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第二十二話 壺の中

 三日後の、午前二時半。  花道通りの裏は、店じまいした飲食店の換気扇だけがごうごう回っている。俺と三条(さんじょう)は、カメリアの入った雑居ビルの搬入口の前にいた。  鉄の防火扉。鍵は内側からかかっている。本来なら許されないが、ピッキングの道具は持ってきた。この手の業務用の錠前は時間がかかる。砂月(さつき)が来るまであと三十分もないはずだ。 「三条、開けられるか」 「ええ。少々お待ちを」  三条は霊符(れいふ)も出さなかった。両手で扉の取っ手を掴み、一呼吸。  鉄がバキンと派手な悲鳴を上げた。  ロックと枠ごと扉が内側にひしゃげる。蝶番がちぎれ飛ぶ音が路地に響いて、三条はなんでもないことみたいに扉を脇へ立てかけた。 「……四の五の言っていられない、非常時ですから」  涼しい顔で手を払う。指一本、赤くなっていない。  俺はしばらく動けないでいた。  井の頭で暴れる男を、振り向きもせず手の甲ひとつで崩した腕力。玉川上水の祓いを見たとき、何百年も同じことを繰り返してきた者の手つきだと、なぜか思った。思い返せばきりがない。そのたびに、こいつならやりかねないと納得してきた。  いや、待て。  なんで俺は納得してきたんだ。人間離れしたことをやってのけるたび、陰陽師だからで飲み込んで、見ないふりをしてきた。刑事が違和感を見過ごしてどうする。  でも——これは。 「……なあ、三条。お前って——」  言いかけた唇に三条の人差し指が、ちょん、と乗った。  ふれた、というより置かれた感じ。ひんやりした指先が、俺の言葉の続きを押し戻す。 「おしゃべりの時間は、ありませんよね」  サングラスの奥が、笑っていた。笑っているのに、目の芯がひどく真剣だった。  指が離れて、唇に指先の冷たさだけが残る。 「ちょっとした、ジャパニーズ・オカルティック・パワーですよ」  三条は先に階段を降りていった。俺はそのあとを追いながら、唇の感触を振り払おうとして、振り払えなかった。  てか便利だな、その言葉。俺は絶対にごまかされないぞ。  地下に降りると、空気が変わった。  湿って重い、甘ったるいような腐ったようなにおい。蠱毒(こどく)のにおいだと、もうわかるようになっていた。嫌な学習だ。  店の倉庫だったらしい空間が異様に改装されていた。壁には隙間なく札が貼り巡らされ、コンクリートの床には赤いペンキで文字がびっしり書かれている。中央に白いペンキで円陣。虫ではなく人を放り込んだ蠱毒の壺。この部屋そのものが、壺だった。  円陣の中に、五人ほどの女たちがいる。  ドレス姿のまま床にうずくまる者も、ゆらゆらと立ち尽くす者もいた。目が虚ろで、肌が不自然に白い。爪が伸びかけている子、髪が逆立っている子。人の形はしているが、輪郭がどこか薄い。  なかに一人、ひときわ深く変じかけた女がいた。四つん這いで、喉の奥からぐるると唸っている。垂れ目の面影。歯並びの奥に八重歯の名残。あの晩の路地裏で俺の頭上を飛び越えた女だ。缶チューハイちゃんが見せてくれた写真を思い出す。行方不明のキキにかなり特徴が似ている。  円陣の外に、御子柴(みこしば)が立っていた。白いシャツにスラックス、クリーンな青年実業家のたたずまい。スマホを片手に在庫の棚卸しでもするみたいな顔で女たちを眺めている。  俺たちが階段を降りてきた音で振り向いた。一瞬きょとんとして、それから営業用の笑みが浮かぶ。 「おや、桃井社長。営業時間外ですよ、こんなところにどうされ——」 「俺は社長でも桃井でもねえ。桃山矢太郎(ももやまやたろう)っていうんだ、よろしくな」  俺は一歩前に出て、懐に忍ばせた警察手帳を見せた。この場でどれだけ役に立つか不明だが、ないよりはマシだ。 「俺たちは特殊霊異対策室のもんだ。心当たり、あるだろ」  御子柴の笑顔がどろりと剥がれた。三日月の目が見開かれて、初めて素の顔が出る。素の顔は笑顔よりずっと感情がなくて、薄ら寒かった。 「……はあ。そうですか」  舌打ちをひとつ。それから、ちらりと地下の奥を見た。  奥の暗がりに、白い影が立っていた。  サイドポニーテール。白いワンピース。黒い鞄を足元に置いて、こちらを見ている。手帳に書きつけた特徴の、そのままの女。  高遠砂月(たかとおさつき)だ。  三条の気配が一段と鋭くなった。張り込みの夜の比じゃない。隣に立っているだけで肌が粟立つほどの圧が、三条から噴き出している。  