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第二十一話 顔のない女

 張り込みってのは、刑事の仕事のなかでいちばん地味で、いちばん嘘がないと思う。  足で稼いだ情報は裏切ることがあるし、事情聴取も鵜呑みにはできないが、この目で見たものだけは別だ。俺は張り込みがそんなに嫌いじゃない。腰は死ぬけどな。  カメリアの入った雑居ビルのはす向かい。同じ年代物のビルの四階に、ちょうど空き事務所があって、久世(くぜ)さんが一日で借り上げてくれた。名義はどこかのコンサル会社になっているらしい。窓からは、カメリアの正面入口と、裏の搬入口が両方見下ろせる。張り込み部屋としては満点の物件だった。  初日の夜、三条(さんじょう)はコンビニの袋を三つ提げて現れた。 「お疲れさまです、桃山(ももやま)刑事。お夕飯にしましょう」  袋の中身は、おにぎりが十二個と、サンドイッチが四つ、唐揚げにサラダにプリンが二つ。折りたたみ机に整然と並べていくのを眺めながら、俺は訊いた。 「……何人分だ、それ」 「二人分ですが」 「張り込みの飯じゃねえだろ。おにぎり二個と茶で十分なんだよ、こういうのは」 「桃山刑事のぶんは、そちらの二個です」  残りの十個とサンドイッチ四つは、宣言どおり三条の腹に消えた。鮭、明太子、おかか、ツナ、と几帳面に味を変えながら、包装フィルムの開け方まで美しい。米粒ひとつ落とさない。長丁場の退屈しのぎには、こいつの食いっぷりを眺めてるのがいちばんいいのかもしれなかった。  おまけに三条は魔法瓶まで持参している。注がれた湯呑みから、ほうじ茶の香りが立つ。 「夜は冷えますので」 「……お前、ほんとにママだな」 「ママホストです」  覚えてやがった。  双眼鏡を渡そうとしたら、三条は首を振る。 「私は結構です。肉眼で足りますので」 「足りるかよ。ここから搬入口まで五十メートルはあるぞ」 「目はいいほうなんです」 「視力いくつだよ」 「うーん、猫科ぐらいですかね」  答えになってない。だが実際、三条は椅子から動かないまま、通りを歩く人間の顔を、双眼鏡の俺より先に識別してみせた。お前は暗視スコープかよ。  張り込みの夜ってのは長い。事件の話ばかりしていると気が詰まるから、どうでもいい話をぽつぽつ挟むことになる。 「お前、非番の日はなにしてんの」 「お散歩と、お昼寝と、おいしいものを食べることです」 「隠居かよ」 「あとは、映画を観に行くこともあります」 「……意外だな。どんなの好きなんだよ」 「ゴジラシリーズのファンです。昭和二十九年に公開されたゴジラを観たとき、なんと深いテーマを描いた物語なのかと感銘を受けました。以降、すべてのシリーズを観ています」  わりとガチな特撮オタクだったので、俺は拍子抜けする。ゴジラなんて、硬派なんだな。これ以上は深ぼるとまた蘊蓄がはじまりそうだったので、「そっか、いいじゃん」と返した。  初日は空振りで、二日目の昼に久世さんから封筒が届いた。  頼んでおいた、高遠砂月(たかとおさつき)の来歴の照会結果だ。住民票の履歴、学籍、それから児童相談所の記録の写し。  めくっていくと、紙の上にひとりの子供の人生が並んでいた。  平成十一年生まれ。群馬の山あいの町で育つ。平成二十六年、十五歳の冬に、両親が自動車事故で相次いで死亡。引き取る親族はなく、児童養護施設に入所。  記録には当時の写真が一枚貼ってあった。中学の制服を着た、サイドで髪を結んだ少女が、カメラをまっすぐ見ている。笑っていないし、泣いてもいない。なんの表情も浮かんでいない顔だった。  施設の所見の欄に、几帳面な字でこうある。情緒は安定しているが、他児との交流は希薄。夜間、誰かと会話するような独語が時折みられる。  ——誰かと、会話するような。  ページをめくる指が、すこし重くなった。施設の暗い部屋で、十五の子が夜ごと誰と話していたのか。あまりに現実がつらくて、空想の友達を作ったのか。  入所から一年半後の退所記録。引受人の欄を見て、俺は声を出しそうになった。  高遠崇(たかとおたかし)。続柄、祖父。 「……おい、三条。これ見ろ」  窓辺の三条に紙を渡す。視線が記録の上を滑って、止まった。 「平成二十三年に死んだ男が、平成二十八年に、施設へ孫を迎えに来てる。相手は児相だぞ。本人確認なしで子供を渡す役所じゃねえ。身分証の写しまで添付してあるってのに」  添付された身分証のコピーは、顔写真の部分だけが、コピーの劣化にしては不自然に滲んでいる。名前や住所の文字はくっきり読めるのに、顔だけが読めない。 「……(しゅ)ですね。