が和紙の上の一点を指す。墨で描いた東京の地図、その西寄りに小さく朱が滲んでいた。
「術の痕跡を逆に辿っていくと、ここ数日、気配がこの辺りに澱んでいる。表の捜査と裏の術、両輪が同じ場所を指したのなら——」
「ビンゴってことだろ。行くぞ」
三条は立ち上がったが、その動きがいつもより硬かった。
「どうした」
「……速すぎる気がするのです」
車に乗り込みながら、三条が低く言った。
「私たちが速いのではない。向こうが、もう動いているのかもしれない」
多摩市のアパートは、駅から遠いバス通り沿いにあった。
築四十年は経っていそうな木造二階建てで、外階段の鉄板が錆びて波打っている。武蔵境のマンションより、さらに目立たない。身を隠すには上等の物件だ。
送金先の部屋は二階の奥。
外階段を上がる。一段ごとに、鉄板がきしむ。俺が先で、三条が半歩後ろ。廊下に出たところで、足が止まった。
においがする。甘い、嗅ぎ覚えのある香のにおいが、奥の部屋のドアの隙間から漏れている。
三条と目を見交わした。誰かが、いる。
足音を殺して、ドアの前に立つ。耳を澄ました。
中に気配がある。低い話し声がひとつだ。誰かと電話でもしているのか。
ノックしようと手を上げた、その瞬間だった。
ドアの向こうで、男の声が跳ねる。
「——っ、いやだ、待ってくれ……! 私はやれと言われたことを、すべて……っ! 生き残ったんだ、私は、生き残りました……!」
くぐもって全部は聞き取れないが、確実に井の頭公園で聞いた『先生』の声だ。ドア板越しでも、声が恐怖で裏返っているのがわかる。命乞いだ。
「さつきさま……っ、なぜです!」
「開けるぞ!」
ドアノブを掴んだ。鍵がかかっている。肩からぶつかったが、開かない。二度目で蝶番が軋む。その向こうで、女の声がした。
「ご苦労さま。もうお眠りなさい」
やわらかい声だった。労いに満ちた、やさしい声。
聞き覚えがある。
『目の下のクマ、けっこう出てますよ』
あの、大手町のベンチで聞き取りをしたOLの声だ。
短い悲鳴が、ぷつりと途切れる。三度目で、ドアが破れた。
六畳ひと間。誰もいない。
女の姿が消えていた。窓は閉まっている。クレセント錠も降りたままだ。押し入れとユニットバスも空だった。六畳と三点ユニットの部屋に、隠れる場所なんてない。
たしかに声がした。今、この瞬間まで中に二人いたはずだ。
なのに、誰もいない。違う——部屋の真ん中の畳に、人の形をした焼け焦げのような跡があった。
大の字ではない。膝を抱えて丸まったような形で、畳が黒く変色している。焦げ臭さはない。代わりにあの甘い香のにおいが、跡の上にだけ濃く澱んでいた。
部屋の隅には生活の跡が残っている。畳んだ布団、コンビニ弁当の空容器、飲みかけのペットボトル。さっきまでここで人が生きていた痕跡だ。
「……三条。これ、なんだ」
三条は答えず、人型の跡のそばに片膝をついた。印を結んだ指先を跡の上にかざしたまま、動かない。
「……蠱毒 の形跡がある」
「えっと、孤独死の跡ってことか?」
死体は長時間放置されると腐敗が進んで体液が床を汚すことがあるが、骨と肉は残るし死臭もかなりのものだ。この部屋にはそういったたぐいの痕跡はない。
「蠱毒、です。こう書きます。器に虫を集めて殺し合わせ、最後に残った一匹を呪 の核にするという術です」
三条がスマホに文字を打ち込んだ。虫がみっつ並んでる字面だけでも気持ちが悪いっていうのに、毒とは恐れ入る。こいつも呪術で殺されたということか。
「虫の代わりに、人を使っている」
言いながら、三条の動きが止まった。視線が畳の隅へ向く。
「……桃山刑事。下がっていてください」
三条が霊符 を畳にかざして、短く呪を唱えた。
浮かび上がった光景に、俺は絶句する。
人型の跡が、ひとつじゃなかった。『先生』の跡の下に古い変色が幾重にも透けて見える。大人の形も小柄な形もあり、膝を抱えたもの、手を伸ばしたものが重なり絡まって、数えかけて途中でやめた。十は超えている。
「この部屋は、器です」
三条の声が、底冷えするほど低い。
「ここに集められた人間たちが、共食いをさせられていた。魂を、互いに喰い合わされて。最後に残った一匹が呪の核として、収穫される」
ドア越しの叫びが頭の中で反響した。生き残った、あれはそういう意味だったのか。
『先生』は器の中で勝ち抜けば認められる、解放されると思っていたのだろう。だが蠱毒の仕組みでは最後の一匹こそが収穫物で、勝ち抜くことがそのまま死刑宣告だった。あの女は最初からそのつもりで器を仕込み、熟すのを待って刈り取りに来ただけだ。
『ご苦労さま、もうお眠りなさい——』
あれは本物の労いだったのだ。よく育った、収穫に値する、という。
「……ここで消えたのは、『先生』だけじゃねえってことか」