砂月は動かなかった。俺たちを見て、三条を見て、ふうん、という顔をした。 「邪魔が入ったね」  ひどく静かな声だった。怒りも焦りもない。用事が一個増えた、程度の温度。  御子柴がびくりと肩を揺らした。こいつ、砂月を怖がっている。金で繋がっていても力関係は明白だ。すぐに砂月の背後に回り込んで、こちらに向けて顎をしゃくる。 「砂月ちゃん、こいつらどうにかしてよ。面倒事はごめんだよ」  女たちを壺に詰めた張本人が、面倒事と来た。クズにしても清々しい、正真正銘のクズだ。  砂月が薄く笑った。 「いいよ。使っちゃいましょ」  細い指がすっと動く。 「どうせ、ここは実験だったから」  円陣の中の女たちが、一斉に立ち上がった。  暴走じゃない。砂月が女たちを操っている。意図的に檻を開けて、こちらにけしかけたんだ。  女たちが俺と三条に向かって歩き出す。ゆっくり、ゆっくり。爪が伸び、目が光り、影が人の形を崩していく。五人の生成り(なまなり)が扇のように広がって、地下の出口を塞いだ。 「桃山(ももやま)刑事!」  三条の腕が俺の背中と膝裏に回り、次の瞬間には足が地面を離れていた。  背中と膝を抱え上げられている。いわゆるお姫様抱っこだ。日頃から鍛えている百七十六センチの俺を、三条は羽根でも拾ったみたいに軽々と持ち上げて、女たちの頭上を飛び越えた。天井すれすれの跳躍。女たちの背後、円陣の外の壁際まで一息で跳んで、猫が棚から降りるみたいに音もなく着地する。 「っおろ——おろせっ!」 「少々お待ちを。安全な位置まで」 「安全もなにも——なんでこの抱き方なんだよ!」 「いちばん確実に守れる持ち方です」  鉄の防火扉をこじ開けた力だからか、俺が全力で暴れてもびくともしない。三条の力は人間の範囲を超えていた。  壁際に下ろされて、背をつける。心臓が馬鹿みたいに跳ねていた。恐怖と、あとなんだ、この熱いの。 「……怪我は、ありませんか」 「ねえよ。お前のほうこそ」 「私は丈夫ですので」  三条が振り返って霊符を構え、散らばった女たちの足を(しゅ)で止めにかかる。生成りたちの動きが鈍くなっていく。  御子柴は女たちの壁の向こう側に取り残されていた。砂月の背後に隠れて、きょろきょろと出口を探している。 「ああ、ついでに」  砂月が、御子柴のほうへ顔だけ向けた。ほんとうに心底、やさしい声だった。『先生』を眠らせたときと、同じ声だ。 「御子柴さんも、ご苦労さま」 「え——」  砂月の指が、もう一度動く。足を止められていなかった女が二人、御子柴へ向きを変えた。 「さ、さつきちゃん? ちょっとちょっと、冗談でしょ! 俺は——俺はきみのことずっと応援してきたじゃない! 場所も女も金だって——」  俺はとっさに御子柴をかばおうと動く。  どんなクズでも、蠱毒に喰わせていい道理はない。法で裁くために逮捕する、それが刑事の仕事だ。御子柴を引き剥がして確保し、表に引きずり出す——その一心で、俺は女たちの間に突っ込もうとした。  背中に、ぎゅっと腕が回る。  三条が後ろから俺を羽交い締めにしていた。力をこめて抵抗したが、びくともしない。 「動かないで。あれは、もう止められません」 「離せ、三条! 御子柴は罪を償うべきだ! こいつがやったことを、きちんと明らかにするんだよ!」 「桃山刑事——」 「あはは」  砂月が笑った。軽い、乾いた笑いだった。 「罪だって。証拠なんてどこにもないよ? この子たちを探しに来た人間なんて、誰もいないんだから。家出娘がずっと家出中なだけ。……惨めな人生に役割を与えられて、幸せだと思うな」  血が頭に上った。 「おい、黙れ! 高遠(たかとお)砂月——絶対にお前を逮捕してやる!」 「気安く名前を呼ぶな!」  さっきまでの優しい声色が、急に鋭くなる。金属を引っ掻くような、剥き出しの悲鳴に近い声だった。砂月の目が見開かれて、唇が白く引き結ばれている。 「……汚らわしい男が。私の名前を、呼んでいいのは——」  砂月はそこで言葉を切った。すうっと息を吸って、元の温度に戻る。戻り方が、異様に速かった。  その間も女たちは御子柴に群がる。  悲鳴はやけに短かった。  三条の腕が俺の目を塞いだ。見なくていい、と言われた気がした。見なくていい死に方かもしれないが、俺はただ悔しくて小さな声で「離せよ、三条」と言い続けていた。  在庫と呼んだ女たちに、在庫として処理される。俺には理解できない。  三条の腕がゆっくりほどかれた。