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第4話 宵の思惑
背筋を這い上がる冷気は、生ぬるい風が吹いても一向に消えなかった。
使用人に促されて部屋に戻る間も、あの回廊の闇から注がれていた視線が、皮膚の裏側にへばりついているみたいに不快だった。
「お疲れでございますか。お顔の色が優れませんが」
「あ……いや、ちょっと風に当たりすぎただけ。平気」
部屋のソファーに腰を下ろすと、使用人は音もなく紅茶を淹れ、サイドテーブルへと置いた。
その動きを眺めながら、俺は膝の上でそっと自分の左手を擦る。
薬指の銀輪が、室内の明かりを反射して鈍く光っていた。
守るための嘘、か。
宵のあの言葉が、今になってようやく腑に落ちる。
あの男は最初から、この城がどれほど歪んだ伏魔殿であるかを知っていた。
そして、そこに放り込まれた異分子である俺が、格好の標的になることも。
「……なぁ」
「はい」
「宵の妃の人たちって、普段はどこにいるの?」
「本館の西翼にある別宮に、それぞれ部屋を与えられております。基本的に正妃の宮である東側への立ち入りは禁じられておりますが……」
使用人は一度言葉を切り、感情の削ぎ落とされた瞳で俺を見た。
「規律を破る者がいないとは言い切れません。特に、主の寵愛を巡る場においては」
「ほぉん……歓迎されてないのはよく分かったよ。なぁ、昨日の猫の話、一旦待って」
「畏まりました」
使用人は淡々と頭を下げ、下がっていく。
王子様としての教育は受けてきたが、女たちの嫉妬の泥沼に飛び込む訓練までは受けていない。
しかも、俺自身は男だ。
世継ぎを産めない正妃なんて、彼女たちからすれば取るに足らない存在だろうに。
妃にすればなぜあんな男が、という激しい憎悪の対象でしかないだろう。
一気に現実味が押し寄せてきて、胃のあたりが重くなる。
……いや、待てよ。
もしここに普通の女性が正妃として嫁いできたら、それこそ初日から命がいくつあっても足りない。
だけど男の俺なら、世継ぎの枠争いからは最初から除外される。
妃たちにとっては目障りでも、決定的な脅威にはなり得ない――
いや、あの激しい視線を思えば十分脅威だと思われているのかもしれないが、俺は宵にとっては本命の女を守るための囮みたいなもんなのか。
あるいはこれ以上の内紛を収めるための最高の調停剤として、男の正妃が最適だったわけだ。
なるほど、宵は賢い。とんでもなく喰えない男だ。
ビジネスとしての条件が良すぎると思っていたが、俺はとんだ生贄としてここに買われたらしい。
「これも自堕落生活のためか……」
自嘲気味に呟いた、その時だった。
部屋の扉が、きぃ、と開く。
「ただいま、凪音。良い子にしてた?」
入ってきたのは、上着のボタンをいくつか外し、心なしか疲弊した空気を纏った宵だった。
仕事が一段落したんだろう。
昼間の張り詰めた気配は薄れ、雌雄眼にはいつもの気怠げな色。
「おー、宵……おかえり。一丁前に忙しそうじゃん」
「これでも国王だからね。……ん?」
宵は長い足で迷いなく歩み寄ると、ソファーの背もたれに手をかけ、上から俺を覗き込んできた。
衣服から微かに香る、冷たく甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
彼は俺の顔色を値踏みするように見つめて囁いた。
「……なんかあった?」
その目の奥にある光は、全部知ってるみたいに鋭い。
試されてんな。
でもな、ここで妃らしき視線に怯えましたなんて泣きつくようなタマじゃないんだよ、俺は。
「いや?なんも?」
「……そう」
宵は一瞬だけ意外そうに眼を丸くし、それからすぐに唇の端を滑らかに持ち上げた。
「それなら良かった」
声音はどこまでも優しく、慈しむような響き。
だけど、その綺麗な瞳の奥は一切笑っていない。
お前、気付いてんだろ絶対。
「初日から退屈させて悪かったね」
「いや?意外と楽しかったぞ、庭とか」
「そう。気に入ったなら良かった」
宵はふふ、と喉を鳴らし、何食わぬ顔で俺の正面に回り込んだ。
俺はソファーの背もたれに体を預け、あえて不躾な視線を投げかけた。
「んで、お前はなんで帰ってきてすぐ俺の部屋に来んの?」
「そら、奥さんなんだから当たり前でしょ」
悪びれもせず、宵は俺の隣へと腰を下ろした。衣服が擦れ合い、さり、と衣擦れの音が聞こえる。
「自分の部屋に戻って着替えればいいじゃん。俺の機嫌取る暇があるなら、あの二十人のコイビトどもを何とかしろよ。さっきだって――」
そこまで言って、俺は言葉を飲み込んだ。
視線が、と言えば、さっきのなんも?という強がりが嘘になる。
俺が言葉を濁したのを、宵が見逃すはずもなかった。
宵は俺の動揺を楽しむように眼を細めると、おもむろに手を伸ばし、俺の左手を取った。
薬指の指輪を、彼の長い指先がなぞる。
「つれないなぁ……でも、ホント、奥さんが凪音で良かった」
政略結婚の相手を称賛するような言葉なのに、そこに交じった熱の正体が分からなくて、なんか気持ち悪い。
「な、にが――」
言いかけた唇は、すぐに塞がれた。
「……っ!?」
宵は俺の左手を掴んだまま、もう片方の手で俺の後頭部をがっちりと固定し、強引に顔を傾けさせてキスしやがった。
宵の舌先が俺の唇を割り、口内へぬる、と滑り込んできた。
「ん、ぅ……っ」
舌が強引に唇を割り開いて、ちゅく、と唾液の絡む音を立てる。
そのまま歯列をなぞられ上顎の薄い粘膜をざり、と舐めとられる。
「ふ、は……っ」
呼吸が止まりそうになった頃、ようやく宵の唇が、名残惜しそうに音を立てて離れた。
「は、っ……おま、何、して……っ」
酸素を求めて喘ぐ俺の額に、宵は自分の額をこつんと預けた。
至近距離で見つめ合う眼が、夜の暗がりのなかで怪しく濡れた光を放っている。
「奥さんなら帰ってからキスくらいするでしょ」
「こんなえぐいキスはしねぇだろ」
言い返すと宵がくつくつと笑う。
「気持ち良かったんだ?」
「ばっ……ふざけんな。男同士だぞ」
「世間が認めるくらいには違和感ないと思うけどね。凪音かわいいし」
「え……っ、あ……おまっ」
そう言いながら、宵はくつくつと笑いながら、流れるような動作で部屋を出ていった。
パタン、と静かに扉が閉まる。
ほんと喰えねぇ、油断も隙も無い。
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