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帰らないでよ
大河は持っていたグラスをテーブルへ置き、宗次郎も笑顔を消した。
「帰るの?」
「はい。着替えもありませんし、今日中にやらなければならないこともありますから」
「今日、仕事ないんだろ?」
「仕事がなくても、家のことがあります」
「ここにいればいいじゃん!」
「そういうわけにはいきません」
できるだけ優しく答えたつもりだったが、大河の眉間に皺が寄る。
「昨日、俺たちを守るって言ったよな?」
「言いましたけど……」
「だったら帰るなよ」
「八神君。それとこれとは話が別です」
「別じゃない」
大河は椅子から立ち上がると、夏目の正面に立った。
「先生が帰ったら、また俺たちだけになる」
「二人いるじゃないですか?」
「そういう意味じゃないって、昨日も言っただろ」
大河の声が僅かに震えている。反抗的に見える表情の奥に、隠し切れない不安が浮かんでいた。
「先生がいたら、飯も一緒に食べられるし、話もできる。朝起きたら、先生がいる」
「ですが……」
「帰らないでよ」
まるで幼い子供が母親を引き止めるような言葉だった。
大河は夏目のシャツの裾を掴み、俯いてしまう。
「一人にしないで」
「八神君……」
「俺は一人じゃない。宗次郎がいる。でも、宗次郎だって俺と同じだから」
その言葉を聞き、夏目は宗次郎へ視線を向けた。
宗次郎は困ったように微笑んでいる。
「本宮君も、僕に帰ってほしくないんですか?」
「先生を困らせたくはありません」
「それは、帰ってもいいという意味ですか?」
「いいえ」
宗次郎はゆっくりと首を横に振った。
「本当は、僕も帰ってほしくありません」
いつも冷静な宗次郎が、言いにくそうに目を伏せる。
「昨日、先生がここに来てくれて、初めてこの部屋が家らしくなった気がしました」
「家らしく……?」
「今までは、仕事が終わって眠るためだけに帰ってくる場所でした。広くても、立派でも、僕たちにとってはホテルと変わらなかった」
宗次郎は昨夜三人で囲んだ食卓を見つめる。
「でも昨日は違いました。誰かが僕たちの帰りを心配してくれて、温かい食事を作ってくれた。朝になったら、また先生の顔を見ることができた」
穏やかな声の奥に、隠し切れない寂しさが滲んでいる。
「こんなに安心して眠れたのは、久しぶりだったと思います」
「本宮君……」
「だから、先生が帰ると聞いたら、寂しいです」
大河のように強引に引き止めるわけではない。それでも宗次郎の言葉のほうが、夏目の胸へ深く突き刺さった。
「僕たちのことを守りたいと言ってくれましたよね?」
「……はい」
「その言葉を信じてもいいですか?」
真剣な瞳を向けられ、夏目は答えに詰まる。
二人を放っておけない気持ちは本物だった。
夜の街で危険な相手を探し、一晩だけの温もりで寂しさを紛らわせようとしていた二人を、もうあの場所へ戻したくない。
しかし、自分は教師だ。生徒と同じ家で生活するなんて、常識的に考えれば許されることではない。
「僕がここにいることを、学校や事務所に知られたら大変なことになります」
「誰にも言わない」
大河がすぐに答える。
「そういう問題ではありません」
「あんたは俺たちに悪いことするの?」
「するわけがないでしょう⁉」
「なら問題ないじゃん」
「あります!」
大河の極端な理屈に、夏目は頭を抱えた。
宗次郎が二人の間へ入り、宥めるように口を開く。
「ずっととは言いません。僕たちが新しい学校や生活に慣れるまででも構いません」
「でも……」
「先生の部屋も用意します。必要なものがあれば、僕たちが揃えます」
「そういう問題でもありません」
「家賃もいりません」
「お金の問題でもないです!」
「じゃあ、何が問題なの?」
大河が夏目の顔を覗き込む。
「先生は俺たちが嫌い?」
「嫌いなわけがない!」
考えるよりも先に答えてしまった。
大河と宗次郎が同時に目を見開く。夏目は自分の失言に気付き、慌てて口元を押さえた。
「その……教師として、生徒を嫌いではないという意味で……」
「本当に?」
「本当です」
「だったら、ここにいてよ」
大河は夏目の腰へ両腕を回し、強く抱きついた。
「八神君!」
「帰らないって言うまで離さない」
「子供みたいなことを言わないでください!」
「子供だよ。先生が言ったんだろ。俺たちはまだ子供だから守ってやりたいって」
「こういうときだけ子供にならないでください!」
引き剥がそうとしても、大河はますます腕に力を込める。
「絶対離さない」
「困ります!」
「お願い、帰らないで」
耳元で小さく囁かれ、夏目の抵抗する力が緩んだ。
大河の声は、昨夜公園で聞いたものよりもずっと弱々しかった。この子は、本当に寂しいのだ。
「僕もお願いします」
宗次郎が夏目の手を握る。
「先生がいてくれたら、もう夜の街へは行きません。食事もきちんと食べます。勉強もします」
「そこまで約束するんですか?」
「はい」
「俺もする」
大河が顔を上げる。
「先生の言うこと、ちゃんと聞くから」
「本当ですか?」
「多分」
「多分では困ります」
「なるべく聞く」
「それも信用できません!」
思わず声を上げると、大河が僅かに笑った。宗次郎も堪え切れないように笑みを零す。
二人の笑顔を見ていると、張り詰めていた夏目の気持ちまで緩んでしまう。
きっと、このまま帰ることもできる。
教師として正しい道を選ぶなら、二人に別れを告げ、二度とプライベートで関わらないほうがいいのかもしれない。
それでも、大河と宗次郎の寂しそうな顔を見なかったことにはできなかった。
「……わかりました」
夏目が小さく答えると、二人の表情が明るくなる。
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