23 / 37

第二十三話 「猫だろうが猫又だろうが」

 明け方の歌舞伎町は、夜よりも静かだった。  ネオンの残りかすがビルの壁を薄く染めて、東の空にうすい朝焼けがにじんでいる。搬入口の前のアスファルトに女たちを寝かせて、三条(さんじょう)が一人ずつ霊符(れいふ)で鎮めの処置を続けている間に、俺は室長に電話をかけた。 「——状況はわかりました。車を回します。桃山(ももやま)くん、お嬢さんたちの容態は」 「意識がないのが二人。ひとりだけ、かなり重い子がいると三条が。ほかは怯えてますが受け答えはできます」 「みなさんを対策室が懇意にしている病院へ搬送します」 「了解です」 「……御子柴京(みこしばけい)の件は」 「遺体は、ありません」  室長が一拍黙り「わかりました」とだけ言って、通話が切れた。  スマホをしまって、三条のほうを見る。  三条は女たちの前にしゃがみ込んで、低い声で(しゅ)を唱えていた。霊符を額に当て、肩に当て、手首に当て、一人ずつ丁寧に。何度も見てきた鎮めの手順だが、今朝はいつもより時間がかかっている。蠱毒(こどく)の汚染が深いのか、三条自身が消耗しているのか、俺には判断がつかない。  背中が遠い。いつもの三条なら処置のあいだに軽口のひとつも寄越すのに、振り向きもしない。  二歩ぶんの距離が、まだそこにあった。  対策室の車が到着するまでの四十分、ユメは俺の隣でジャケットにくるまって座っていた。時折ぶるっと震える背中をぽんぽんと叩いてやる。 「……あの子たち、大丈夫かな」  ユメの声がかすれていた。声を出せること自体がいい兆候だ。 「三条がいるから、大丈夫だ」 「あの人、すごいね。……なんか、普通じゃない」 「ああ。普通じゃねえな」  三条を普通じゃないと思う場面は、今までも多かった。けれどこれは重みが違う。文字通りの意味だ。  きっと、三条は普通の人間じゃない。  到着した車から降りてきた対策室の人間が、手際よく女たちを搬送していく。三条が一人一人の状態を引き継いで、キキだけは自分で付き添って車に乗せた。呪が解けきっていないらしい。  ユメは車に乗らなかった。「私大丈夫だから」と言い張って、アスファルトに座ったまま動かない。大丈夫じゃないのは見ればわかるが、無理強いはしなかった。  俺はしゃがんで、ユメと目線を合わせる。 「なあ、ユメちゃんだろ? 家族に連絡できるか」  ユメの目が戸惑って泳ぐ。 「……うん……ママ、怒るかな」 「まあ、怒るだろうな。いつから家に帰ってない」 「ずっと——ママ、仕事、忙しいもん。きっと来ないもん」 「来るよ。親ってのは、そういう生き物だ」  ユメは唇を震わせて、こくりとうなずいた。スマホは地下に置きっぱなしだったから、俺のを渡す。  十五分ほどユメは泣きながら電話していた。 「ごめんなさい」と「うん」だけが繰り返し聞こえる。  電話を返しに来たとき、怯えの下にわずかな安堵がにじんでいた。 「ママ、来てくれるって」 「そうか」 「……あのさ。友達にも、連絡したほうがいいかな」 「そりゃそうだろ。けどな、路上じゃなくてラウンド・ワンとかで遊べよ」 「ユメ、運動嫌いだし。おじ、うざい」 「おじさんだっつの」  ユメの顔がくしゃっと歪んで、声を上げて泣いた。うれしいときの泣き方だった。  三十分後、タクシーが一台すっ飛ばしてきた。  降りてきたのはスウェットに突っかけサンダルの女だ。茶髪のショートカットに細い眉。もとはブイブイいわした感じの親御さんだった。目のまわりは真っ赤で、泣き腫らしたのがまるわかりだ。 「結芽!」  ユメは小さくママとつぶやき、立ち上がって母親に近づいた。 「ママ、ごめんなさ——」  言い終わるより抱きしめるほうが先だった。タクシーから三歩で娘にとりつき、肩をぎゅうぎゅう掴んで引き剥がして顔を見て、また抱きしめる。 「あんた、連絡もしないでどこほっつき歩いてたんだよ!」 「ごめん、ごめんなさい……」 「心配したんだからね! 結芽が死んだかと思ったんだからね!」  怒りながら泣いて、泣きながらユメの背中をさすっている。  俺は少し離れたところでその光景を見ていた。刑事の仕事でこういう再会には何度か立ち会ってきたが、そのたびに、俺たちが走り回る理由を見た気になる。  母親がふと顔を上げて、俺に気付いた。 「えっと、刑事さん、だよね? この子を連れ出してくれたの」 「俺は大したことしてません」 「じゅうぶんだよ。バカ娘だけど、生きててよかった。ありがとね」  ぺこりと頭を下げられて、俺も頭を下げ返す。母親はもうユメの肩を抱いてタクシーに乗り込んでいた。  窓越しに、ユメが小さく手を振っている。泣いた顔のまま笑っていた。  タクシーを見送って、ようやく息をつく。  通りにはぽつぽつと人が歩き始めていた。もう始発の時間だ。歌舞伎町の朝は、夜のどぎつさが嘘みたいにまともな顔をしている。  振り返ると、三条がビルの壁にもたれて立っていた。  車を見送ったあとずっとそこにいたらしい。サングラスの奥の表情は読めない。腕を組んで、靴の先を見ている。  二歩ぶんの距離、開いている。  俺は三条のほうへ歩いた。二歩ぶん、正面に立つ。 「三条」 「……はい」 「言えよ」  三条が顔を上げた。サングラスの奥の目が、かすかに揺れるのがわかった。 