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推しの香り
「はぁぁぁぁ」
お風呂上がりに宗次郎から手渡された洋服を着た夏目は大きく息を吐いた。
大河より宗次郎のほうが身長は低いが、宗次郎の方が筋肉質な体格をしている……悩んだ挙句、大河の洋服を拝借したのだった。しかし袖を通して夏目は愕然としてしまう。
「大河ってこんなに手足が長いのかよ……」
そんなことは一目瞭然だったが、いざ借りた洋服を着てみるとその現実は悲しいくらい夏目のプライドをズタズタにした。仕方なく上着の袖とズボンの裾を折ってみたが、これでは子供みたいだ。
おまけに洋服の肌触りはすべすべしており、思わず頬ずりしたくなってしまう。
浴室においてあったシャンプーやボディーソープもやたら高級そうだったし、洗面台においてあったスキンケアグッズも有名な化粧品会社のものだった。そもそも、夏目はお風呂上がりにスキンケアなどしないのだが……。
「いい匂いがする」
大河の洋服からは甘くて優しい香りがする。今日まで推しの香りなんて知らなかったけど、大河と宗次郎からはとてもいい香りがした。これが体臭なのだろうか? そう不思議に感じるほどの自然な香りに、夏目の鼓動は速くなる。
「これが、推しの匂い……」
そう思うだけで、頬がカァッと熱くなる。まさか、自分が推しの香りを感じるときがくるなんて……想像もしていなかった。ただ見ていることしかできなかった推しが、今は近くにいる。
(信じられない……)
夏目は洋服に顔を埋めて、控えめにその香りを吸い込んだ。
気が利く宗次郎は空いている部屋に布団まで敷いておいてくれた。ルームツアーをしたわけではないが、大河と宗次郎には一人一人の部屋があるようだ。それでもまだ部屋が余っているあたり、相当広いマンションなのだろう。
用意してもらった布団だってふかふかで気持ちいい。何から何まで夏目が知っている世界からかけ離れたものだった。
「疲れた……」
倒れ込むように布団に包まり大きな溜息をつく。まるでジェットコースターに乗っているような一日だった。
「まさか、自分が推しの家に泊まることになるなんて……」
面倒くさくて仕方なかったパトロールに出かけるまで、こんなことは予想さえしていなかった。今だってまるで狐に化かされているのではないか、と不安になってきてしまう。しかし自分で頬を抓れば痛みを感じ、これは夢ではないのだと思い知った。
「推しが自分のすぐ近くにいる」
何度繰り返し呟いても、やっぱり現実味なんてない。だって、モトヤガは遥か遠くの舞台でいつもキラキラと輝いていたのだ。大勢のファンに愛され、その笑顔はみんなのものだ。
自分だけにその笑顔が向けられるはずなんてない。そんなこと、あり得ない……。なぜなら、彼らは大スターなのだから。
これからどうすればいいのだろうか? 先のことを考えると夏目は不安になってくる。いつまでもここにいることを許されるはずがない。彼らが話すマネージャーに相談すべきなのか、ご両親に現状を報告すべきなのか?
夏目が今、「やっぱり自宅に帰る」なんて言ったら、きっと二人は寂しがるはずだ。そんな二人を夏目は見たくなんてない。そもそも、自分がここに来たことを喜んでくれていた姿を見ているうちに、そんなことなんて言い出せない雰囲気になってしまっていた。
「あ、モトヤガのぬいぐるみたち、寂しがってるかなぁ」
ふとベッドの上にちょこんと座っている二つのぬいぐるみを思い出す。
「やっぱり教師が生徒の家に泊まるなんて駄目だ。明日二人にちゃんと話して家に帰ろう」
そんなことを考えているうちに段々と瞼が重くなり、夏目は意識を手放した。
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