20 / 43
先生の授業
夏目が二人のマンションで暮らし始めて数週間が経過した、日曜日の昼下がり。
週末は仕事がなかったようで、大河と宗次郎はリビングでゴロゴロとしている。夏目は洗濯や掃除といった家事をしながら忙しなく動き回っているというのに、一向に手伝おうともしない。高校生はこんなものなのかもしれないが、少しは手伝ってほしいと文句だって言いたくなる。
洗濯物を取り込みながら、「これが推しの……案外派手な下着つけているんだな……」と顔から火が出そうになってしまう。
これから買い物に行って夕飯を作って……「弁当ってどうしているんだろう?」そんなことも心配になってくる。
「そういえばもうすぐ定期試験なんじゃ……」
ふとそんなことが頭を過る。この週末二人をずっと遠目から観察していたが、勉強をしている様子は見られなかった。そもそも、学校の成績はどんな塩梅なのだろうか。一度気になりだすと気になって仕方ない。
「あの、君たちは勉強しないんですか? 宿題とか、課題はないんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、二人の眉間に皺が寄る。明らかに「うるさいな」という雰囲気が室内に流れた。
「勉強なんかしなくても大丈夫だよ。俺たち頭いいし」
「え? そうなんですか?」
大河の言葉に夏目は少しだけ驚いてしまう。芸能活動をしながら学業もこなしているわけだから、勉強はできないのではないか……と勝手に思い込んでいたのだ。
「ただ、学校が変わったから教科書も変わってしまって……他のみんなに追いついていけていない部分もあります」
「そっか……」
「だからと言って、何ヵ月ぶりかの連休を勉強に費やすのもなって。先生を目の前にすみません」
「そんな、仕事をこなしながらじゃ大変ですよね」
相変わらず丁寧な言葉遣いの宗次郎が困ったように笑うから、余計なことを言ってしまったかと居心地が悪くなった。でもやっぱり推しの力になりたいという親切心が、メキメキ頭角を現してきてしまうのだ。
「なら僕が教えてあげます」
「はぁ? あんたが?」
「はい、僕一応教師なので……」
「あ、そうか。忘れてたわ」
「……ひどい」
「あははは、ごめんごめん」
少しだけ傷ついてしまった夏目だが、ケラケラと声を出して笑う大河に何も言い返せるはずもなく。いつもは不愛想なのに時々子供のように無邪気な表情を見せることがある。そんな大河を見る度に、夏目の心は甘く締め付けられた。
いわゆる、ギャップ萌え……という現象だ。人形みたいに表情に全く感情が表れないときもあれば、大きな犬のように甘えてくることもある。それが愛おしくて仕方がない。
「じゃあ、教えてよ、先生。まだ夕飯まで時間あるでしょう?」
「あ、はい。わかりました」
「じゃあ俺、教科書持ってくるな」
大河が自室へ駆けていく姿を見送りながら、夏目は思わず頬を緩めた。
画面の向こうでしか見たことのなかった推しが、自分に向かって「先生」と呼び、教科書を取りに走っている。その光景があまりにも現実離れしていて、何度瞬きをしても夢を見ているような気分だった。
しばらくすると、大河は教科書やノートを胸いっぱいに抱えて戻ってきた。
「持ってきた!」
ドサッと勢いよくテーブルに広げるものだから、プリントが何枚も床へ滑り落ちる。
「あっ、もう。ちゃんと揃えて持ってこないと」
夏目が苦笑しながら拾い集めると、大河は悪びれる様子もなく頭を掻いた。
「細かいことは気にしないタイプだから」
「気にしてください」
呆れたように言うと、大河は「えへへ」と子どものように笑う。その無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、結局夏目も笑ってしまった。
一方の宗次郎は教科書をきちんと重ね、筆箱まで揃えて座っている。
「僕は数学が少し苦手なんです。前の学校と進度が違ってしまって」
「じゃあ今日はそこからやってみましょうか?」
夏目は教科書を開き、ノートへゆっくりと式を書き始めた。
「この公式は暗記するより、どうしてこうなるのかを理解したほうが忘れにくいんです」
「なるほど……」
宗次郎は真剣な表情で頷きながらペンを走らせる。
その横では、大河が数式を見つめたまま固まっていた。
「……無理」
「まだ何も説明してないですよ?」
「数字がいっぱい並んでるだけでもう眠い」
「八神君」
「はい……」
しゅんと肩を落とした大河に思わず吹き出してしまう。
「大丈夫。一つずつやれば絶対できるから」
「本当?」
「先生を信じて」
その一言に、大河はぱっと顔を上げた。
「じゃあ信じる」
真っ直ぐ見つめられた夏目は思わず息を呑む。
(そんな顔で見つめられたら反則だろ……)
胸の鼓動をごまかすように咳払いを一つすると、もう一度ノートへ視線を落とした。
「まずはここから解いてみましょう」
二人は素直にペンを動かし始める。
わからないところがあるたびに質問し、理解できると嬉しそうに笑う。その姿はテレビで見る華やかなスターではなく、ごく普通の高校生そのものだった。
夏目はそんな二人を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(教師になってよかったぁ)
そう思えた瞬間は何度もあったけれど、今日ほど心からそう感じた日はなかった。
推しだから手伝いたいのではない。二人が一生懸命頑張る姿を見ていると、少しでも力になってあげたいと自然に思える。
それはきっと、教師としての自分の気持ちなのだろう。
気がつけば、窓の外は夕焼け色に染まり始めていた。
「夏目先生、何から何まで甘えてしまって申し訳ありません」
「い、いえ、気にしないでください。僕が好きでやっていることですから」
「でも、先生がここにきてくれて本当によかった。ありがとうございます」
「と、と、とんでもない! 本当に気にしないでください!」
逆にいつも冷静で紳士的な対応をする宗次郎。時々高校生とは思えないほどの色香を漂わせることもある。幼さの中に見え隠れする大人びた行動と魅力に、クラクラと眩暈がするほどだ。
(駄目だ、心臓がもたない)
バクンバクンと大きな音をたてて高鳴る鼓動に、呼吸をすることさえ忘れそうになってしまい息が苦しい。体中が熱くて、髪が逆立つほどの高揚感を覚える。
「やっぱり僕の推したちは最高だ」
夏目はその場に蹲り、唸り声をあげた。
ともだちにシェアしよう!

