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第二十四話 朱色の光
公用車のある駐車場まで、あと百メートルほどだった。
始発電車が動き出した歌舞伎町の朝は、ゴミ収集車の音と配送トラックのエンジン音が混じり始めている。隣を歩く三条 の足音は相変わらず聞こえない。さっき聞いた「約束が、まだ残っております」という言葉が、頭から離れない。
きっと数日のうちに三条から話を切り出してくれるはずだ。それぐらいの信頼関係なら、俺たちだって築いている。やれやれ、と思ったそのときだ。
——息が止まった。
ついさっきまで普通に呼吸していたのに、酸素を吸おうとしても入ってこない。喉が閉じている。声にならない。栓を抜かれた風船みたいに、肺から空気がなくなっていた。膝が折れて、アスファルトに崩れる。
「桃山 刑事!」
三条の声が聞こえた。三条が俺のそばにしゃがみ込む。肩を掴まれて、顔を覗き込まれている。俺はアスファルトに手をついて、開いた口から息を吸おうとした。
三条が俺に気を取られた瞬間、紙が風に乗って飛んでくるような、パサッと軽い音がした。
三条の身体がびくんと跳ねる。
俺は呼吸すらできずに意識が遠のいていたけど、なんとか三条を見上げた。胸に蛇腹折りの紙束が張り付いている。
三条が獣のような唸り声を上げて、俺の肩から手を離し、胸を押さえて崩れる。
路地の奥から、足音が近づく。
白いワンピース、サイドに結ったポニーテール。高遠砂月 が、朝の路地をゆっくりと歩いてきた。
「おはよう。長い夜だったね」
昨夜、御子柴 を切り捨てたときと同じ、やさしい声。
俺は息ができないまま、アスファルトに這いつくばっている。三条は隣で胸を押さえてうずくまっている。指のあいだから赤黒いものがにじんで、焦げたような煙が上がっていた。
砂月 が足を止めた。俺と三条を見下ろして、愉快そうに声を立てて笑う。
「あんた、ほんとに妖怪なんだね!」
砂月は小さく首をかしげて、三条の顔を見下ろす。蠱毒 の餌にした女たちに向けたのと同じ、冷たいまなざしだ。
「痛い? 苦しい? ——庚人 さまはもっと苦しかったよ」
三条の身体がびくりと震えた。
砂月は三条の肩を蹴った。もう笑顔が消えている。
「あんたが後生大事にほおずきを持ち歩いてることは、調べがついてた。問題はどうやって奪うか、だったよ。蠱毒はいいアイデアだったな。御子柴は反吐が出るほど嫌いだったけど、あんたの霊力を削ぐにはちょうどよかった」
俺の頭がぐらぐらする。酸素が足りない。視界の端が暗くなっていく。砂月の声が遠くなる。
「——全部、予定通り」
蠱毒も、御子柴も。砂月は最初からこの瞬間のために動いていた。三条の霊力を削いで、なにかを奪うために。
「庚人さまのほおずきを渡して、三条衣織 」
三条が顔を上げた。血の気の引いた顔で、砂月を睨んでいる。
「渡さなかったら——この男の肺活量、あとどれくらい持つかな」
砂月が俺のほうをちらりと確認するように見た。水に浮かんだ虫が溺れて死ぬのを観察する子供のような、感情のない顔。
三条が苦しげな表情で俺を見る。
ぼやけた視界の中でもわかる、追い詰められて、壊れかけている表情だ。口が動いた。なにか言っているが、もう聞こえない。
三条の手がジャケットの内側に入る。
胸元で止まった。指を握りしめたまま動かない。取り出そうとして、取り出せないでいる。
「……まだ?」
砂月の声が、静かに落ちた。三条の手がするりと動く。
胸元から小さなものを取り出す。ほの赤い光が見えた。暗くなっていく視界の中で、その光だけは、はっきり見えた。手のひらに収まるくらいの乾いた植物。ほおずきの実だ。三条の指のあいだから朱色のうすい光が漏れている。
三条の手が震えながらまっすぐ前に伸びて、砂月にそれを差し出す。
やめろ。声が出ない。息ができない。それを渡してはいけないと、本能で俺も察した。
砂月がほおずきを受け取った。朱色の光が砂月の手で満ちていく。
それと同時に窒息していた喉が開いた。空気が一気に肺に流れ込んで、視界が戻ってくる。
げほっ、げほっと咳き込んだ。アスファルトに両手をついて、必死で呼吸する。
砂月はもう背を向けていた。ほおずきを手の中で転がしながら、路地の奥へ歩いていく。
「猫又 が人間の真似事なんかするからだよ」
振り返りもせず、砂月は路地の影に溶けて消えた。昨夜と同じだ。目で追ったはずなのに見失っている。
路地に残されたのは、胸を押さえてうずくまる三条と、まだ咳き込んでいる俺だけだった。
三条は変わらず背中を丸めて、額をアスファルトにつけている。呼吸が浅い。歯のあいだから漏れる息がかすかに震えている。
俺は三条のそばへと這った。まだ膝に力が入らない。三条の肩に手をかけて、顔を覗き込む。
「三条。——おい、三条!」
サングラスが地面に落ちていた。素顔は血の気が引いていて、目の焦点が合っていない。唇の色が真っ青だった。交通事故で大怪我をした人間レベルで死にかけている。
「……桃山、刑事。大丈夫、ですか」
自分がこんな状態で、俺の心配をしている。俺よりお前のほうがあの世に近いぞ。
「俺は平気だ。お前のほうがどう見てもまずいだろ」
三条は答えない。浅い呼吸を繰り返して、目を閉じかけている。どうすればいい、なにをすればこいつは治る。
「おい、寝るな。——どこに行けばいい。病院は……無理だろ、お前の身体じゃ」
「……私の家に。そこなら」
三条はかすれた声で住所を言った。神楽坂の方面だ。
俺は三条の腕を自分の肩にかけて、立ち上がった。俺も死にかけて体力が削られていたから、余計に重い。百八十センチはある身体を引きずるようにして、駐車場まで歩く。
公用車の後部座席に三条を押し込んで、運転席に乗った。焦りながら、エンジンをかける。
早朝の歌舞伎町から新宿通りを抜け、外堀通りへと走る。ここから三条の自宅までは十五分もあれば着くだろう。
後部座席から、かすかなうめき声が聞こえる。
「……桃山刑事、私を送り届けたら、お帰りください。自分で、なんとかします」
「怪我人は黙ってろよ」
「私は……あなたに、これ以上の迷惑を——」
「うるせえ。迷惑ならとっくにかけられてる。今さらだろ」
三条は黙った。バックミラーの中の三条は目を閉じていて、額に汗が浮いている。
到着した三条の自宅マンションは五階建ての落ち着いたつくりの建物だった。三条のポケットから鍵を探して、担いでエレベーターに乗り、部屋まで運んだ。
殺風景な部屋だった。
必要最低限の家具だけが置いてある。ソファ、テーブル、薄型テレビ。生活感がほとんどなくて、引っ越してきたばかりみたいだった。ここで暮らしているというより、寝に帰っているだけの部屋だ。
寝室を見つけた。ベッドと小さなサイドテーブルだけ。
三条をベッドに下ろした。上着を脱がせて、シャツをめくって胸を見る。
胸の中央に、焦げた跡みたいな黒い痣が広がっていた。まわりが赤く腫れていて、ふれると三条が小さくうめく。火傷とも打撲とも違う。見たことのない傷だった。
砂月がなにを投げつけたのか、俺にはわからない。でも三条にとって致命的だったことは見ればわかる。
ああ、俺のせいだ。
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