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第15話 小さい思い出

頭の中が、真っ白になった。 あまりに突拍子のない言葉に、さっきまでボロボロと勝手に溢れていた涙が一瞬で止まる。 宵が俺の髪をするりと撫でる。 「凪音しか、抱いてない」 「なん……で」 「覚えてないかな」 ——覚えて……? 「……は? 何を……」 「まだ小さかった時に、俺と凪音は一度会ってるの。お前の家でだよ」 あいつの胸元に顔を押し付けられたまま、俺は必死に記憶の引き出しをひっくり返す。 それでも、何のことだか全然分からない。 「……おれの家? 」 全然ピンとこない。 当時の俺はやたらと冷めたクソガキで、誰に対しても心が開けなくて、それに困り果てた両親が、どうにか俺に友達を作ろうとやたらと同じ年くらいの子供を家に連れてきた時期があった。 結局、俺がそれで変わることは無かったし、誰が来たって全部無視して、さっさと部屋に引きこもっていた。 まさか。 「……その頃、うちに来てた子どもの一人が、お前だったってこと?」 俺が呆然と呟くと、宵は俺の髪をするりと長い指で撫でながら、「そう」と優しく囁いた。 「あの頃の俺さ、実家の教育とか、次期国王としての重圧が厳しくて、かなりひねくれてたんだよね。だから、お前の家に行った時も、同じように心を閉ざして周囲を拒絶してるお前を見て……あぁ、俺と同じ奴がいる、って思った」 耳元に触れる宵の声が、どこか懐かしむように、いつもより少しだけ低くなる。 「お前、部屋の隅でずっと、海の生き物の図鑑を見てた。俺がいるのに何にも喋んなくて。俺、気になって、後ろから覗き込んでたの。怒られるかな、って思いながら」 「……」 「そしたらお前、手を止めて、俺の顔を見て……『一緒に見る?』って、図鑑を半分こっちに差し出してくれたんだよね」 自分の胸の奥が、小さな音を立てて跳ね上がった。 記憶の底を探る。そう言えば、そんなことがあった気がする。 誰が来ても鬱陶しくて、早く帰れとしか思っていなかったのに、一人だけ、俺と同じくらい死んだ目をしたガキが後ろに立っていて。 そいつの気配があんまり静かだったから、初めて自分から声をかけた。 「お前は覚えてないかもしれないけど、あの時、二人で並んで、深海に潜ったみたいに静かに絵本を見た時間が……俺にとっては、息の詰まるような日常のなかで、唯一息ができた場所だった」 宵は何度も俺の髪を撫でる。 「帰り際、使用人の後ろに隠れた俺に、お前、小さく手を振って『またね』って言ったんだよ」 真っ暗な部屋の中、差し込む月明かりが、宵の濡れた瞳を青白く照らし出していた。 「俺、馬鹿だからさ」 宵が小さく笑う。 「本当にまた会えると思ってた」 「……」 「次に会った時は、今度は俺から話しかけようと思ってた」 「……」 「友達になれるかもしれないって、本気で思ってた」 宵の指が、俺の髪を優しく梳く。 「でも会えなかったし、当時はガキだから凪音がどこの誰かもわかんなくってさ、お前の顔とキラキラ光る髪しか覚えてなくって」 「気付いたら俺は国王になって、お前のことも忘れなきゃいけない立場になってて」 宵の声は静かだった。 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。 ただ昔話をするみたいに、穏やかで、さっきまで荒れ狂ってた心がどんどん静かになる。 「正妃を迎えなきゃいけない年齢になってさ」 長い指先が、俺の頬に流れる涙を何度も拭った。 宵の指先に、妃のつけた口紅の赤が移る。 「でも、誰か一人を正妃に選んだら、後宮は今よりもっと酷いことになるって分かってたし」 「……」 「二十人の妃の中から一人を選んだ瞬間、その人間の実家と、それ以外の十九家全部が敵になる」 ふ、と宵が苦笑する。 「俺、結構平和主義なんだよね」 嘘つけ。 あんなに俺のこと引っ掻きまわしたくせに。 