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第16話 つながる想い
──言ってしまった。
しばらくの間、何の音もしなかった。
部屋を満たす静寂のなか、聞こえるのは重なり合った心音と、お互いの呼吸の音だけ。
いつもならすぐに軽口を叩いて俺を翻弄するはずの男が、信じられないほど静かに固まっている。
じっと反応を待つ数秒が、まるで永遠みたいに長く感じられた。
「……凪音」
耳のすぐ近くで、ひどく甘い声が落ちてくる。
「なに」
「今の、もう一回言ってって言ったら怒る?」
「……怒る」
ぐしゃぐしゃに泣いた後の鼻をすん、とすすってそう言うと、宵がふっと小さく笑った。
「そっか」
その言葉を噛み締めるみたいに宵はまた動かなくなってしまった。
「……じゃあ、キスしていい?」
「……」
「返事ないとするよ」
「ずる……」
「うん」
宵の手が、胸元に顔を埋めたままの俺の顔をゆっくり持ち上げた。
「酷い顔。ぐっしゅぐしゅ」
「……うるせぇ……めちゃくちゃ、怖かったんだからな」
顔にへばりついた落ちない口紅。
付き飛ばされた時に枝で切った頬。
どろどろの指先。
「……そうだね」
そのまま愛おしさをなぞるように、ゆっくりと唇が近付いてくる。
瞼へ。
鼻先へ。
頬へ。
そして、最後に重なった唇は、婚礼の日のような強引さも、お酒に酔った夜のような熱っぽさもなかった。
ただ、そこに存在することを確かめるみたいな。
壊れ物を扱うみたいに優しい静かなキス。
唇が離れても、宵は俺の頬を包んだまま、しばらくの間ぴくりとも動かなかった。
じいっと俺の顔を見てるだけ。
長い沈黙が落ちて、ようやく口を開く。
「……ねえ、凪音」
宵は頬から手を離してまたきゅう、と俺を覆い隠すみたいに包んだ。
宵の顎が俺の頭頂部に添えられ、ぽつりと、信じられないほど弱気な声が零れた。
「……夢じゃない?」
まるで迷子のような声でそんなことを呟く。
心臓の奥が、愛おしさでめちゃくちゃに掻き乱された。
俺は宵の胸元に顔を埋めたまま、その衣服の生地をぎゅっと掴み直した。
「知らねぇよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てながらも、掴んだ手は絶対に離さなかった。
現実だと証明してやるみたいに、俺の体温のすべてをあいつの胸へと押し付ける。
宵は丸くなった俺の後頭部に何度も確かめるみたいにキスをしてた。
「……ふはっ」
ふと見上げた宵の唇に、琳が俺に付けた赤が移って、なんか唇の血色がやたら良くて。
「なに?」
「いや?」
なんかこいつこんなに可愛かったっけって思ったらまたちゅ、て唇が触れて。
「……お風呂、入らないとね。顔の傷も手当しないと」
ぽつりと落ちた宵の声に、ようやく自分の頬がひりついていることを思い出した。
意識した途端、昼間の記憶がじわりと身体の奥から蘇ってくる。
「……うん」
宵は俺の髪をひと撫ですると、そのまま俺を解放してベッドサイドのベルをちりん、と鳴らす。
使用人を呼ぶ合図。
「いかがなさいましたか」
返事はすぐに帰って来た。
「お湯の準備して」
扉の外で控えていた使用人が、すぐに小さく応じる。
「今日はこっちの湯殿を使うから」
一瞬だけ、奇妙な間が空いた。
「……畏まりました」
静かな足音が風呂場の方へ遠ざかっていく。
俺はその気配を見送ってから、ゆっくりと宵を見上げた。
「……なぁ」
「ん?」
嫌な予感が頭をもたげる。
というか、十中八九当たっている。
「一緒に入るとか言わねぇだろうな」
宵は答えなかった。ただ、にこにことした笑みを浮かべて俺を見つめている。
「おい」
「ん?」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「今の顔」
絶対に何か企んでいる時の顔だ。
「今日だけだから。一回だけ、ね?」
その言い草は多分違うときに使うやつだぞ宵。
それから、ニコニコした顔をふと緩めると静かに呟く。
「……今日は、一人にしたくない」
あまりにも真っ直ぐな言葉に射抜かれ、俺は反射的に視線を逸らした。
ずるいなこいつほんとに。
「……風呂くらい普通に入れるし」
「うん」
「……子どもじゃねぇし」
「うん」
言葉ではすべて肯定してくるくせに、部屋を出ていく気配は微塵もない。
それに俺も、帰れと強く突き放すことができなかった。
しばらく無言の視線の衝突が続いた後、先に根負けしたのは俺の方だった。
「……今日だけだからな」
宵が、安心したみたいにふ、と笑った。
「うん」
その顔が悔しいくらい綺麗で、俺は気恥ずかしさを誤魔化すように宵の服の裾をぐいっと引っ張った。
「……あと」
「うん?」
「先に言っとくけど、変なことしたら蹴るからな」
宵はわざとらしく、少しだけ考える仕草を見せる。
「その変なことの定義、確認してもいい?」
「帰れ今すぐ帰れ」
低く吐き捨てると、宵の柔らかな笑い声が静かな部屋の中に溶けていった。
浴室に満ちる白い湯気が緊張していた身体をじんわりと解きほぐしていく。
洗い場の椅子に座らされて、宵が泡立てた布で俺の身体を優しく包み込んでいく。
泥にまみれていた指先を一本一本、爪の隙間まで確かめるように丁寧に洗われる。
くすぐったくて身を竦めると、宵は小さく笑って、今度は俺の首筋へと泡を広げた。
琳に無理やり押し付けられた、歪な口紅の跡。それを、宵は自分の親指の腹で優しく何度も撫で落としていく。
「白いね、凪音の肌。キレイで、好き」
湯気の向こうから、宵の穏やかな声が降ってきた。
「いや、お前の方が白いだろどう見ても」
大概、俺も自分のことは色白で顔もまぁそれなりに整っている自覚はある。それでも改めて目の前で濡れている宵の破壊力はすごい。
発光するみたいに白くて滑らかな肌、水を弾く細くて長い指先。伏せられた目元には、影を落とすほどに長い睫毛が並んでいて、たぶん睨まれたら竦むだろうなって思う程切れ長の目をしてる。
悔しいけれど、見惚れるほどに綺麗なんだよなぁ。
湯船の中でじっと観察していると、視線に気づいた宵が、こちらを見た。
「なぁに?」
悪戯っぽく微笑んだ宵が、濡れた手を俺の頬に添える。
「……なんでもねぇよ」
逸らそうとした顔を固定され、そのまま唇に、ちゅ、とキスが落ちる。
「ん、……っ」
驚いて息を詰まらせる俺の隙を突くように、宵の唇はそのまま顎のラインを滑り、口紅を洗い落とされた首筋へと移動する。
鎖骨の窪みに、わざと音を立てて深いキスを刻み込まれる。
「——っ!おい、変なことしたな!」
赤くなったであろう場所を片手で押さえ、宵から距離を取る。
「えー、これくらいも駄目なの?」
宵はちっとも反省していない顔で、ふにゃりと眉を下げてみせる。
「駄目に決まってんだろ」
「ね、もう一回していい?」
「お前、一回湯船に沈めよ」
言いながらお湯をバシャリと跳ね上げると、宵は楽しそうに声を上げて笑った。お風呂の中に響く賑やかなやり取りが、ようやく昼間の恐怖を洗い流していく。
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