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第十九話 死人の名前で生きる女

 群馬から戻った翌朝、対策室の会議机に、俺が持ち帰った書類の写しがぜんぶ広げられた。  除籍の束と、就籍関係の綴り。久世(くぜ)さんは老眼鏡をかけて、朝から一枚ずつ読み込んでいた。その手がいちばん古い一枚の上で止まって、長いこと動かなかった。 「……桃山(ももやま)くん。これを」  昭和二十七年の、高遠崇(たかとおたかし)の就籍許可にかかる申述書類だ。戦災で戸籍を失った人間が、新しく籍を作るために、自分の出自を申し立てた紙。役場の係長が気を利かせて、綴りの奥に挟んでくれていた。  母の欄には、高遠(たかとお)の家の娘の名。本所の町家の出らしい。  そして、父の氏名の欄。  荒海(あらみ)、寂仙。 「あらみ……?」  この数か月、嫌というほど耳に刻まれてきた名字が、八十年前の役所の紙の上に、墨で据わっていた。  久世さんは黙って立って、書庫から古い和綴じの台帳を抱えて戻ってきた。表紙に墨で『明治拾八年、関東家筋控』と書かれている。陰陽寮が解体されて対策室に化けた頃の、全国の陰陽師の家系を控えた帳面だという。久世さんの指が、ひとつの行を押さえる。 「武蔵野、荒海家。先代の当主が……荒海寂仙(あらみじゃくせん)。最後の当主は、その娘の、荒海市子(あらみいちこ)。昭和二十年の空襲で、死亡を確認しています」 「じゃあ、高遠崇は……」 「先代当主の、認知された庶子です。妾に産ませて認知だけして、籍は母方の高遠に置いた。記録がないということは、寂仙が本家筋に隠していたからでしょう。一門の記録のどこにも、この子は載っていません。我々が監視していたのは、荒海の戸籍と本家の血筋だけでした」  武蔵野の山の一門の当主が、なんだって本所の町娘と?  よくわからずに眉間にしわを寄せていると、すかさず三条(さんじょう)が「武蔵国は広いのです。明治より前は山の手も下町も、まるごと武蔵と呼ばれていました」と説明してくれる。 「なるほどな……てか前に、久世さんは言ったよな。荒海流の血統は絶たれているはずだって」 「言いました」  久世さんは、ごまかさなかった。 「ただ、探さなかったわけではないの。戦後、対策室は十年がかりで荒海の縁者を洗っています。警察の協力も得て、戸籍や寺の過去帳を、門人の家、嫁いだ先の血筋まで。鬼灯の名を継ぎうる者が一人でも残っていないかを洗いざらい」 「で、出てこなかった」 「出てこようが、なかったのです」  久世さんが、申述書の父の欄を指の先でなぞった。 「荒海の戸籍は、本所の区役所ごと焼けました。一家全滅で、再製を申し出る者もいない。我々は『荒海』の名から人を探すしかなかった……高遠崇は生まれてから一度も荒海の籍に入っていないの。認知の記載があったのは母方の高遠の戸籍、それも本所で焼けている。残ったのは群馬の役場の綴りの奥の、この紙一枚です。『荒海』から辿るかぎり、何十年かけても届かない場所でした」  探す起点が、最初から違ったんだ。あっちは死んだ当主の名前から下りていった。こっちは、いま生きて動いてる金から遡った。それだけの差だ。 「もうひとつ、お伝えすべきことが」  久世さんの声に、苦いものが混ざった。 「戦後にうまれた鬼灯講(ほおずきこう)は、ほそぼそと生き残ってきた小規模の宗教団体です。『先生』の札を覚えているでしょう。手順を飛ばした、見様見真似の脆い術。だから荒海の名跡と意匠を借りただけの、ただの模倣集団だと誤認していた」 「……潰さずに泳がせてたのも、それでっすか」 「ええ、公安警察が警戒するレベルではない。反社会的勢力とのつながりもなく、たまに信者のご家族から警察に相談があるレベルです。無害な模倣なら、目の届くところで泳がせるほうがいい。七十年、その判断は正しく見えていました」 「警察から人を借りる仕組み、昔からあるんでしょう。俺みたいな出向が、誰も金の線を洗おうとは思わなかったんですか」 「洗えなかったのよ」  久世さんは、即答した。 「かなりの例外が許されているとはいえ、我々に捜査権はありません。人を裁く権限も。銀行に紙を出させるには事件性が必要でしょう。