「だから最初は、男を立てるつもりだった」 「男……」 「誰の子どもも産めない正妃なら、少なくとも表向きは公平だから。誰の血筋も特別にならない。みんな平等に不満を抱ける」 あまりにも宵らしい、合理的で冷たい答え。 やっぱりそうなんだ。 俺はただの政治。後宮を回すための部品。 「だから男の正妃を選んだ。お飾りにするつもりで」 「でも婚礼の日、ヴェールの向こうの顔を見た瞬間、凪音の金色の髪が見えて」 それで、あの時金って、呟いたんだ。 あー……鼓動が、うるさい。 耳の奥で、嫌になるくらい大きく鳴っている。 「嬉しかった」 飾りも駆け引きも無い、静かな声。 「やっと会えたって思った」 宵の額が、こつりと俺の額へ触れる。 「だから婚礼のキス、ちょっと我慢できなかったんだよね」 「……ふふ」 「ごめん。あれは完全に俺が悪い」 そんな空気じゃないのに。 そんな話をしている場合じゃないのに。 笑っちゃうじゃん。 宵は俺の髪へ唇を寄せて小さく笑う。 「俺、多分、お前が思ってるより、ずっと前からお前のこと好きなんだよ」 「……じゃあなんで二十人も……」 何だかんだ言いながらお前規格外の妃の数、自覚してんのかな。 「妃を迎える度に思ってた。これで周りも満足するかなって」 「でもダメだった。んで気付けばこんな数」 愛だの恋だので結婚が成立する世界じゃないのは俺だって知ってる。 だって俺がここに来たのがそうだから。 「子どもを作らなきゃいけないのに」 「抱かなきゃいけないのに」 ぽつ、ぽつと宵が声を零していく。 「好きでもない人を抱くって、思ったより難しいんだね」 国王は相当女遊びが激しい、それは周知の事実みたいな噂だったのに。 目の前に居る男がそれだなんて、どう考えても結びつかない。 今目の前に居るこの男はそんな人間じゃない。 「でも、お前、俺が来てから一ヶ月くらい、ずっと妃たちのとこ回ってたじゃん」 「あー……うん、行ってた」 「じゃあやっぱり」 「抱いてない」 「はぇ……」 夜通し妃の所に行って?抱かずに喋って寝てただけなの? 「なんで」 「分かんないんだけど、そういうことしたいって思えなくて」 「……」 俺にはキスしたのに?抱いたのに? 「凪音とキスした時だけは、もっとしたいって、思った」 「……俺、その頃のこと、あんまり覚えてない」 ぽつりと言葉を零した瞬間、俺を抱きすくめていた宵の身体が、ほんの少しだけ強張った気がした。 いつも余裕を崩さないこの男が、俺の拒絶を恐れるように、微かに息を詰めている。 それがなんだか可笑しくて、胸の奥がむず痒くて。 俺はわざとぶっきらぼうな声を重ねた。 「最初にキスされた時だって、普通に最悪だったし」 「……うん」 「男相手とか意味分かんなかったし、お前性格悪いし、すぐ人のことからかうし」 腕の中の俺を覗き込んできた宵が、諦めたように小さく笑う。 「それは否定できないなぁ」 「でも」 続く言葉が、喉の奥につかえる。 心臓が、耳の奥で嫌になるほど大きな音を立てていた。 こんなもの、口に出してしまったら多分もう戻れない。 お飾りだとかビジネスだとか、そんな都合のいい言い訳のなかに逃げ込むことは二度とできなくなる。 だけど、真っ直ぐに俺だけを映す夜色の瞳を見ていたら、もう誤魔化し続けることなんて出来なかった。 「……宵とキスするの、嫌いじゃない」 「……」 「むしろ、多分、好き」 月明かりの中で、宵の目が分かりやすく見開かれる。 あの喰えない国王様が、完全に言葉を失って俺の次の言葉を待っている。 「あと、お前に抱きしめられるのも」 「……」 「名前呼ばれるのも……全部」 「……」 「だから、多分」 視界が焼けつくみたいに熱い。 これ以上あいつの顔を見ていられなくて、俺は逃げるみたいに、宵の胸元に額を押し付けた。 「俺も、お前のこと好きなんだと思う」

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