「砂月(さつき)に言われたからじゃないぞ……俺はお前の口から聞きたい」  三条は答えなかった。  腕組みがゆっくりほどける。右手が身体の脇に落ちて、左手が続く。壁にもたれたまま俺を見ていた。いつもは饒舌なくせに、言葉が出てこない。  急かさなかった。ずっと俺に隠してきたものを、三十秒や一分で口にできるわけがない。  歌舞伎町の朝の風には排気ガスとアルコールの残り香が混じっていた。ビルの谷間を抜けるぬるい風が三条の髪を揺らして、通り過ぎていった。遠くで始発電車のアナウンスが流れている。  三条の右手がサングラスに伸びた。フレームにふれて、指先が止まる。それからゆっくりと外し、畳んで胸ポケットに入れる。  素顔が朝の光の中に出た。普段サングラスに隠れている目元は相変わらず規格外の美形だ。  三条が口を開いて、閉じる。喉が動いて、もう一度開く。 「——私は」  三条の声がこんなふうに掠れるのを聞いたのは初めてだった。 「猫又(ねこまた)です。桃山刑事。猫が——長く生きすぎて、妖怪に転じたものです」  ひと呼吸おいて、言葉を続ける。 「人の身体に化けて、人のふりをしていますが……中身は、人間ではありません」  また区切って、息を吸った。吸った息が震えていた。 「年齢はだいたいですけれど……七百年ほどに、なりますね」  猫又。猫の妖怪。昨夜に砂月が投げつけた言葉と同じだ。同じ言葉なのに、三条が口にするとぜんぜん違って聞こえる。  不思議と、驚きは薄かった。鉄の防火扉をこじ開けた腕力も、俺を抱えて天井すれすれを飛んだ跳躍も、音のない着地も。ぜんぶ「陰陽師だから」で飲み込んできたが、猫の妖怪と言われたほうがよほど筋が通る。  特殊霊異対策室ってのは文字通り、特殊な霊異にあたる役割を指すのであって、特殊な人間の集まりってわけじゃない。陰陽師は平安時代から公務員のようなものだって久世(くぜ)さんが言っていた。その中でも三条は存在そのものが特殊だ。  あっさり受け入れてしまう俺も俺だけど、普通じゃねえなんてことが、世の中にはたまにあるんだろ。 「……ずっと、お伝えしなければと思っていました」  素顔の三条は俺をじっと見つめていた。声が少し落ち着いて来たようだが、ポケットに入れたサングラスを握り込んでいる。 「伝えるのが、怖かった。……それだけです」  昨夜、砂月が三条を「臆病」と嘲った。三条は今、同じことを自分の言葉で認めている。  俺は黙っていた。  三条も覚悟を決めた顔で、俺の次の言葉を待っている。拒絶でも軽蔑でも受け入れる、という顔。 「……陰陽師パワーじゃなかったのかよ」  三条の目が、一瞬、丸くなった。 「……は?」 「ジャパニーズ・オカルティック・パワー。あれ全部嘘だったわけだ」 「……嘘では、ありません。ジャパニーズ・オカルティック・パワーです。ただし出力元が陰陽道ではなく猫又だっただけで——」 「それを世間では嘘って言うんだよ」 「猫又のパワーもオカルティックではありますので、厳密には——」 「屁理屈だ」  三条の口元がひくっと動いて笑いかけて止まる。笑っていいのかまだ迷っている顔をしていた。 「防火扉こじ開けて、人間抱えて飛ぶ猫がどこにいんだよ」 「います。ここに」  三条の目が赤くなりかけているのを、俺は見た。見なかったことにする。 「——別に」  三条の呼吸が止まった。 「お前が猫だろうが猫又だろうが、俺の相棒には変わりねえだろ」  三条が目を見開いた。たしかに猫っぽい大きくて釣り上がった目が、そのまま朝の光に晒されている。 「ただし」 「……はい」 「次からは自分で言え。敵にバラされるより先に」  長い一拍のあとに、三条はふっと笑った。肩から力が抜けていた。 「……善処します」 「善処じゃなくてやれよ」 「ええ。——ええ」  声が震えていた。笑っているのに、泣きそうだった。三条がサングラスをかけ直して、壁から背を離す。  俺が歩き出すと、三条がついてきた。二歩後ろじゃない、隣だ。いつもの距離で、いつもの位置。  三条の足音が聞こえないことに、今さら気づく。百八十センチの男が隣を歩いているのに、足音がまるでしない。前からずっとそうだったのかもしれない。——猫又なら、そうだろうな。 「……なあ、もうひとつだけ聞いていいか」 「はい」 「猫又が、なんで陰陽師やってんだ」  三条は少し歩いてから答えた。 「……もとは識神(しきがみ)です。ある方にお仕えしていました」 「……しきがみってなんだ」 「陰陽師が使役する、あやかしのことです。雇用主と従業員のような関係ですよ、契約によって使役されます」  妖怪が従業員かよ。雇用契約書はどういう内容なんだ。七百年前には当然なかったと思うが、ちょっと気になってしまう。  乙は甲に対して識神としての役務を提供するってか? 「で、もういないのか。その陰陽師は」 「そうですね、とうに」  三条の声は穏やかで、どこか寂しそうだった。 「ですが——約束が、まだ残っております」  約束と言った三条に、それ以上は聞かなかった。  始発電車の音が遠くから聞こえて、歌舞伎町の朝が動き出している。聞きたいことはまだ山ほどあるが、こいつが隣を歩いていて、サングラスの奥で笑っている。いったん、それで十分だ。  気がつくと、三条の歩幅に自分の足を合わせていた。足音のしないこいつの隣は、やけに居心地がいい。

ともだちにシェアしよう!