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第十八話 はじめての連泊出張
関越道は思ったより空いていた。
朝の七時に霞が関を出て、練馬から高速に乗る。ハンドルは俺だ。助手席の三条 は膝の上に温泉ガイドブックを広げて、さっきから一頁も進んでいない。よっぽど楽しみらしい。
東京の結界を守る陰陽師さまなわけで、そうホイホイ都外へは出ないんだろう。
埼玉を抜けて、川をひとつ渡る。神流川、と標識が流れていって、すぐに群馬県と出た。
ふうん、群馬か、と思った数秒後に気づく。俺も泊まりがけで東京を離れるの、人生で初めてじゃねえか。
家族旅行も日帰りばかりで、修学旅行は直前の高熱で行けなかった。刑事になってからも、出張の話が出るたびに流れた。同僚連中から連泊の旅行に誘われても、やっぱりなぜか高熱が出る。もはや呪いなのか。
「どうか、されましたか?」
「そういやさ、俺ってこういう遠出、人生初かもしれねえなって」
「……そう、ですか」
相槌が不自然に一拍遅れた。なんだよ、そんなに珍しいのか。
「まあ、縁がなかっただけだ。仕事柄、なかなか連泊できねえしな」
さすがに三条も俺の奇妙な身の上にかける言葉が見つからないらしい。肩をすくめて、胸ポケットから霊符 を取り出す。
「念のため、これを車中に貼っておきましょう。旅中の安全を守ってくれますよ」
「もう慣れたけどさ、当たり前みたいに霊符がある生活。俺は同僚たちに今の仕事なんて説明すりゃいいんだろうな」
同僚たちは警察一家の俺がよくわからない組織に引っ張られたことをひどく心配して、ちょくちょく連絡をくれる。刑事だった桃山 がいまなにをしているのか。俺は「守秘義務があるんだよ」と濁しつつ、特殊霊異対策室なんてお名前だからして、あいつらも察しているふしがある。
飲み会でうっかり口を滑らせてしまった日には、あいつらは俺の脳内を本気で心配するだろう。いいんだけどさ。俺は俺で、市民たちの安全を守ってるっていうか。
運転していると、意外とあっさり時間が過ぎてしまう。渋川の市役所には、九時すぎに着いた。
窓口で手帳を出しかけたところで、奥から係長の名札をつけた男がすっ飛んできた。昨日のうちに、久世 さんが内閣官房の名前で照会状を回してくれている。書類一枚でここまで腰が低くなるのか、と思うくらい低かった。霞が関の威光ってやつは、群馬まで届くらしい。出向の身で言うのもなんだが、ちょっと驚いた。
会議室に通されて、古い簿冊が三冊、机に並んだ。
「昭和十九年度の、疎開学童の受け入れ記録です。学籍簿の写しと、寮舎の名簿と、戦後の寄留関係」
係長が手袋をはめて、変色した頁を繰っていく。本所の国民学校から来た児童の名簿。達筆な手書きの名前が、ずらりと並んでいる。十歳やそこらの子供たちが、親元を離れて、ここまで汽車で運ばれてきた。
その中に、あった。高遠崇 。当時十一歳。
手帳を出すまでもない。鬼灯講 の口座の名義人、タカトオタカシ。生安経由でさんざん追いかけて、戦前で戸籍が燃え尽きた、あの名前だ。同じ字面が、八十年前の疎開名簿の中に、墨の文字で並んでいる。
「係長。この子の、戦後は?」
「他の児童は、二十年の秋までに順次帰京しています。ただ、この高遠 崇だけ、帰京の記録がありません。代わりに——」
係長が、別の簿冊を開いた。
「二十年の暮れに、伊香保の長明寺へ寄留。住職が引き取ったようです。本籍地の戸籍が戦災で焼けて、再製もできなかったので、後年こちらで就籍の手続きを取っています。つまり戸籍の上では、高遠家はこの群馬で、もう一度始まっているんです」
帰る家が、なかったのか。
名簿の上の達筆な三文字を見下ろす。十一歳の子供が、迎えも来ず、ひとりだけ秋を越した。家族の安否もわからないまま、縁もゆかりも無い場所で生きていくしかなかったのか。