さすがです、あなたもきちんと痕跡がわかるのですね」  三条の声が低くなった。 「書類は人が読むものですから。紙そのものを偽るより、読む人の心に呪をかけるほうが早い。窓口の職員には、きっとなんの落ち度もありません。目の前の老人を、書類どおりの人物だと、心から信じて手続きをしただけです」 「……騙されたことにすら、気づいてねえのか」 「ええ、いまも」  死んだ祖父の名前で口座を作った連中だ。同じ名前で施設から子供を引き取っていても、特別な驚きはない。それでも胃の底が冷えた。  両親を亡くした十五歳の子を、死人が迎えに来たんだ。役所の紙の上を、亡霊が堂々と歩いて、誰にも見咎められなかった。 「迎えに来たのは、鬼灯衆(ほおずきしゅう)の生き残りの爺さんか」 「でしょうね。崇さんが生きていれば八十をいくつか過ぎた頃合い。老人が老人を演じるのは、造作もないことです」  その爺さんは、いまどこにいる。生きているのか。砂月(さつき)に術を教え込み、役目を終えて、もう土の下なのか。紙はそこから先を教えてくれなかった。  ひとつ、引っかかっていたことを訊いた。 「なあ、三条。蠱毒(こどく)ってそもそもどういう術なんだ。ありすからも、そのにおいがするって言ってただろ」  三条はしばらく窓の外を見たまま、言葉を選ぶように口を開いた。 「……古い、いちばん性質の悪い呪のひとつです。もともとは大陸から来た外法でしてね。ひとつの壺に、毒虫を何匹も入れて、蓋をする」 「ああ、それで食い合いをさせるんだよな」 「そうです。蛇、百足、蠍、蜘蛛——たくさん詰めて、閉じ込めて、放っておくんです。狭い壺の中には、餌もない。すると虫たちが食い合うのです」 「……それをどうするんだ」 「殺して、喰って、また喰われて。最後の一匹になるまで。たった一匹だけ生き残った虫には喰い殺してきたすべての虫の毒と念と生命が、煮詰まって宿る。それを呪いの核に使う。これが蠱毒です」  壺の中の地獄を想像して、湯呑みを持つ手が止まった。 「鬼灯衆のやつらは、それを虫じゃなくて人でやっているんだな……」 「カメリアという壺に、寄る辺のない娘たちを詰める。名前と居場所を奪い、外との縁を断って、逃げ場のない一匹ずつにする。そうして魂を削り、混ぜ、煮詰めていく。生成り(なまなり)というのは、その過程で人が妖に変じかけた姿です。ありすさんは、まだ入り口。ですが煮詰まりきれば最後に残る一匹は、もう人ではなくなります」 「最後の一匹はどうなっちまうんだよ」 「さあ……それは煮ている本人に訊くしかありません」  窓の外で昼間のカメリアの看板が、灯りもせずにぶら下がっている。あの建物の地下が壺なんだと思うと、ただの雑居ビルが急に禍々しく見えた。 「……胸くそ悪いぜ」 「邪術です。まともな人間がやるものではない」  めずらしく三条の口調に、はっきりとした嫌悪がある。俺は記録の束を封筒に戻した。世の中には善悪ですっぱりと切り分けられないこともある。砂月のやっていることは悪もいいところだが、なぜ悪にいたったのか。 「……なあ、三条。俺はこの女を挙げるぞ。『先生』を喰わせて、女たちを煮詰めて、許される筋のもんじゃねえ。それは変わらねえんだが」 「ええ」 「ムカつくんだよ。やり口が全部同じなんだ。篠田さんのときの『先生』も、あの御子柴(みこしば)も、この爺さんも。寄る辺のねえやつを選んで、おまえは特別だ、ここがおまえの居場所だって囁いて囲い込む。砂月って女は、それをやってる側だ。やってる側なんだが……十五のとき、施設に迎えに来た死人の手を取った瞬間の砂月は、どっち側だったんだ」  三条はすぐには答えなかった。窓の外の、まだ静かなカメリアの看板を眺めたまま、しばらくして口を開いた。 「同情なさるんですか」 「同情とは違う。たとえ権限が今はなくても、ホシとして挙げたい気持ちは変わらねえよ。ただ……選べた瞬間がこの子の人生のどこかに一度でもあったのか」 「……あなたは、そういう方ですね」  褒められたのか、呆れられたのか。サングラスの奥は、やっぱり読めない。  二日目の夜半、交代で仮眠を取ることにした。先に寝ろと三条が頑として譲らないので、俺が先に折りたたみの簡易ベッドに転がる。  また夢を見た。  暗い部屋で、畳のにおいがする。枕元に誰かが座っていた。長い髪が、白い頬に流れて、こっちを覗き込んでいる。きれいな顔だ、と思った。きれいで、こわい。男は口を動かしている。声は水の底から聞こえるみたいにくぐもって切れ切れにしか届かない。  ——ごろに、なったら——  跳ね起きた。  息が浅かった。窓の外はまだ暗い。部屋の冷えた空気のなかで、三条がこちらを見ていた。