それに……」  久世さんは、除籍の束に目を落とした。 「高遠崇の名義が金の上で動き始めたのは、ここ十年に満たない。それ以前の鬼灯講の帳簿は、拍子抜けするほどきれいなものでした。洗おうにも、糸口そのものが存在しなかったのです」 「出向の刑事は、いままでなにをしてたんです?」 「頻繁にお借りしていたわけでなくて、十数年に一度、あるかないかですよ。私の代では、あなたでふたりめ。現場の手足としてお借りしてきました。霊異の現場で人と話し、人を守っていただく方々として。世俗の捜査として、ここまでたどり着いてくれたのは、あなたが初めてよ」  首のあたりがぴりりとした。そりゃお手柄なんだし喜びたいが、捜査板の隅には俺自身が置かれている気がする。偶然とは思えない。  隣に立っている三条を見た。申述書の父の名を見つめたまま、彫像みたいに動かない。 「おい、三条」 「……探したのです」  三条は、申述書から目を上げなかった。 「当時の陰陽師たちは——必死だったと思います。それこそ灰をふるいにかけるように」  記録で読んだだけの人間にしては、当時を知っている言い方だ。だが三条はそれ以上続けず、いつもの調子に戻った。 「これで、繋がりました。『先生』の部屋の蠱毒(こどく)。私に術者の見当がつかなかったのは当然です。死んだはずの流派の、本物の術でしたから。高遠砂月(たかとおさつき)は、荒海一門の最後の直系です」  血の繋がった、たったひとりの。  群馬の除籍で見た細っていく家系図が、頭の中で、七百年前まで一気に伸びた。 「ただ——最大の問いが、残ります」  久世さんが、台帳を静かに閉じた。 「荒海流は口伝の流派です。蠱毒は独学で組める術ではない。書物の拾い読みでは、人ひとつ変じさせられません。模倣しかできないはずの鬼灯講に、本物の術が現れている。では——彼女に教えた生き残りは、誰なのです」  空襲で死んだのは当主で、一門の全員じゃない。どうにか生き延びた誰かの執念を思うと、地下室の空気がまた一段冷えた。 「七十年、あんたらの目の前に、わざと空っぽの看板を掲げ続けた。模倣集団だと安心させて、泳がされてるふりをして本物の口伝は、秘かに繋いでいた」  本家の血を求めて、焼けた紙の道を何十年もかけて辿り直した誰かがいる。狂気じみた思想を信じて、挑み続けた連中が。  そいつらが最後に引き当てたのが、天涯孤独のひとり娘だった、ということか。  その日のうちに、俺たちは高遠砂月(さつき)の転籍先住所へ向かった。  新宿区。歌舞伎町にほど近い、雑居ビルの上のワンルーム。管理会社を当たって部屋を開けてもらったが、中はがらんどうだ。カーテンもかかっていない。電気の契約はあるが、使用量はほぼゼロ。郵便受けには不動産のチラシが詰まったままだ。 「住民票だけ、置いてやがるな」  刑事なら誰でも知ってる手口だ。紙の上の住所と、生身の居場所を切り離す。生活のにおいがひとつもない部屋ってのは、逆にいちばん雄弁だ。 「桃山刑事。なぜ、新宿なのでしょうね」  帰りの車中、運転しながら三条が言う。 「山手線の結界では皇居が陽の陰なら、新宿は陰の陽なのです。都市の邪気を一手に受け止める、対の点です。結界の急所のひとつに、わざわざ籍を置いている」 「まあ、東京の負のオーラを一手に引き受けている場所だしな。霊異よりやばいもんが、うようよしてるぞ」  考え込んでいると、スマホが鳴った。世話になった組対の先輩からの折り返しだ。歌舞伎町で妙な事案がないか、朝のうちに聞いておいた。 「おう、桃太郎。妙な事案、あるぞー。ここふた月で三件な。女が路上で男ともめて、男のほうが病院送りだ。肋骨四本とか、顎の粉砕とか」 「女が、ですか?」 「そうだ、おそらく夜仕事の細っこい女だよ。防カメに映ってたのが一件あるんだが、係の連中が気味悪がってる。投げ方が人間の腕力じゃねえとよ。女は全員、住所も身元も割れねえまま消えてる。周辺の聞き込みをして働いている店を炙り出そうとしたんが、それも空振りだ」  礼を言って切った。三条と顔を見合わせる。 「……なんだよ、こわすぎるだろ。行くしかねえのか」 「歌舞伎町、ですか。いいですね、装いを変えましょう」  やたら楽しそうに、三条は両手の平をぽんっと鳴らす。なにを変える気だ、と思った俺が甘かった。  