そして頭の中の捜査板が、軋んだ音を立てる。昭和八年の生まれなら、生きていれば九十三だ。カルトの金庫を握る黒幕が、九十三のじいさん? なにかが、決定的に噛み合っていない。
「この高遠崇の、現在までの系譜と生死は、追えますか」
「除籍を順に辿れば。ただ、古いものは倉庫ですので、お時間を。明日の朝には、お出しできます」
願ってもない。今夜の宿は決めてある。
伊香保の石段街は、平日でもそこそこ人が出ていた。
急な石段の両側に土産物屋と旅館が連なって、湯のにおいがそこかしこから立ちのぼっている。石段の真ん中を、湯が流れ下っていく仕掛けになっていた。
俺たちが宿泊する旅館は、木造三階の年季の入ったいい構えだ。磨き込まれた廊下がきしきし鳴る。八十年前、東京から疎開してきた子供たちがここに滞在していた。きっとこの廊下を走ったんだろう。
帳場で名乗ると、女将が出てきて頭を下げた。役所から話が通っている。東京の役所の人が、疎開の頃のことを調べに来る、と。
部屋に荷物を置くなり、三条が言った。
「桃山刑事、温泉に行きましょう」
「いや、早いだろ。仕事で来てんだぞ」
「お話は夕食の後で、と女将さんが。それまでは、空き時間です」
ガイドブックを置いて準備する手際がやたら早い。それにしても、はしゃぎすぎじゃないか。俺は三条を止めるというカロリーの消費を無駄に感じて、ため息をついて従った。
大浴場は、夕方前で空いている。地元のじいさんが二人、湯に浸かっているだけだ。
脱衣所で三条は浴衣を脱ぎ、タオルを持って、サングラスをかけ直した。本気でかけていくつもりらしい。
「いやいや、さすがに待て!」
「なにか?」
「曇るだろうが。あと、完全に不審者だぞ」
「問題ありません、慣れております。あなたも知っているでしょう。なぜか私の素顔をみなさんがご覧になると、厄介なことになるのですよ」
「その厄介なつらはよーくわかってんだけどな、TPOってのがあるだろうが」
俺は脱衣カゴの巾着から、仕込んでおいたものを取り出した。出張が決まった晩に、駅ビルにある百均で買っておいた品だ。
「いいもんをやろう」
スイミング用のゴーグル。クリアブルー。百十円なり。
どうせサングラスで入るとか言い出すに決まってる。なら、ダサいゴーグルを大真面目にかけた顔を拝んで、日頃のセクハラ攻撃の意趣返しに大笑いしてやろうという、ささやかな嫌がらせだった。
三条はゴーグルと俺の顔を見比べて、神妙な手つきで受け取った。サングラスを外して、装着する。
人形 みたいに整った美貌に、青いゴーグルがぎゅっと食い込んだ。バンドで黒髪がはねている。
「……いかがでしょう」
「いいじゃねえか、似合ってるぞ……」
計画どおりだ。腹をかかえた。本人が大真面目なのが、いちばんよくない。じいさんの一人がこっちを見て、つられて笑っている。
ゴーグルの男が湯気の中に立っていても、じいさんたちは笑うだけで、腰を浮かせもしなかった。よし、効いてる。なにがどう効いてるのかは、深く考えないことにした。
湯は茶色がかった金色で、鉄のにおいがした。黄金の湯というらしい。肩まで沈むと、関越の運転の疲れが、じわっとほどけていく。
「ああー……効くわ、これ」
「桃山刑事は運転でお疲れでしたから」
隣に三条が音もなく入ってきた。湯気の向こうの白い肌が作り物みたいにきれいだった。日に焼けたことが一度もないんだろう。なんの仕事をしたら、ここまで白いままでいられるんだ。ああ、陰陽師ね。
落ち着け、俺はなにを見てるんだ。湯あたりには早すぎる。
「案外、気に入りました。これ」
三条がゴーグルの縁を指でつついた。
「見やすいですね、これからはこちらを使います」
「……お前な。一応、嫌がらせのつもりで渡したんだぞ」
「存じております。ですが、いいものはいいので。百十円とは思えません。日本の小売は偉大です」