「ええ。おそらくは、鬼灯講 の信者たち。マナさんの集会にいたような、寄る辺ない人たちがここに集められて、誰にも知られずに」
マナのときの魂をほおずきに移す術も十分えげつなかった。今回はそれ以上だ。ほおずきの実に封じるどころか、共食いさせて、骨も残さず喰い尽くす。
「……井の頭や、五色不動 の手口とは違うのか」
「違います。鬼灯衆 の本流は、封じて集める術。魂をほおずきに移し、力として蓄える。ですがこれは、喰い尽くす術です。しかも手慣れていて、高度だ……術をいくつも扱える、陰陽師がいるということです」
三条は人型の跡を見下ろしたまま、しばらく黙った。
「……何者がこの術を使っているのか、私にもわかりません。陰陽寮——特殊霊異対策室が観測する限り、荒海 流陰陽道は血統が絶たれているはず」
珍しいこともあるもんだ。いつもはなんでも知っているような顔で、はぐらかし続けてきたこの男が、わからないと即答した。
俺は人型の跡をじっと観察する。
膝を抱えて、丸まった形。最期の瞬間、『先生』がどんな格好でいたのかが、そのまま畳に残っている。
「……あの声。お眠りなさい、って言ってた女」
自分でもわかるくらいに、声が低くなった。
「大手町の女と、同じ声だった。俺に香袋を渡した、あの女だ」
三条が、こちらを向く。
「間違いありませんか」
「間違えねえよ。刑事は声も覚える。それと、もうひとつ」
ドア越しの、あの最期の叫びを思い返す。
「あの『先生』は、女を『さつきさま』と呼んでた。つまりあの女は鬼灯講の上で、『先生』よりも上にあたる。口座の名義人は高遠崇。こっちは男の名だ。組織の上に、少なくとも二人いる」
手帳を出して書きつける。タカトオタカシ。サツキ。男と女、ふたりの名前。漢字も素性もまだなにもわからないが、名前ってのは辿れる。戸籍、住民票、学校、免許。人がこの国で生きてきたなら、どこかに必ず紙が残るからだ。
表の捜査と、裏の術。両輪の先に、ようやく敵の輪郭が浮かび始めた。書類の上にしか存在しない男、高遠崇。そして、俺に呪物を渡し、今日『先生』を喰わせて消えた女、サツキ。
俺たちは、確実に近づいている。
だが、と思う。
近づいたから、『先生』は消されたんじゃないのか。
俺の照会が通って口座が割れ、潜伏先が浮かんだ。その情報が出た、まさに今日、『先生』は始末された。偶然のタイミングじゃない。
向こうは、こっちの捜査の速度を知っている。警察の照会がどれくらいで通るか、どこまで掴めるかを、計算している。
ろくでもねえカルトの中堅で、女を食い物にしてきた野郎だ。同情の余地なんてあるわけがない。それでも生きていれば引っ張って、やったことを吐かせて、罪を償わせるのが、俺の仕事だった。畳の焦げ跡になっちまったら、手錠もかけられない。弔ってやることすら。
結局、俺たちはあいつの素性をついぞ知ることがなかった。本名も、歳も、どこで生まれてどう生きてきたのかも。身内に連絡してやることもできない。あんな野郎だったが、その死を悲しんでくれる家族くらい、いただろうに。
そして消えたのは『先生』だけじゃない。畳の下に重なっていた、あの幾重もの跡。この部屋で十人を超える人間が、誰にも知られずに消えていた。家族は捜しているのか、行方不明者届は出ているのか。それとも寄る辺ない人たちだから、いなくなったことにすら誰も気づいていないのか。
俺たちが井の頭で鬼灯講を叩いてから、ふた月も経っていない。その間も、ここでは器が回り続けていた。俺は近くにいたのに、なにも見えていなかった。
「桃山刑事」
三条の声がした。いつのまにか、隣に立っていた。
「あなたのせいでは、ありません」
「……わかってるよ、そんなことは」
井の頭公園での夜と、同じやり取りだ。あのときも、こいつはこうやって隣に立って俺に声をかけてくれた。
どんな形であれ、刑事っていうのは被害者の無念を晴らせずに終わることがいちばん堪えるんだ。
「ですが、ひとつだけ確かなことがあります」
三条は、人型の跡から目を離さずに言った。
「向こうが駒を捨ててまで隠したかったものが、この先にある。あなたの捜査は、急所に突いたのです」
慰めではなく、事実を置く言い方だ。だからかえって、素直に認められた。
「……ああ。そうだな」
俺はスマホを出して、部屋の写真を撮り始めた。畳の跡、人がいた生活の痕跡。正規の事件にはできなくても、記録を残すことはできる。
窓の外で、夕方のバスが通り過ぎる音がした。
ありふれた、多摩の夕暮れだった。この部屋で大勢の人間が骨も残さず消えたことを、世界の誰も知らない。
知っているのは、俺たちと、あの女だけだ。
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