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第4話

「あー、腹いっぱい」 「すげぇ美味かったです。特に餃子。俺、あんな美味い餃子食ったの初めてかも」 「だろー。林のおばちゃんの手包み。レシピ聞いてみ? 教えてくれっから」 「へえ」 「店の跡継ぎ居ないからさ、せめて味だけでも残してぇんだと」 「……へえ」  感心する声が若干躓くようなものになってしまった。でも岳の言い方に悲壮感が全く含まれていないから気まずい空気にはならない。 「どうする? もう帰る?」  いつの間にか岳の店の前まで来ていて、ドアの鍵を開けながら聞かれる。青果店のある方を見つめ「もうちょっと居ても良いですか」と尋ねる。 「冷蔵庫にコーラ入ってっからそれ飲んでく?」  ドアを開ける岳の表情は後ろに立つ綾太からは確認出来ない。でも笑っている気がして綾太は返事もせずに後ろを付いて店内に入る。  綾太が中に入ってしまうと岳がシャッターを下ろす。 「店じまいですか」 「そう。もう人来ねぇもん」 「いつも何時まで開けてるんですか」 「七時。でもお客さんに合わせて八時くらいまで開けてることもある」 「岳さんてここに住んでるんですか」 「まぁ、ほぼ?」 「てことは他に家があるんですね」 「あるっちゃある。でも風呂入りに帰るとか、着替え取りに帰るとかそんなもん。大体ここに居る」  ソファーに座ると隣に転がっているクッションを手に取って膝の上に持って行く。「それ触り心地いいだろ」と言われて頷くと「まだ在庫あるよ」と売り付けられそうになる。  金を払って買うなら新品よりも岳の匂いが染み付いたこっちの方が良いなと考えてしまい、何でだよと心の中でツッコむ。 「さっき、話の途中だったんだけど」  冷蔵庫で冷やされた炭酸飲料を手渡され岳の声を聞きながら何を話していたっけと思い返す。 「協同組合員だから関わるとか、まぁあれは冗談で、他人のことなんてどうでも良いだろって言うお前の気持ちも分かんだけど、目の前で揉めてんの見て無視も出来ねぇよ。知らねぇならまだしももう知っちゃったんだからさ。まぁこれからも口出すかもしんないけど、ごめんな」  林さん宴でしていた話の続きを語られて、綾太は頷きのついでに息を吐く。  これから先も首を突っ込む、ごめんな、と謝罪を挟まれてしまうとやめてくれとは言い辛い。 「……母が亡くなったことは聞いてますか」  話そうかどうか迷った。でも躊躇ったのは一瞬のことですぐに口を開いていた。  最初に会った時は岳の態度も発言も煩わしいと感じていた。そんな男のことを数時間共に過ごしただけで信用したわけではない。ただ、今は岳の人間性がどうであれ、綾太が話をしたいと思ってしまった。 「母が亡くなる前は新しい家族ともそれなりに上手くやってたんです。でも母が居なくなってから居心地が悪くなった。何か大きな出来事があったわけでも、義理の父や妹に何か言われたわけでもない。単に俺の問題というか我儘。気付いてしまったというか。この場所は母の居場所であって、俺の居場所じゃない。俺はおまけだったから母が居なくなった途端に必要ないものみたいに弾き出されたように感じたんです」  ふうん、と岳の息遣いが聞こえる。二人して黙り込んでしまうと互いの呼吸音まで聞こえて、此処が静かな空間なのだと認識する。  岳を見ると、岳も綾太を見ている。  手元でペットボトルのキャップを捻って綾太と同じ炭酸飲料を口にしながらも岳は綾太から視線を外さない。 「……なんですか」  ずっと目線だけを向けて来て、何も言わぬ岳に思わず問うてしまう。印象に残るくっきりとした目をパチ、パチ、と瞬かせて、岳がキャップを閉める。 「コーラ、飲まねぇのかなと思って」 「……頂きます」  岳がしたようにペットボトルのキャップを捻るとパキッと良い音が部屋に響く。岳の目を意識してしまうと飲み難いが、口を付けてしまったからには一口二口でも喉に流し込まねばと僅かに首を後ろに反らせた。 「お前さ……ちゃんと泣いたか?」 「んっ!?」  変なタイミングで妙なことを聞くから炭酸のチリチリとした刺激が喉に留まって噴き出してしまいそうになる。 「なに、そんな驚くことかよ」  口を押さえて咳払いをしたら手の平に炭酸飲料の冷たさが移った。 「泣くって、今まさに咽て泣きそうですけど」 「ちげーよ」  椅子に座っていた岳が綾太の隣に移動して来る。ドスンと重たい音のあとに体が揺れて、次に岳の香りがした。 「母ちゃん死んだ時。ちゃんと泣いたかっつってんの」  言われて、目を見開いたまま固まってしまった。考えたこともなかった。母が死んだ時には母のことを考えていて、母が骨になり小さくなって帰って来た時には母の居場所だったところに自分が居る違和感を覚えていた。  岳に言われて思い返してみれば母が息を引き取る瞬間も通夜も葬儀の時も一度も涙を流していない。