まんざらでもないらしい。湯の中でゴーグルの男が満足げにしている画は相当にひどいのに、嫌がらせは普通に感謝されて終わった。敗北感がすごい。
夕餉は部屋出しだった。上州牛のすき焼きに、川魚の塩焼き、山菜の天ぷら。三条は当然のように俺の倍の膳を頼んでいて、仲居さんが配膳のたびに、ちらちらと膳と三条を見比べていた。
気持ちはわかる。岩魚の骨が、皿の上に標本みたいにきれいに残されていく。あと、俺が悪かったから、いい加減にゴーグルを外してくれないか。なんで嬉しそうなんだよ。
膳が下がった頃合いに、女将が来てくれた。
還暦間近の、きびきびした人だった。腕に古い帳面とアルバムを抱えている。
「疎開の頃のことでしたら、私は戦後の生まれですから、直接は存じませんけれど。先代である私の母が、当時のものを残しておりました」
座卓に変色した帳面が広げられる。寮舎になっていた頃の宿帳の写しと、引率の先生がつけていたらしい日誌。
アルバムには、白黒の集合写真が貼ってあった。旅館の前の石段に、坊主頭とおかっぱの子供たちが並んでいる。台紙の余白に、几帳面な字で名前が書き込んであった。
「高遠崇という子を、捜しています」
女将は台紙の名前を順に指でなぞって、写真の隅で止めた。
「ああ、この子だと思います」
前列の端の、小さな坊主頭。ひときわ身体の細い子だった。みんな笑っているのに、その子だけ、まっすぐカメラを見ている。
「高遠さんなら、私もよく知っていますよ」
女将の声が、ふっとやわらかくなった。
「庭師の高遠さん。長明寺の和尚さんに引き取られて、それからずっと伊香保の人だって話で。腕がよくてね。うちの庭も、ずうっと高遠さんでした。私も子供の頃から、高遠のおじいちゃんって」
窓の外の中庭に、よく刈り込まれた松が、宿の明かりにぼんやり浮かんでいる。
「お元気なんですか、いまも」
「いいえ。亡くなって、もう十五年になります。お弟子さんがいまも庭は見てくれていますけど」
箸を置いたまま、しばらく動けなかった。高遠崇は十五年前に死んでいるのか。
鬼灯講の口座は、いまも生きている。武蔵境の合宿所の家賃も、先生に流れていた金も、ぜんぶ高遠崇の名義だった。死んだ男の名前で、金が動き続けている。
「——ご家族は?」
「息子さんご夫婦がいらしたけど、事故で、たしか早くに……。ああ、でも」
女将が、ふと顔を上げた。
「何年か前にね、お孫さんだというお嬢さんが、訪ねてみえたんですよ。おじいさんが疎開していた頃の話を聞かせてほしいって。この写真も見ていかれて、お墓にも寄って」
「名前は、わかりますか」
「名乗られたかしら……静かな、きれいなお嬢さんでしたよ。あの石段を、音もなく上がっていかれて」
手帳に書きつける。崇、十五年前に死亡。孫、女、数年前に来訪。
死んだ男の名義と、生きている誰か。その誰かが何者なのかは、明日の朝、紙が教えてくれるはずだ。
布団は仲居さんが二組、きっちり畳一枚分、離して敷いていってくれた。
ここまでは電気を消す前に、俺はこの目で確認している。一枚分の畳が、俺と三条のあいだにあった。
目が覚めたら障子越しの朝の光の中、鼻先の十センチに、男の寝顔がある。
サングラスのない、無防備な寝顔だ。長い睫毛が影を落として、規則正しい寝息が、俺の頬に——。
「うわあっ!」
跳ね起きた。心臓に悪いにもほどがある。
「おい、起きろ! 吐息がかかる、気色悪い!」
「……ん」
三条は薄く目を開けて俺を見上げ、実にのんびりと微笑んだ。
「おはようございます、桃山刑事。あらあら、照れ隠しですね」
「照れてねえ! 物理の話をしてんだ! なんでお前の布団がこっち岸に来てんだよ。一枚分離れてただろうが」
「寝相ですよ」
「布団ごと動く寝相があるか!」
「温泉の効能かもしれません、新陳代謝が活性化するって書いてありました」
