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第5話 キラキラのスープ~殺意を添えて~

一人残されたソファーの上で、俺は熱を持ったままの唇を手の甲で乱暴に拭った。 男相手に、あんな、奥まで貪られるような真似されるなんて。 反発する思考とは裏腹に、心臓の奥が未だに嫌なリズムで動いている。 くっそ、完全にペース握られてる。 部屋の窓の外が完全な夜に包まれた頃、規則正しいノックの音が響いた。 「ご夕食をお持ちいたしました」 大きな銀のトレイには、一人分としては十分すぎるほど豪華な料理が並んでいる。 「ん?宵は?」 「宵様は急な政務が入り、今宵は書斎にて済まされるとのことです」 「そ」 正直、ホッとした。あんなキスをされた後に、どんな顔をして向かい合えばいいのか分からねぇし。 使用人は手際よくテーブルに料理をセッティングすると、ごゆっくり、とだけ残して静かに退室していった。 贅沢にハーブがあしらわれた肉料理に、色鮮やかな温野菜。 宵に振り回された精神的な疲労のせいで、思った以上にお腹は空いていた。 「いただきまぁす」 ガラスの器に注がれた透明なスープにスプーンを入れる。 早く美味い飯にありつきたくて、器の底からすくい上げようとした、その時だった。 カツリ、と。 スプーンの先に、骨付き肉とも違う、妙に硬質な感触が当たった。 「……ん?」 手元を止めて、透き通った琥珀色の液体をじっと見つめる。 スプーンでそっとその異物を掬い上げ、ランプの光に透かしてみた。 「おいおいおいおい、嘘だろ……」 銀のさじの上でキラリと鋭く光を反射したのは、細かく砕かれた、数片の透明なガラスの破片だった。 もし気づかずにそのまま口に運んで飲み込んでいたら。 「あっぶねーな、殺す気かよ……」 ——殺す気、なんだろうな。 背筋に冷たい汗が伝う。 実家を救うための政略結婚で、のんびり自堕落な自堕落生活を満喫してやるつもりだったのに、この城の人間は想像以上に狂ってる。 歓迎されていないどころの騒ぎじゃない。 これは明確な排除の意志だ。 ガラス片を皿の端に避け、スプーンを置く。流石に食欲が綺麗に失せた。 あの無表情な使用人が仕込んだのか、それとも厨房の段階で誰かが紛れ込ませたのか。 しばらくしてノックの音がすると、さっきの使用人が静かに部屋に入ってきた。 テーブルの上にほとんど手つかずのまま残された料理と、皿の端でランプの光をギラリと反射させている透明な破片。 使用人はその光景を見ても、眉一つ動かさなかった。 ただ淡々とワゴンに食器を戻していく。 「お気に召しませんでしたか。それとも、食欲がございませんでしたか」 「いや?料理は美味そうだったよ」 俺はソファーの背もたれに深く体重を預け、あえて冷え切った視線を使用人の無表情な横顔へとぶつけた。 「たださ、シェフにすげぇ隠し味が入ってたって言っといて。……喉がズタズタになりそうな、透明で尖った調味料」 精一杯の毒づき。だが、使用人は片付けの手を止めることなく、ただ深く頭を下げただけだった。 「……畏まりました。そのように伝達いたします」 「……そ」 ほー、なるほどね。 下がっていく使用人の背中を見送りながら、俺は小さく息を吐き出した。 敵が敵なら、この城で働く使用人もこうならざるを得ないわけだ。 だからあいつ、初対面の時から終始無表情で、こっちが引くくらい肝が据わってたんだな。 主の毒見役はいても、お飾りの男の正妃がどうなろうと知ったこっちゃない。 あるいは、彼らにとってこの手のお披露目は日常茶飯事なのか。 「自堕落生活も命がけか。やってらんねぇ……」 どさりと天蓋付きのベッドに仰向けにひっくり返る。 結局、腹は減ったままだし、とても眠れるような精神状態じゃなかった。 天井の豪華な装飾をぼんやりと見つめていると、またノックの音が部屋に響いた。 扉を開けて入ってきたのは、やはりあの無表情な使用人。 「ご入浴の用意が整いました」 「あぁ……はい」 ベッドから重い身体を起こす。 どうしても、この男を見る目が警戒で険しくなってしまうのは仕方ないよな。 浴室へ向かおうとすれ違いざま、俺は足を止め、その感情の削ぎ落とされた横顔をじっと見つめた。 「……なぁ」 「何でしょう」 「お前は、信用して良いの?」 直球すぎる問いかけ。 使用人はやはり瞬き一つせず、淡々と、抑揚のない声で答える。 「私は、主の命令が絶対でございます。