6 / 43

推しとの会話

 放課後、廊下を歩いている夏目に突然声をかけてきたのは宗次郎だった。その瞬間、夏目の心臓がバクンと大きく拍動を打ち、一瞬止まったように感じる。周りの音が消えて、時間が異常にゆっくりと流れる。それなのに再び動き出した自分の心臓の音だけが鼓膜に響いた。 (どうしよう、どうしよう……どうしたらいいんだよ!)  どんなに歯を食いしばっても体がブルブルと震え、緊張のせいか目の前が霞んで見えてきた。ここは酸素が薄いのだろうか……呼吸が思うようにできない。「逃げてしまいたい」、衝動的にそう思った。  目の前にいる眉目秀麗な青年は、夏目が思わず見上げてしまうほど背が高い。宗次郎のプロフィールには身長百八十五センチと書かれているが、こんなにも大きいとは想像もしていなかった。  厳ついわけではないのに綺麗に筋肉がついた体は、同性の夏目が見ても惚れ惚れするほどだ。黒々と光る肩まで伸びた髪をハープアップでまとめ上げている。切れ長の目に、耳にはピアスが付いておりパッと見は不良だ。 「クラスメイトに聞いたら、子犬みたいに可愛い先生が担当だって教えてくれたんですけど、夏目先生って本当に可愛らしい方ですね」 「か、か、可愛らしいなんてとんでもない! お、大人をからかわないでください!」 「ふふっ。そんなに怒らないで。ごめんなさい」  優しく微笑む姿はとても柔らかい印象を与える。それは夏目がよく知る宗次郎だった。それに、この宗次郎という青年は女性関係で常に週刊誌を賑わせている。きっと今みたいにさらっと「可愛らしい」という誉め言葉が出てくるのだろう。 (危なかった……。モテ()ってこんな感じなのか……)  うっかり、ぬかよろこびしてしまうところだった。こんなイケメンに「可愛い」などとお世辞を言われ絆されてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。  いくら推しが目の前にいるとしても、ここは学校だ。推しでタレントという関係の前に、教師と生徒だ。ここで宗次郎たちのおっかけをしているオタクだなんて、本人に知られるわけにはいかない。  しかし、いくら「冷静になれ」と自分に言い聞かせても、推しが目の前にいるという状況に夏目はパニックになってしまう。いつも公演やイベントで遠くからしか見つめることができなかった存在……いつも大勢のファンに囲まれて神様みたいにキラキラ輝いていた。  平凡過ぎる自分がどんなに望んでも、一生接点などないと思っていた人が、今手を伸ばせば 届くところにいる。  図書委員の担当をしていてよかった……心からそう思わずにはいられなかった。 「あ、でもわざわざ来てもらったのに、図書委員の仕事は特になくて……放課後に当番制で図書室にいてもらえればいいだけなんです。本の整理とかは僕がやるので」 「へぇ。じゃあ今すぐ何かをするわけじゃないんですね」 「あ、はい。何か用事を頼みたいときには、僕から連絡します」 「はい。お願いします」  宗次郎は丁寧に頭を下げてから夏目に背を向ける。それを見て全身の力が抜けていき、その場に崩れ落ちそうになってしまった。  舞い上がってしまった自分は、宗次郎の目にはさぞや滑稽に映ったことだろう。顔は茹蛸みたいに真っ赤だし、声も裏返っていた。 (今すぐ消えてしまいたい……)  念願の推しに会えたのに、夏目は悲しくなってしまう。こんなことなら、急に出会ってしまったら、という場面を想定しシミュレーションをしておくべきだったと悔やまれてならなかった。 「あ、夏目先生」 「は、はい! 今度はなんでしょうか!」 「その胸に刺さっているボールペン、モトヤガの限定グッズですよね? 確か入手困難で、なかなか手に入らなかったって聞いたけど……」 「あ、あ、こ……これは……」  宗次郎が意味深な笑みを浮かべながら振り返ったから、思わずワイシャツのポケットに入っているボールペンを手で掴む。うっかりしていた。もっと早くに気が付いて目立たないポケットにしまうべきだった。こんなレアグッズを大事に持っていることを知られたら……額を嫌な汗が伝う。  心臓が止まりそうになった。  よりによってそれに気付くなんて。  このボールペンは昨年のファンミーティング限定グッズだ。販売開始から数分で完売し、ネットでは定価の何倍もの値段で取引されていたほどの人気商品。  何時間も通販サイトに張り付き、ようやく手に入れた夏目の宝物だった。  普段はガラスケースの中へ飾ってある。今日はたまたま「使わないともったいないかな」と思って胸ポケットへ差してきただけだった。 (どうして今日なんだ……)  朝の自分を全力で止めたい。 (お願いだから、それ以上聞かないで……)  教師としてではなく、一人のオタクとして終わってしまう。  宗次郎はそんな夏目の様子を見て、小さく目を細めた。 「大事に使ってくれているんですね」  その何気ない一言だけで、夏目の顔は耳まで真っ赤になってしまった。  ようやく静かになりつつあった心臓が、再びやかましい程に鳴り響きだした。 「いえ、なんでもありません。では失礼します」  宗次郎は謎の微笑を唇に湛えると行ってしまう。 (もう気絶しそうだ……)  その場に取り残された夏目は壁に寄りかかりながら、呆然とその背中を見送る。 「はぁはぁはぁ……苦しい……」  呼吸がどんどん浅くなり目の前が真っ暗になる。意識が遠退いていくのを感じた。

ともだちにシェアしよう!