三条は悪びれもせず起き上がって、大きくのびをした。猫背がぐうっと反って、戻る。血色のいい、つやつやした顔をしていた。憎たらしいくらい、よく眠れた顔だ。
「いいお湯でした。ここの湯は、よく効きますね」
「……そうかよ」
高尾の宿坊の朝を、ちょっとだけ思い出した。久しぶりに、よく眠れました、と言ったあの朝の、こらえるみたいな笑い方。今朝はあれよりずっと、眠れたのがあたりまえという顔だ。
なんでだろうな。湯のおかげってことにしておいてやるか。
その後、うまい朝飯を堪能しチェックアウトを済ませて、九時に市役所へ向かう。
会議室の机に、除籍の写しが時系列に並べてあった。係長は徹夜したんじゃないかという顔で、付箋だらけの束を順に繰っていた。
「高遠崇。昭和二十七年に就籍、三十一年に婚姻。平成二十三年に死亡。女将さんのお話のとおりです。息子さんがひとり。その息子さんご夫婦——つまり崇さんのお子さん夫婦ですが、十二年ほど前に事故で相次いで亡くなっています」
紙の上で、ひとつの家系が、すごい速さで細っていく。
「いまの末端の方は?」
「おひとりです」
係長が、最後の一枚を、机の上にすっと滑らせた。
手書きの文字を写し取った、除籍の末尾。その名前に、目が吸い寄せられた。
高遠、砂月 。
息が、一拍止まった。
「……読みは、わかりますか?」
「正確には。古い戸籍には読み仮名が載らないので。ああ、たぶん『さつき』さんじゃないですかね。女性ですし」
さつき。
会議室の空気が、すっと遠くなった。
ドアの向こうから『先生』を眠らせた、あの女の声。大手町で俺に香袋を渡した女。『先生』が最期に呼んだ名前——さつきさま。
手帳を開く手が、勝手に動いていた。タカトオタカシ。サツキ。ずっと別々の行に書いてきたふたつの名前のあいだに、線を引く。一本に、繋がってしまった。
高遠崇は、十五年前に死んだ祖父。サツキは、その名義を使っている、血の繋がった最後のひとり。口座の届出の本籍は、焼け落ちた本所だった。生きた崇の戸籍は群馬にあるのに、わざわざ辿れば紙が燃え尽きるほうへ繋いである。足のつかない死者を、選んで使っている。
敵の上層には、最低二人いる。俺たちはそう読んでいた。書類の上の男と、現場の声の女。違ったんだ。二人いたんじゃない。最初からひとりだった。
死んだ祖父の名義で口座を作り、金を回して合宿所を借り、『先生』を飼って、用が済めば喰わせて畳む。素人を傀儡に仕立てて、将門塚に楔を打つ。それをぜんぶ、たったひとりで。
平成十一年生まれ。両親はなく、紙の上では天涯孤独。石段を音もなく上がって、死んだ祖父の墓に手を合わせて帰った、静かできれいなお嬢さん。
二の腕に、鳥肌が立った。
「……裏は取る。だが、間違いねえ」
隣で黙って紙を見ていた三条が、こちらを向く気配がした。
「こいつだ。高遠砂月 ——サツキ。こいつが、頭だ」
「それから、その高遠砂月さんですが」
係長が、最後の付箋をめくった。
「数年前に転籍されています。転籍先は——東京都、新宿区です」
帰りの関越は、三条がハンドルを握った。
助手席で、俺は手帳の一本の線を見下ろしていた。膝の上には、女将が持たせてくれた温泉饅頭の包みがある。
本所の高遠家は戦火に消え、たったひとり生き残った少年が群馬で暮らし、八十年かけて細って、最後のひとりが残っている。
その最後のひとりが、死んだ祖父の名前を着て、新宿にひそんでいる。
「……三条」
「はい」
「次は、新宿だな。まったく、あっちこっち行かせやがって」
「楽しくてやりがいのある仕事、ですね」
三条は前を向いたまま、静かに答えた。神流川を渡る。橋の標識が、埼玉県、と告げた。
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