周囲から見れば気丈に振る舞っているというふうに映ったかもしれないがそうじゃない。頭で考えるばかりで、感情を拾いに行っていない。 「俺もさ、母ちゃんが居ねぇの。中一の時に死んだ。めちゃくちゃ泣いたよ。通夜の時も葬儀の時ももうずっと泣きっぱ。人目も憚らずに声上げて泣くもんだから参列者も若干引いてたな。そのあとも泣いて泣いて、一週間くらい記憶がない。学校も行った記憶ないから泣いて寝て、泣いて寝てを繰り返してたんだと思う。んで、うちも母ちゃん再婚で、向こうにも息子が居て、年上で、その血の繋がらない兄ちゃんに慰められて、ちょっとずつ元に戻ったよ」  何が言いたいか分かる? と尋ねられた時には綾太の顔が俯き加減になっていた。 「……泣け、っつーことですか」 「そう、正解。特別に岳お兄さんの肩を貸してやる」  ムンと胸を張った岳に「ふざけんな、泣けるか」と返してやりたかったのに、綾太の口から漏れたのは嗚咽だった。  腹か胸か喉か、何処から湧き上がるのか低い唸り声と共に両目から涙が零れ落ちる。目を開けていても瞑っていても同じ量の涙が次々と溢れ出て、自分でも止めようがない。  岳の肩に凭れ岳の着ているスウェットの胸元を握り締める。宥めるみたいに岳の手が綾太の手の甲に添えられて、骨ばったいかにも男といったそれにまた涙腺が震わされる。  鼻の頭が温かくなって、ズズズと下品な鼻音が部屋にこだまする。 「鼻水、服に付けていいよ」  こんなに近くに居るのに涙と一緒に余計な汁まで下がって来て鼻が詰まって岳の匂いがしなくなる。けれど岳の声はする。優しく笑う声はそばに居る証のように綾太の耳に残った。 「店まで付いてってやろうか」 「……いや、大丈夫、帰れます」  目を開いているのに、瞼が重たくて開けている感覚が殆どない。  見送りに店の外まで出て来ようとする岳の体を店内まで押し戻し、綾太は一度頭を下げてから青果店の方へと歩き出す。  別に体を動かしたわけでもないのに、涙を流すという行為だけで疲れ果て油断して目を瞑ったら寝入ってしまいそうだった。  声を上げて泣いた時点で岳には迷惑を掛けているのに、そのまま居座るのは更なる負担になりそうだから泣くだけ泣いて目や鼻から出て来た水分を岳のスウェットに吸って貰ったら長居はせずに帰ることにした。  少し歩いてから振り返る。  岳の姿はないが、店はそこに在る。現実であることを視覚で捉えてから音を出さずに「紀咲さん」と彼の名を確かめる。  人前で泣いたのに恥ずかしさや気まずさを感じない。それは今が夜で、疲労感があるからだろうか。明日の朝になれば羞恥心に襲われるのかもしれない。そんなことを考えるのも何だか楽しくて、自宅兼店まであっという間に帰り着いた。  シャッターが開いている。奥の方からは光が漏れていて、裕司が居るのは間違いなかった。 「……ただいま」  綾太の囁き声に間仕切り暖簾が揺れて裕司のシルエットから「おかえり」と返事があった。  バックヤードに置いたままにしていたスマホや荷物を取りに奥に入って行くと裕司が再びおかえりと言うので綾太もただいまと口にする。 「岳と一緒だったのか? 飯は?」 「一緒に食べた。父さんは?」 「ラーメン食べた」 「作ったの?」 「カップラーメンだけどな」 「……あのさ……一緒に暮らすとか、無理しなくていいから」  昼間とは違う、穏やかな声で裕司に伝えることが出来た。岳のおかげだが、その岳の肩や胸を借りて泣いたことは悟られたくなくて、綾太は顔を下に向ける。 「無理してない。俺が、綾太と一緒に暮らしたい」  裕司の言葉に閉じた唇が震えそうになった。あれだけ泣いたのに、どこかに行ったはずの涙の元がまた戻って来そうになる。 「……二階行く。もう寝る」  荷物を持って二階に続く階段を上ると半分まで行った辺りで父が「綾太」と呼び掛けて来た。自分の名前なのに、そうじゃないような不思議な感じがした。 「おやすみ。また明日な、綾太」  たったそれだけ。母となら何度も交わした言葉が、物凄く貴重で大切なもののように包まれて綾太の所まで届いた。父にどれだけ返せるかは分からないが、受け取るだけ受け取って、うん、と頷くだけの返事をして二階の部屋に入った。  一階の店舗と同じ規模の広さに布団が裕司の分も合わせて二組置いてある。トイレも二階の奥にあって、テレビも設置されていた。寝室にしては広すぎるが、ワンルームだと思えば十分に思える。  昼間、父に宣言した通り、高校を卒業するまではここが綾太の居場所になる。  そのあとは働き先を見つけて出て行こう。  荷物を置いて布団を敷いて寝転がると天井を見上げる。ベッドとは違う、布団を通して感じる床の硬さを確かめながら綾太は岳のことを考えていた。 「……紀咲……岳さん……」 飴玉みたいに彼の名を口内で転がすと、口の中に味わったことのない甘味が拡がった。

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