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第5話
義父と義妹、そして母と一緒に暮らしていた家から幼い頃を過ごした青果店の二階に越して一週間が経った。
市内を移動しただけなので高校はそのまま、平日昼間はこれまでと同じく学校に通い、帰る場所が商店街に変わった、というだけの生活を送っている。
一階が店、という状況にも慣れ、今の所は何の不自由もない。幼少期の綾太を知っている常連客も多く、顔を合わせても違和感なく存在を受け入れて貰っている。
暮らす前の一番の懸念は風呂だったが、アーケード外にある銭湯に入りに行くのが面倒に感じてしまうかもと思っていたものの、通い始めてみれば案外そんなことはなく、風呂に行くという行為を好ましいと感じるタイプなのだと自分のことを知れた。
そして数十年振りとなる血の繋がった父との暮らしはどうかと言えば――。
「りょーたー、ちょっと出てくっから店番頼めるかー」
「へーい」
と、まぁこんなふうで、一週間前に子供染みた感情で突っかかった割に普通に過ごせている。
自身に起きたことながら親子関係というのはつくづく不思議だ。元々干渉し合うという性質のない男同士というのも幸いしたのか、先日の一件などなかったかのように日々を送れてしまう。
いや、でも、と綾太は裕司との関係を受け入れつつも、少しだけ自分の思考を否定してみる。
今回のことは大部分が岳のお陰だ。
何やかんやあったのちに最終的には店番を頼まれ、気の抜けた返事をするという関係を裕司と築けていたとしても、岳が居なければそれなりの時間が掛かったに違いない。
岳本人にこれを伝えても何もしていないと否定するだろうが「泣かせて貰った」という事実は綾太にとって何よりも大きな出来事だった。
どろどろの沼に落とした心を岳が掬い上げてくれた。綺麗な両手に包まれた自分の心臓はあの時再び動き出した。
そんな大袈裟でメルヘンチックなことを伝えれば岳に笑い飛ばされそうだからあのあとは軽い礼だけをしておいた。けれど綾太にしてみれば礼だけでは済まない。何かもっと、岳から貰った以上のことを彼に返せないか。そんな気持ちで毎日を過ごすからなのか、あれ以来岳のことをよく考えてしまう。
「三月ってさー、なんの果物が美味いの」
店番を任されて十分も経たない内に岳が現れて店先に出ている苺を見下ろしながら言う。
「さぁ俺も詳しくないんで……でもいちごじゃないですか、そこに置いてあるんだし」
「果物屋の息子なのに詳しくないとかあんだね」
「はぁ……まだ一週間なもんで」
岳のことを考えていたら岳に会えた、という妹が読んでいた少女漫画のような展開に内心慌てているのにそれを過度に隠そうとしてノリの悪い人間になってしまう。
「テンション低っ! 今の若者はやる気が感じられねぇな」
「え、あ、すんません」
「謝んな、冗談だから。これちょうだい。んで一緒に食お」
旬を迎えた大粒の苺が入ったパックを手に取り岳が「キャッシュレス決済で」とスマホを出す。「使えません。現金のみです」と返すと何が可笑しいのか岳は笑いながら「この店遅れてるー」と代金をトレーに置いた。
「裏入ってい? つかもう入ってるけど」
「あ、はい。いちご、洗います」
「よろー」
小さな台所で水を出しパックの中で苺を洗う。
今までは自分の店の構造しか知らなかったが、岳の店に入って分かったのは、多分岳は二店舗分を使い一店舗を営業用、隣の店舗を休憩や寝る場所として部屋のように活用している。二階は同じようにトイレがあるはずだが、そっちには一階に置き切れない在庫でも置いているのだろうか。
今度聞いてみよう、もしくは実際に見てみようかな。そんなふうに頭の中であれこれと巡らせているといつの間にか隣に皿を持った岳が居た。
「ヘタ、手で千切って」
「……はい」
苺の匂いに混じって、岳の甘い香りもする。それのせいで返事が遅れて妙な間になった。岳は気にしていないようで、ヘタの葉が千切られた苺を受け取ると更に包丁を入れていく。
硬いヘタだけが取れるよう器用にV字にカットすると苺がハート型になった。
「へえ、そうやって切るんですね」
「ズバッとヘタ取っちゃうと勿体ないしな」
「確かに」
「母ちゃんが教えてくれた。なんかそういうのない? もう居ないんだけど教えて貰ったことって案外自分の中に残ってんだよな」
「ああ、あるかも。苺は先端が甘いからヘタの方から食べたら美味いとか」
「そうそう」
岳の笑った横顔を盗み見て、記憶だけしたら目を逸らす。大きめの目が笑うとキュッと細くなることを知るとそれだけでこの時間が特別なものになる。
「十個入ってっから五個ずつな。食お」
簡易テーブルの上に皿を移動させて、岳が椅子に座る。綾太は立ったままで、間仕切り暖簾から店内を覗きつつ差し出された皿から苺を一粒指で取る。
「甘っ、うまっ」
「ほんと、甘いっすね」
「売れ残ったら安くしてよ。したらまた買う」
「父さんに伝えときます」
「うん。一緒に食お」
綾太も同じことを考えていた。「そしたらまた一緒に食べてくれますか」というのは気色悪いかと口に出すのを控えていただけで、岳の方から言われてしまうと苺を咀嚼していた顎の動きが止まる。
「ほい、二個目、食え」
突っ立っている状態で岳を見下ろす。向こうも当然綾太を見上げる。どうしても綾太と半分ずつ食べたいのか「二個目」と言って聞かず、皿を差し出してくる。
「お前が食わないと俺が食えねぇんだよ」
「いや、もう、あの……これは岳さんのだから、俺は一個で」
そう返事をすると岳がムッと口をへの字にする。本気で怒っているわけではないだろうが、苺を掴んで立ち上がると綾太の唇に苺を押し付けてくる。
「んん?」
「口を開けい」
「ん、が」
強く押されると唇と岳の指に挟まれた苺が潰れてそうで、綾太は仕方なく口を開いた。瞬間、間抜けに開いた口の端から「あ」と言葉が漏れる。舌先に岳の指が触れてしまった。
まずいことをしてしまったと思うけど、苺の質量で舌を奥に引っ込めることが出来ない。
出来得る限り岳と目を合わせないように視線を下げずにいると、視界の下の方に岳の薄茶色の髪が映る。自分よりも小さいのだと自覚すると心臓がギュッと絞られるみたいに苦しくなる。
「よっし、食ったな。俺も二個目食お」
やはり岳は何も気にしていない。綾太の口に突っ込んだ指で苺を摘まみ、それを自分の口に運んでいる。
「……マジで三個目は要らないです」
「はぁ~? 食えよ。つーかさ、綾太、お前髪切れ。真ん中分けしてても前髪目に掛かってんじゃん」
納得いかないといった声で関係のない話までしてくる岳から逃げるように間仕切り暖簾を分けて店内へと出る。心臓はまだ速いまま。
ちょうど良く客が来て「美味しい苺どれですか」と聞いてくる。「旬物なのでどれも美味しいですよ」と知ったふうに答えて、この会話を聞いているだろう岳がバックヤードで笑っている姿を想像する。
また知ってしまった。岳は指先まで甘い。
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