目を開けると、御子柴がいた場所にはもうなにもない。  ——いや。  砂月が屈んでいた。床からなにかをつまみ上げる。朱色の、小さな実。ほおずきだ。さっきまでなかったものが、御子柴の消えた床に生まれていた。実の中で、なにかがほんのり光っている。砂月は白い指でそれを検分して、大事そうに鞄へしまった。  それから、もうひとつ。  同じ床に転がっていた実を拾い上げて、砂月は今度は一瞥しただけで、ぽいと捨てた。乾いた実が床を転がって、円陣の白い線の上で止まる。光っていない。空っぽの、ただの殻。  全身の血が下がった。  あれは、そういうものだったのか。事件のたびに現場に転がっていた、あの乾いた赤い実は——ぜんぶ、失敗作の殻だったのか。  砂月は御子柴のほうを振り返りもしなかった。用済みの存在に興味を失って、こちらへ歩いてくる。  三条が俺の前に立った。三条と砂月が、初めて正面から向き合う。  二人の間の空気が、びりびりと震えた。 「……生き残っていたのですね、荒海(あらみ)の血が」  三条が、低く言った。 「驚いたでしょ? あんたたち、必死で探してたのにね。少しずつ気配を蒔いておいてあげたんだよ」 「……荒海庚人(あらみかのと)の半分にも満たないひよっこの陰陽師が、よくぞ頑張ったと褒めたいぐらいには」  三条の挑発に砂月の目がすっと細くなった。 「陰陽寮の使い走りが、邪魔をしないで。私はただ、庚人(かのと)さまのご意思を継いでいるだけ。あなたたちが七百年も封じている方の——」 「あやつは二度と目覚めることはありませんよ」  憎しみのこもった声色で、三条は砂月の言葉を強く遮った。三条らしからぬ物言いだ。 「——黙れ、猫又(ねこまた)!」  対抗するように、怒りをにじませて砂月も吐き捨てる。  音が消える。砂月は三条をはっきりと、猫又と言った。  三条の呼吸が一拍飛んで、唇がかすかに開き、ぎゅっと閉じる。俺は三条へ視線をよこしたが、三条は俺を見ようとしなかった。  砂月が俺のほうへ向き、薄い笑みを唇の端に浮かべる。 「……へえ、この男、まだ知らないんだ?」  砂月は心底おかしそうに首を傾げた。 「臆病なんだね、三条衣織(さんじょういおり)。七百年もストーカーしておいて——まだ、言えないんだ」  七百年——言葉の意味が頭の中で組み上がるより先に、砂月は踵を返していた。闇の中へ一歩、二歩。振り返りもしない。追おうとした三条の足が一瞬だけ止まった。俺の視線に気づいたらしい。  目で追ったはずなのに、見失っていた。あの張り込みの夜と同じだ。  地下に残されたのは、鎮められた女たち、動かなくなった御子柴、俺と三条だった。  三条は砂月が消えた暗がりを、まだ見つめている。サングラスの縁から顎の線まで、青白い横顔が地下の闇に浮かんでいた。  聞きたいことが多すぎる。猫又ってなんだ。七百年ってなんだ。お前は、なにものだ。  言いかけて、黙る。  今じゃない。こいつが自分で言う気になるまで、待つ。それくらいの器量は、俺にもあると思いたい。 「三条。先に、あの子たちだ」 「……ええ」  三条の声はかすかに震えていたが、すぐに立て直した。  女たちをひとりずつ、円陣の外へ運び出す。三条が霊符で鎮め、俺が毛布をかけて寝かせた。キキは完全に意識がなく、三条が長い呪を唱えて、ようやく獣じみた唸りが止まる。  円陣の端ではありす——ユメが膝を抱えて震えていた。俺は近寄って、ジャケットを肩にかける。缶チューハイちゃんたちも心配しているぞ。 「おい。大丈夫か」  声をかけると、ユメが顔を上げた。  ゆっくりと目が合った。前に会ったときのような。半拍のずれがない。録音を再生するみたいな薄さも消えていた。怯えて震えている、今にも泣きそうな生きた人間の顔だ。  ユメはがばりと俺の腕にしがみついた。 「こわい。こわい、こわいよ」 「大丈夫だ。俺は警察だ、きみを保護しに来た……もう大丈夫だよ」  腕の中の身体は氷みたいに冷たかった。でも震えていて、冷たさを感じている。それだけで、十分だった。  俺たちは女たちを連れて、階段を上がる。  搬入口から外に出ると、夜明け前の歌舞伎町の空がやけに広かった。ネオンが消えかけた通りに、鳥の声が聞こえ始めている。  いつもは横に並ぶのに三条は今夜だけ、俺とは二歩分の距離を空けて歩いている。  猫又。七百年。臆病。  二歩分の距離は、いくら歩いても縮まらなかった。

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