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第二十三話 「猫だろうが猫又だろうが」
明け方の歌舞伎町は、夜よりも静かだった。
ネオンの残りかすがビルの壁を薄く染めて、東の空にうすい朝焼けがにじんでいる。搬入口の前のアスファルトに女たちを寝かせて、三条 が一人ずつ霊符 で鎮めの処置を続けている間に、俺は室長に電話をかけた。
「——状況はわかりました。車を回します。桃山 くん、お嬢さんたちの容態は」
「意識がないのが二人。ひとりだけ、かなり重い子がいると三条が。ほかは怯えてますが受け答えはできます」
「みなさんを対策室が懇意にしている病院へ搬送します」
「了解です」
「……御子柴京 の件は」
「遺体は、ありません」
室長が一拍黙り「わかりました」とだけ言って、通話が切れた。
スマホをしまって、三条のほうを見る。
三条は女たちの前にしゃがみ込んで、低い声で呪 を唱えていた。霊符を額に当て、肩に当て、手首に当て、一人ずつ丁寧に。何度も見てきた鎮めの手順だが、今朝はいつもより時間がかかっている。蠱毒 の汚染が深いのか、三条自身が消耗しているのか、俺には判断がつかない。
背中が遠い。いつもの三条なら処置のあいだに軽口のひとつも寄越すのに、振り向きもしない。
二歩ぶんの距離が、まだそこにあった。
対策室の車が到着するまでの四十分、ユメは俺の隣でジャケットにくるまって座っていた。時折ぶるっと震える背中をぽんぽんと叩いてやる。
「……あの子たち、大丈夫かな」
ユメの声がかすれていた。声を出せること自体がいい兆候だ。
「三条がいるから、大丈夫だ」
「あの人、すごいね。……なんか、普通じゃない」
「ああ。普通じゃねえな」
三条を普通じゃないと思う場面は、今までも多かった。けれどこれは重みが違う。文字通りの意味だ。
きっと、三条は普通の人間じゃない。
到着した車から降りてきた対策室の人間が、手際よく女たちを搬送していく。三条が一人一人の状態を引き継いで、キキだけは自分で付き添って車に乗せた。呪が解けきっていないらしい。
ユメは車に乗らなかった。「私大丈夫だから」と言い張って、アスファルトに座ったまま動かない。大丈夫じゃないのは見ればわかるが、無理強いはしなかった。
俺はしゃがんで、ユメと目線を合わせる。
「なあ、ユメちゃんだろ? 家族に連絡できるか」
ユメの目が戸惑って泳ぐ。
「……うん……ママ、怒るかな」
「まあ、怒るだろうな。いつから家に帰ってない」
「ずっと——ママ、仕事、忙しいもん。きっと来ないもん」
「来るよ。親ってのは、そういう生き物だ」
ユメは唇を震わせて、こくりとうなずいた。スマホは地下に置きっぱなしだったから、俺のを渡す。
十五分ほどユメは泣きながら電話していた。
「ごめんなさい」と「うん」だけが繰り返し聞こえる。
電話を返しに来たとき、怯えの下にわずかな安堵がにじんでいた。
「ママ、来てくれるって」
「そうか」
「……あのさ。友達にも、連絡したほうがいいかな」
「そりゃそうだろ。けどな、路上じゃなくてラウンド・ワンとかで遊べよ」
「ユメ、運動嫌いだし。おじ、うざい」
「おじさんだっつの」
ユメの顔がくしゃっと歪んで、声を上げて泣いた。うれしいときの泣き方だった。
三十分後、タクシーが一台すっ飛ばしてきた。
降りてきたのはスウェットに突っかけサンダルの女だ。茶髪のショートカットに細い眉。もとはブイブイいわした感じの親御さんだった。目のまわりは真っ赤で、泣き腫らしたのがまるわかりだ。
「結芽!」
ユメは小さくママとつぶやき、立ち上がって母親に近づいた。
「ママ、ごめんなさ——」
言い終わるより抱きしめるほうが先だった。タクシーから三歩で娘にとりつき、肩をぎゅうぎゅう掴んで引き剥がして顔を見て、また抱きしめる。
「あんた、連絡もしないでどこほっつき歩いてたんだよ!」
「ごめん、ごめんなさい……」
「心配したんだからね! 結芽が死んだかと思ったんだからね!」
怒りながら泣いて、泣きながらユメの背中をさすっている。
俺は少し離れたところでその光景を見ていた。刑事の仕事でこういう再会には何度か立ち会ってきたが、そのたびに、俺たちが走り回る理由を見た気になる。
母親がふと顔を上げて、俺に気付いた。
「えっと、刑事さん、だよね? この子を連れ出してくれたの」
「俺は大したことしてません」
「じゅうぶんだよ。バカ娘だけど、生きててよかった。ありがとね」
ぺこりと頭を下げられて、俺も頭を下げ返す。母親はもうユメの肩を抱いてタクシーに乗り込んでいた。
窓越しに、ユメが小さく手を振っている。泣いた顔のまま笑っていた。
タクシーを見送って、ようやく息をつく。
通りにはぽつぽつと人が歩き始めていた。もう始発の時間だ。歌舞伎町の朝は、夜のどぎつさが嘘みたいにまともな顔をしている。
振り返ると、三条がビルの壁にもたれて立っていた。
車を見送ったあとずっとそこにいたらしい。サングラスの奥の表情は読めない。腕を組んで、靴の先を見ている。
二歩ぶんの距離、開いている。
俺は三条のほうへ歩いた。二歩ぶん、正面に立つ。
「三条」
「……はい」
「言えよ」
三条が顔を上げた。サングラスの奥の目が、かすかに揺れるのがわかった。
「砂月 に言われたからじゃないぞ……俺はお前の口から聞きたい」
