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【第1話 推しのいる生活】教師の顔、オタクの顔

「ただいま。今日も仕事疲れたよぉ」  リビングの扉を開き、夏目は大きく息を吐いた。  着ていたスーツも脱がずにベッドに倒れ込む。疲れ切った夏目を迎えてくれたのは、推したちのぬいぐるみだ。と言っても、お出かけ用のぬいぐるみではなく、自宅用の大きいサイズのものだ。 「あー、今日も推しが僕を出迎えてくれる……」  ネクタイを緩めるのも忘れたまま、大きなぬいぐるみをギュッと抱き締める。 「今日も一日頑張ったよ」  そう話しかけるが、勿論返事はない。それでも不思議と心の奥が温かくなる。  学校では「吉澤先生」と呼ばれ、生徒の前では真面目な教師を演じている。授業中に笑顔を見せても、それは教師としての笑顔。本当の自分を見せているわけではない。  けれど、この部屋だけは違う。  誰の目も気にせず、大河や宗次郎の話をして、グッズを眺めて、舞台の映像を繰り返し観ることができる。 「おかえりって言ってるみたいだな」  少し照れ臭そうに笑うと、ぬいぐるみをそっとベッドへ座らせた。  この部屋だけが、教師ではなく『吉澤夏目』に戻れる唯一の場所だった。  夏目はリアルの世界では高校で数学を教えている教師だ。高校教師なんて聞こえはいいが、ブラック企業以外の何ものでもない。朝早くから出勤し、夜遅くまで業務に追われる。働き方改善とは無縁の世界だ。  そして何より彼の人生は平平凡凡。特技も取り柄もない。  見た目は「可愛い」と女子生徒から言われることがあるものの、男が可愛いと言われたところでそれは誉め言葉なのだろうか? 癖の強い髪は自由気ままにピョンピョンと跳ね、身長だって百七十二センチと高くもなく低くもない。成績はよかったかもしれないが、運動神経は普通。中学、高校とバスケット部に所属していたが万年補欠。  夏目は全てが普通。集団の中に不思議なほど溶け込んで目立つことはない。  そんな彼にとって推しは、まだ高校二年生だというのに神様のような存在だった。 「癒される……」  近くにある推しの似顔絵が描かれたクッションに顔を埋め、最近発売された曲をスマホで流す。推しと触れ合うことができなかった数時間が、どんなに辛く寂しいものだったか……。  『劇団 花鳥風月(かちょうふうげつ)』。創立されて今年二十周年を迎える国内でも有名な劇団だ。団員は三百人を超し、有能な役者が多数在籍している。その中から引き抜かれた者が、テレビで活躍している姿も見かける。全国各地を巡り、その活躍ぶりは留まることを知らない。  中学、高校と演劇部だった友人に連れられ、劇団 花鳥風月の公演を見にいったのは今から二年前のことだ。それまでは演劇に興味などなかったのに、すっかりその劇団の虜になってしまった夏目は、それからというもの二人の推しを見るために頻繁に足を運ぶようになる。花鳥風月にとても魅力的な俳優を二人も見つけてしまったからだ。  最初の頃は「かっこいいな」と憧れを抱く程度だったのに、ある舞台をきっかけに、まるで雷に打たれたかのように運命的なものを感じてしまった。  その舞台は、親友同士だった二人が敵として戦わなければならない悲劇だった。  宗次郎が涙を堪えながら剣を握り締める姿。大河が震える声で「それでもお前を守りたかった」と叫ぶ姿──。  二人の演技は、演技だとわかっているのに胸を締め付けられた。  客席ではすすり泣く声があちこちから聞こえ、公演が終わっても誰も立ち上がることができなかった。  涙でぼやける舞台を見つめながら、ハンカチを握りしめる。  物語に泣いたのか。  二人の演技に泣いたのか。  もう自分では分からない。ただ、その日を境に『好きな役者』ではなく『人生をかけて応援したい推し』へと変わっていた。  

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