窓辺の椅子から、身じろぎもせずに。 「……うなされていましたよ」 「悪い。変な夢見た」 「どんな夢ですか?」  俺は息の調子を整えつつ、首にじっとり溜まった汗をぬぐった。 「髪の長い男の夢だよ。ほら、前に言っただろ……子供の頃に見切れた幽霊がよほどこわかったんじゃないか?」 「……そうですか」  相槌までの間が、一拍長かった。それきり三条はなにも言わず、視線を窓の外へ戻す。俺は寝直そうとして、自分の肩に見覚えのある黒いジャケットがかけられていることに気づいた。  返すのも妙な気がして、そのまま目を閉じる。三条の上着は陽なたみたいなにおいがした。  ところでこいつ、張り込み中、一度も寝てなくないか。 「お前、寝なくて平気なのかよ」 「私は……あれです、ショートスリーパーなんですよ」  はぐらかすような物言いだ。そんなわけはない。こいつは俺のアパートに押しかけて泊まっているが、少し遠慮してほしいほどぐっすり寝ている。押し問答の末になんとか数時間だけ眠らせた。  三日目の夜が来た。動きがあったのは、深夜の三時前だ。  丑三つ時ってのは伊達じゃねえらしい。閉店後のカメリアの搬入口の前に、タクシーが一台、音もなく停まった。  降りてきたのは、白っぽいワンピースを着た女だ。黒い鞄を抱えている。髪をサイドで結んで、右肩に垂らしていた。  部屋の空気が、変わった。  三条が立ち上がったわけでも、声を出したわけでもない。ただ、窓辺に座ったままの気配が、すうっと刃物みたいに細くなった。こいつのこんな気配は、井の頭でも将門塚でも感じたことがない。 「……本物です」  低い声だった。  俺は双眼鏡を上げた。五十メートル先の女の顔に、焦点を合わせる。合った——はずだった。  見えない。  いや、見えてはいるんだ。目があって、鼻があって、口がある。なのに、見たそばから、霧みたいに滑り落ちていく。目を凝らすほど、輪郭がこぼれる。大手町の参考人たちが口を揃えた、きれいな人だった気はする、の意味を、俺はこのとき初めて身体で理解した。  カメラを掴んで、シャッターを切った。液晶を確認して、舌打ちが出る。背景のドアも、鞄も、ワンピースの皺までくっきり写っているのに、顔のあたりだけが、手ブレみたいに滲んでいる。三脚に据えたカメラなんだから、ブレるはずがない。 「三条、顔が——」 「覚えていられないなら、言葉になさい」  三条の声が、すっと俺の耳元に降りた。 「呪は、目と記憶を欺きます。ですが書いた言葉までは流せません。あの女を紙に留めるんです」  手帳を開いた。ペンを握る。双眼鏡を覗いては、見えたものを、見えたそばから言葉にして書きつけていく。  二十代後半。身長百六十前後、痩せ型。黒髪、サイドで結んで右に垂らす。白いワンピース、膝丈。黒い鞄、革、角形。歩幅が狭い。靴音が——聞こえない。搬入口の前で立ち止まり、鍵を使わずドアに手を——。  不思議なことに書いたそばから、霧が晴れていく。顔そのものは相変わらず目が滑るが、紙の上に並んだ言葉の分だけ、女の輪郭がこの世に留まっていく。十五歳の施設の写真の、あの無表情な少女の面影と、紙の上の特徴が、一本の線で結ばれた。  高遠(たかとお)砂月。現認。  手帳にそう書きつけた、そのときだ。  砂月と思われる女が、ぴたりと止まった。  搬入口のドアに手をかけたまま、ゆっくりと顔だけをこちらへ向ける。  四階の消灯した部屋、俺は窓辺から一歩引いて立っている。光はない。角度的にも距離的にも、見えるはずがない。  なのに女は、まっすぐこの暗がりを見上げて——薄く微笑んだ、気がした。  次の瞬間にはもう、女はドアの内側に消えている。深夜の通りにはタクシーの尾灯さえ残っていない。最初からなにもいなかったみたいに、搬入口のドアが静かに閉まっているだけだった。 「……おい、いまの、気づかれたのか」 「いいえ、普通の人間に見えるはずはない……見えるはずは、ない」  はずはない、と二回言った。断言になっていない断言ほど、心細いものはない。  夜が明けるまで、女は出てこなかった。記録簿を遡り、これまでの防カメの報告と突き合わせると、搬入口の深夜の出入りには周期がある。三日おきだ。  前回が三日前。つまり次は——三日後の、丑三つ時。 「次の蠱毒の術は三日後だ、そこで踏み込む」 「ええ。ユメさんたちを連れ出すなら、壺の前がいちばん確実です」  決行は三日後。手帳を閉じる前に、もう一度、書きつけた特徴の頁を見た。  言葉で留めた女が紙の上から、こっちを見ている。

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