三条は答えなかった。
腕組みがゆっくりほどける。右手が身体の脇に落ちて、左手が続く。壁にもたれたまま俺を見ていた。いつもは饒舌なくせに、言葉が出てこない。
急かさなかった。ずっと俺に隠してきたものを、三十秒や一分で口にできるわけがない。
歌舞伎町の朝の風には排気ガスとアルコールの残り香が混じっていた。ビルの谷間を抜けるぬるい風が三条の髪を揺らして、通り過ぎていった。遠くで始発電車のアナウンスが流れている。
三条の右手がサングラスに伸びた。フレームにふれて、指先が止まる。それからゆっくりと外し、畳んで胸ポケットに入れる。
素顔が朝の光の中に出た。普段サングラスに隠れている目元は相変わらず規格外の美形だ。
三条が口を開いて、閉じる。喉が動いて、もう一度開く。
「——私は」
三条の声がこんなふうに掠れるのを聞いたのは初めてだった。
「猫又 です。桃山刑事。猫が——長く生きすぎて、妖怪に転じたものです」
ひと呼吸おいて、言葉を続ける。
「人の身体に化けて、人のふりをしていますが……中身は、人間ではありません」
また区切って、息を吸った。吸った息が震えていた。
「年齢はだいたいですけれど……七百年ほどに、なりますね」
猫又。猫の妖怪。昨夜に砂月が投げつけた言葉と同じだ。同じ言葉なのに、三条が口にするとぜんぜん違って聞こえる。
不思議と、驚きは薄かった。鉄の防火扉をこじ開けた腕力も、俺を抱えて天井すれすれを飛んだ跳躍も、音のない着地も。ぜんぶ「陰陽師だから」で飲み込んできたが、猫の妖怪と言われたほうがよほど筋が通る。
特殊霊異対策室ってのは文字通り、特殊な霊異にあたる役割を指すのであって、特殊な人間の集まりってわけじゃない。陰陽師は平安時代から公務員のようなものだって久世 さんが言っていた。その中でも三条は存在そのものが特殊だ。
あっさり受け入れてしまう俺も俺だけど、普通じゃねえなんてことが、世の中にはたまにあるんだろ。
「……ずっと、お伝えしなければと思っていました」
素顔の三条は俺をじっと見つめていた。声が少し落ち着いて来たようだが、ポケットに入れたサングラスを握り込んでいる。
「伝えるのが、怖かった。……それだけです」
昨夜、砂月が三条を「臆病」と嘲った。三条は今、同じことを自分の言葉で認めている。
俺は黙っていた。
三条も覚悟を決めた顔で、俺の次の言葉を待っている。拒絶でも軽蔑でも受け入れる、という顔。
「……陰陽師パワーじゃなかったのかよ」
三条の目が、一瞬、丸くなった。
「……は?」
「ジャパニーズ・オカルティック・パワー。あれ全部嘘だったわけだ」
「……嘘では、ありません。ジャパニーズ・オカルティック・パワーです。ただし出力元が陰陽道ではなく猫又だっただけで——」
「それを世間では嘘って言うんだよ」
「猫又のパワーもオカルティックではありますので、厳密には——」
「屁理屈だ」
三条の口元がひくっと動いて笑いかけて止まる。笑っていいのかまだ迷っている顔をしていた。
「防火扉こじ開けて、人間抱えて飛ぶ猫がどこにいんだよ」
「います。ここに」
三条の目が赤くなりかけているのを、俺は見た。見なかったことにする。
「——別に」
三条の呼吸が止まった。
「お前が猫だろうが猫又だろうが、俺の相棒には変わりねえだろ」
三条が目を見開いた。たしかに猫っぽい大きくて釣り上がった目が、そのまま朝の光に晒されている。
「ただし」
「……はい」
「次からは自分で言え。敵にバラされるより先に」
長い一拍のあとに、三条はふっと笑った。肩から力が抜けていた。
「……善処します」
「善処じゃなくてやれよ」
「ええ。——ええ」
声が震えていた。笑っているのに、泣きそうだった。三条がサングラスをかけ直して、壁から背を離す。
俺が歩き出すと、三条がついてきた。二歩後ろじゃない、隣だ。いつもの距離で、いつもの位置。
三条の足音が聞こえないことに、今さら気づく。百八十センチの男が隣を歩いているのに、足音がまるでしない。前からずっとそうだったのかもしれない。——猫又なら、そうだろうな。
「……なあ、もうひとつだけ聞いていいか」
「はい」
「猫又が、なんで陰陽師やってんだ」
三条は少し歩いてから答えた。
「……もとは識神 です。ある方にお仕えしていました」
「……しきがみってなんだ」
「陰陽師が使役する、あやかしのことです。雇用主と従業員のような関係ですよ、契約によって使役されます」
妖怪が従業員かよ。雇用契約書はどういう内容なんだ。七百年前には当然なかったと思うが、ちょっと気になってしまう。
乙は甲に対して識神としての役務を提供するってか?
「で、もういないのか。その陰陽師は」
「そうですね、とうに」
三条の声は穏やかで、どこか寂しそうだった。
「ですが——約束が、まだ残っております」
約束と言った三条に、それ以上は聞かなかった。
始発電車の音が遠くから聞こえて、歌舞伎町の朝が動き出している。聞きたいことはまだ山ほどあるが、こいつが隣を歩いていて、サングラスの奥で笑っている。いったん、それで十分だ。
気がつくと、三条の歩幅に自分の足を合わせていた。足音のしないこいつの隣は、やけに居心地がいい。
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