夜も公用車で出直した。歌舞伎町のど真ん中に車で乗りつける馬鹿はいないから、靖国通り裏のコインパーキングに入れてあとは徒歩だ。  夜九時の歌舞伎町は、光の洪水だった。  ホストの看板がビルの壁面を埋め尽くして、客引きの声と、スマホ片手に歩く外国人観光客の群れ、そして酔っ払いの集団。からの酔っ払い集団。  靖国通りから一本入っただけで、空気の濃度が変わる。  で、俺の隣を歩いているのは、ホストだった。  いつもの黒スーツのネクタイを抜いて、シャツの胸元をふたつ開けて、束ねた髪を片側に流しただけなのに、三条は歌舞伎町に完璧に溶けている。サングラスすら夜の街では商売道具にしか見えない。  普段はサングラスをすれば美形ビームがおさえられるのに、今夜はすれ違うやつらがきゃあきゃあと黄色い声を上げている。 「お前、擬態が完璧すぎんだろ! なんでわざわざ目立つんだよ」 「ふふ。郷に入っては、です」 「俺はなんなんだよ、この並びだと」  答えは、すぐに向こうから来た。  区役所通りの植え込みのふちに、女の子が三人、座り込んでいる。二十歳をいくつか出たくらい。フリルとリボンが大量についた服に、はんこで押したように同じ顔。  ひとりはアルコール度数の高い缶チューハイにストローを刺して、ちゅうと吸っている。  三条が足を止めて、会釈なんかした。女の子たちの目の色が変わる。 「やばー。なにあのホスト、背たっか! ビジュいいー!」 「敬語キャラっぽい顔してるー」 「指名したい! ねえ、店どこぉ!」  顔だけで敬語とわかるのか。歌舞伎町女子の観察眼、恐るべしだ。三条はごく自然にしゃがんで、女の子たちと目線を合わせた。 「夜分にすみません。少し、お話を聞かせてくださいますか。この街で最近、こわい思いをした子がいないかと思いまして」 「ええ、なんでぇ。新しい店の営業?」 「いいえ。心配しているだけです」  聞き込みの導入としては満点すぎてこわい。女の子たちはあっさり緩んで、ぺらぺら喋り始めた。どこのホストが飛んだ、どこの店がぼったくり、誰それが病んで実家に帰った。  俺はストロー越しに缶チューハイを吸う子の、袖口から覗く手首に、つい目が行ってしまった。古い傷痕が、幾重にも白く残っている。化粧でも隠しきれない隈と、剥がれかけのネイル。夜はまだ冷えるから、短いスカートの下の生足に鳥肌が立っている。  言うべきじゃないとわかっていたのに、口が勝手に動いた。 「あのな。こんなところで飲んでないで、家に帰れ。風邪ひくぞ」  三人がぴたりと止まり、ストローの子が俺を指差した。 「……なにこの黒服、ちょーこわい」 「説教、うざ。無理なんだけど」 「黒服じゃねえよ!」 「え、じゃあなに、店長?」 「だから違げえって」  三条が、口元を押さえて肩を震わせている。おい、笑うな。お前のせいだぞ、この配役。 「失礼しました。連れが、心配性なもので」  三条がさらりと回収して、話を戻した。 「こわい思い、という話の続きを聞かせてほしいんです。たとえば身元を聞かれない仕事の誘いなど、ありませんでしたか」  ストローの子が、ちゅう、と一口吸ってから言った。 「あー……あるよ。身分証なくても働かせてくれるキャバ」  手帳を出したくなる衝動を、奥歯で噛み殺した。今このタイミングではないことぐらい、俺にもわかる。 「カメリアってお店。花道通りの奥のほう。あそこ、保険証なくても、住むとこなくても、ぜんぶいいよって」 「あたしも一回、体入した」  隣の子が手を挙げた。 「たい、にゅう?」  訊き返した俺に、三人の視線が刺さる。 「オジ、知らない? 体験入店だよー」 「一日お試しで働くやつ。当日現金払いだから、ちょういいよー」 「……オジ!」  まだ三十二歳だ、俺だって。隣でホストが今度こそ声を出して笑った。あとで覚えてろよ。 「それで、体入はどうでしたか」  三条が訊くと、体入したという子は、ちょっと真顔になった。 「でもー、なんか、こわかったから、あたしはやめた」 「こわかった、というのは」 「オーナーみたいな人がさ、その日に寮を用意してくれるって、しつこかったんだよね。荷物そのまま今夜から住めるよ、スマホも新しくしてあげるよ、って。……うますぎるじゃん? 