それ以外に動く理由はございません」 主――つまり、宵の命令だけが、この男を動かす絶対の規律というわけだ。 敵の息がかかっているわけではない、という意味では一先ず安堵していいんだろうけど、同時に、宵が俺を切り捨てればこの男も牙を剥くという裏返しでもある。 「ふーん……じゃあ、その言葉信用するからな。お前の主があいつであるうちは、俺の味方でいてくれよ」 「畏まりました。お召し物はこちらに」 使用人は深く頭を下げ、浴室の扉を開けて待機する。 風呂一つ入るのにもここまで神経を使わなきゃいけないなんて、本当にやってられない。 広々とした浴室は、湯気で白く煙っていた。 一応、不審なものが浮いていないか、湯船の底に変な細工がないかを隅々まで確認する。今の所、浴室には何もおかしなものは無さそうだ。 衣服を脱ぎ、たっぷりと注がれた湯に身体を沈める。 じわ、と一日の緊張がほぐれていくような熱が皮膚を包み込んだ。実家のお湯よりも少しだけ香草の匂いが強い。 「はぁ……まじでスリリングすぎるだろ、この家……」 湯船の縁に頭を預け、天井を見上げながら深くため息を吐き出す。 宵のあのえぐいキスの感触が、湯気の熱さのせいでまた妙に生々しく蘇ってきて、俺は慌ててお湯を手ですくって顔を洗った。 お飾りだのビジネスだの言っておきながら、あの男の行動は一貫性がない。本当に喰えない男だ。 これからの生活への不安が頭をぐるぐると駆け巡り、完全にぼんやりとしていた、その時だった。 ガサ、ガサガサッ。 静かな浴室の室内に、場違いな硬い音が響いた。 お湯の跳ねる音じゃない。明らかに、外の庭園に面した細い窓の向こうから聞こえる、草木をかき分けるような不気味な足音。 「……っ」 一瞬で全身の毛穴が粟立ち、心臓がどき、と跳ねる。 湯船の中で身を硬くし、音がした窓の方へと視線を走らせた。 擦りガラスの向こう、夜の闇の中に、何かが蠢いているような歪な影が浮かんでいる。 ——マジかよ。 男の風呂を覗きに来るやつまでいんの? 手早く水気を拭い、備え付けの柔らかなバスローブに袖を通す。窓の外の気配を伺いながら急ぎ足で脱衣所を抜け、寝室へと戻った。 すると、だだっ広い部屋のソファーに見覚えのある影が腰掛けていた。 「……はぁ、お前、なんでいんの」 呆れを隠さずに声をかけると、宵は手元に置いていた書類からゆっくりと顔を上げた。 すでにバスローブに着替えており、昼間の張り詰めた空気は綺麗に消え去っている。 「失礼いたします」 俺の背後から音もなく現れた使用人が、滑らかな手つきで俺を椅子に座らせ、濡れた髪に布を当てた。 温かい布が髪を乾かしていく。 なんか昨日ここに来たばっかりなのにさっそく髪の毛乾かされ慣れてる俺、すごい順応性。 髪を乾かされながら鏡越しに視線を送ると、宵はソファに背もたれを預けたまま、くす、と喉を鳴らした。 「なぁ、お前の二十人のかわいこちゃんはどうしたんだよ」 「かわいこちゃんたちなら多分部屋にいるよ。でも、正妃はお前でしょ」 「お飾りだって言ったのはどこのどいつだよ。俺はいいからそっちの相手してろって」 「つれないなぁ」 タイミングが悪い。 浴室の外にいた何者かの気配のせいで、こっちはそれどころじゃない。 さっさと適当に駄弁って、適当に眠いとか何とか言って国王様には自分の寝床に帰ってもらおう。 そう腹を決めて前を向いた時、使用人がぴたりと手を止めた。 「いいよ、下がって」 まだ髪が完全に乾ききっていない段階での指示に、使用人は一瞬だけ手を止め、それから異論を挟むこともなく深く頭を下げた。 「畏まりました。それでは、これにて失礼いたします」 使用人が静かに部屋を出ていく。 パタン、と重厚な扉が閉まり、広い部屋に完全な二人きりの沈黙が訪れた。 「おい、まだ髪湿ってんだけど」 「続きは俺がやるよ」 「はぁ?」 宵はソファーから立ち上がると俺の元へと歩み寄ってきた。 宵の衣服から、昼間とは違う、石鹸の仄甘い匂いが漂ってくる。 その綺麗な眼が、俺の顔を、それから少し強張っている肩のラインをじっと見つめて細められた。 「……凪音。なんか、顔色悪くない?」 「湯あたりしただけだし」 「嘘。お前、さっき浴室で何かあった?」 覗き込んできた顔があまりに近くて、俺は思わず息を呑んだ。 社交辞令の距離感を、この男は最初から持ち合わせてないらしい。

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