信じちゃだめかもって」  信じちゃだめかも。フリルと缶チューハイの向こうから、まっとうな生存本能が顔を出した。この街で身ひとつで生き延びてきた子の、勘ってやつだ。 「いいな、ナイス判断だ」  思わず言った。子は、きょとんとして、それからちょっと笑った。 「オジ、いいこと言うじゃん」 「せめておじさんって呼んでくれよ……で、その店に入った知り合いは」 「いるよ。ユメちゃんと、あとキキちゃん。……でも、ふたりとも店入ってから、既読つかなくなった」  想像するに、この子たちの交友関係は、お互いが深入りをしない前提だ。連絡が取れなくなったからといって、探ったり警察に相談するなんて考えもしないだろう。  寮を用意する。携帯を替えてやる。聞こえはいいが、要は住処と連絡先を、丸ごと向こうに握らせるってことだ。身分証のない子を選んで、誰も捜さない子を選んで、塀のない檻に入れる。 「お話、ありがとうございました」  三条が立ち上がって、自販機で温かいほうじ茶を三本買い、一本ずつ配った。 「缶チューハイより、こちらのほうが温まりますよ」 「なにこのホスト、ママじゃん」 「ママホストだ」 「指名したいー! 初回行くよー!」  雑踏に戻りながら、振り返ると、三人ともちゃんとペットボトルを握っていた。  花道通りへ抜ける裏路地に入ったときだ。  ゴミ袋の山の陰に、女がうずくまっていた。  露出の多いドレス、裸足だ。肩が小刻みに揺れている。酔い潰れか、急病か。考えるより先に身体が動くのが、刑事の習い性だ。 「おい、大丈夫か」  女が、顔を上げた。目が、ギラリと光る。  暗がりで、獣の目が車のライトを弾くときの、あの光り方だった。白目がない。半開きの唇の奥で、歯並びがおかしい。ゴミ袋にかけられた指の先で、爪が黒く、長く尖っている。  壁に伸びた影が、人のかたちをしていなかった。 「桃山刑事、下がって!」  三条の声と同時に、女が跳んだ。  俺を、越えた。頭上をだ。風圧が髪を撫でて、振り向いたときには、女は三階の室外機の上にいた。こちらを見下ろして、喉の奥で、ぐるる、と低い音を鳴らす。  三条が霊符(れいふ)を構える。指が印を結びかけた、その寸前。  女はビルの壁を二度蹴って、屋上の闇に消えた。  あとには夜風と、日本一の歓楽街の残響だけが残った。 「……追えるか」 「いえ。あれは屋根の上ですら自在に動き回る」  三条は霊符を収めて、女が消えた闇を見上げたまま、低くつぶやいた。 「生成り(なまなり)、です」 「……なまなり?」 「人が……妖に変じかけている状態を言います。深い恨みや、長い穢れで、ごく稀に自然に起きることもある。ですがあれは違う。術のにおいがしました」  三条がこちらを向く。サングラスに、ネオンの赤が映っていた。 「蠱毒です。それも、『先生』の部屋に残っていたものと、同じ系統の。人の魂を削って、混ぜて、煮詰めているにおいだ」 「人為的に、作られてるってことか。ああいうのが」 「ええ。おそらく、あの娘は素体のひとり。逃げ出したのか、放し飼いなのかはわかりませんが」  既読のつかなくなった、ユメちゃんとキキちゃん。さっきの子たちの白い顔が、暗がりの獣の目に重なって、胸糞の悪い想像が止まらなくなった。  その夜のうちに、対策室へ戻って端末を叩いた。  カメリア。花道通り、キャバクラ。営業許可の名義から運営会社を引く。株式会社KMSプランニング。歌舞伎町と区役所通り界隈に、キャバクラ三軒、ガールズバー二軒、無料案内所一軒。設立は八年前だ。  あらためて高遠崇名義の口座の出入りを並べ直すと、ビンゴ。毎月、KMSプランニングからの入金。鬼灯講の金庫と、歌舞伎町の夜の店が、紙の上で握手をしている。  法人登記の代表者欄に、名前があった。  御子柴京(みこしばけい)。  手帳の、砂月の名前の下に書き足す。死んだ男の口座に金を流し込んでいる、生きた男。砂月の駒なのか、共犯なのか、それともただの財布なのか。  窓の外、夜明け前の霞が関は静かだった。だが瞼の裏には、まだ歌舞伎町のネオンが焼きついている。  あの光の洪水が、一瞬、ほおずきの赤に見えた。

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