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第13話

 どうやってここまで帰り着いたのか、正確な記憶がないまま綾太はClairの前に立っていた。  人前でのプレゼンテーションという慣れないことをした代償が今頃やって来てとにかく疲れていた。  こんな状態なら青果店の二階に駆け上がって万年床になりつつある布団の上で回復を図るのが最善なのだろうが、どうしても岳に会いたくてやって来てしまった。  今の綾太には重たいと感じるガラスのドアを開けると数秒経って奥の方から岳がひょこっと顔を覗かせた。 「あれ、綾太? どした?」 「あ、今、学校帰りで」 「そりゃ見たら分かる。制服着てるもん」  笑った顔など何度も見た。それに会いたくて来たはずなのに眉を下げて優し気に微笑む岳の表情を正面から捉える自信が無くて、避けるように目を逸らす。 「お客さん居ないんですか?」 「それも見りゃ分かんだろ。嫌味か」 「違います」  居ないなら、少し話が出来るかな、と思っただけで。  けれど言い出せないまま綾太がバックヤードの方に視線をやると岳が気付いて「中入る?」と誘ってくれた。  遠慮せずに岳の後ろに付いてバックヤードの更に奥の部屋へと入る。 ここは岳の匂いで満たされていて、全身を岳の香りに浸している気分になる。 「なに飲む? お客さんが持って来てくれたのがあるから飲みもん充実してるよ」 「炭酸が良いです」 「コーラがある」 「じゃあそれで」  勝手にソファーに座るとクッションを掴んで膝に乗せる。 「それ気に入ってんなー。ここ来る度触るから綾太の匂い移ってるわ」  岳の店に来てソファーに座る時は癖のように膝にクッションを置くから今日も無意識でそうしたのだが、岳が匂いが移っているというので綾太はクッションを抱えて鼻を寄せる。 「……岳さんの匂いしかしないすけど」 「え、お前の匂いするよ?」  手に持った炭酸飲料をテーブルの上に置くと岳も綾太同様にクッションに顔を寄せてくる。ふいに距離が近くなって、綾太は不自然に顔を離す。 「んだよ、露骨に避けんな。俺だって傷付くぞ。てかそんな離れちゃわないといけないくらい俺臭いってこと? もうおじさんの匂いする? まだピチピチの二十五歳なんだけど」  軽い口調で言いながら岳も綾太から離れてパソコンデスクの椅子を引いて座る。 「違います。避けてないです。岳さんは良い匂いがします」  背中に向かって誤解であると投げ掛けるも返ってくるのは岳の笑い声だけ。 「冗談だよ。マジにとんな」  疲れた頭でいると本気にしてはいけないのがどれなのか分からなくなってしまう。会話が途切れても店の方から流れ込んでくる音楽に助けられて変な気まずさはない。  そうしている内に二日分の睡眠不足が重しみたいに瞼に乗っかってくる。  クッションを抱いてずるずると横倒しにソファーに寝転ぶと岳に「ねみぃの?」のと聞かれて頭を動かす仕草だけで返事をする。 「ねみぃんだったら寝れば。起こしてやるよ」 「……今日学校で、色々あって」 「あー、なんかゆーじいが言ってたわ。発表会あるから綾太頑張ってパソコン弄ってたって。今日だったの?」  岳がお遊戯会のように言う。  そんな可愛らしいものではないのだけど、否定したい気持ちを眠気が覆ってしまう。 「結構上手く、いったと思……ます。今年は無理だけどあとに引き継いでくれるって……残念だけど、嬉し」 「……一体なんの発表よ?」 「岳さん、喜んでくれるかな」 「なんで俺登場? 支離滅裂過ぎてなにを喜べばいいか分かんねぇ」 「岳さ……ん、一時間したら、起こして、くだ……さ」  自分でも何を言っているのか分からない状態で目は閉じ切ってあとは寝落ちるだけという瞬間、抱えたクッションの香りで岳を抱き締めていると錯覚しそうになった。  そうなれば良いのに。そうしたい。  自分の気持ちを奥に仕舞い込んで綾太は意識を手放した。 「矢敷くん! 今日の放課後空いていますか!?」  コミュニティ部のミーティングから数日後、次の授業のために教室を移動していたら倉本から呼び止められた。 「昼休みに矢敷くんのクラスを訪ねようと思っていたけどちょうど良く会えた!」  倉本は喜んでいたがすれ違いざまのほんの僅かな時間で立ち話する余裕もなく「今日? 良いよ」としか返せなかった。  隣を歩く西田に「あれ、倉本じゃん。いつの間に仲良くなったん?」と聞かれたが、仲が良いという実感はないので綾太は「まぁちょっと」という曖昧な反応しか出来なかった。    その日の放課後、倉本を迎えに三組に顔を出したら綾太を見つけた倉本が「ややっ」と声を上げた。先日と全く同じリアクションで笑ってしまいそうになる。 「僕の方から行こうと思っていたのにすいません」 「いや、うちのクラスいつもホームルーム短いから」 「……矢敷くんはジェントルマンですね。モテるでしょう?」 「ジェ……? 初めて言われた。全然モテない」 「僕の中では注目度ナンバーワンなんですけどね。おかしいですね」 「倉本くん、それよそで言わない方が良いよ。目がおかしいと思われる」  スクールバッグを肩に掛けながら笑うも倉本は全く可笑しくないようで笑顔を見せずに綾太を見つめる。 「こんなに背が高いのに、女子も男子も見る目がないですね」 「背の高さで決まるもんじゃないんじゃない? 分かんないけど」 「そんなもんですか。では行きましょう」  コロッと会話を変えて倉本が歩き出す。三年の教室がある三階から階段を下って一階へ下り、靴箱に向かう倉本の後ろを黙って付いて歩いていた綾太だったが流石に痺れを切らして自分とは随分異なる小さな後ろ姿に声を掛けた。 「てかどこ行くの? 俺聞いてないけど」 「あっ! 言ってませんでしたね! 市議に会いに行きます。必ず力になってくれるであろう方のアポが取れたので」 「市議って……市議会議員の市議? 倉本くん、知り合いの市議が居るの?」 「コミュニティ部として清掃活動なんかに参加していると自然と顔見知りになるものですよ。感じの良い方だとなにかあったら連絡してと気さくに話してくれます」 「ああ、それでイベントの相談?」 「そうです。ステージ上で挨拶して貰ったり市議のブログでアピールして貰ったりすれば一定の層の目に留まりますし」  靴を履いたら綾太を待つことなくさっさと歩き出した倉本が一度だけ立ち止まって「くくく」と口端を上げる。変わった笑い方だ。だが、絶対的な自信を含んだ倉本の挙動を頼もしくも思った。  綾太の通う高校から日ノ入り前商店街までは徒歩十五分ほどかかる。前の家で暮らしている時は自転車で通っていたが、青果店の二階で寝起きするようになってからは徒歩で通学をしている。理由は歩くのにちょうど良い距離だから。  スマホで時間を確認すると倉本と一緒に学校を出てから十五分少々経っていた。  真っ直ぐに帰宅していれば商店街に帰り着いている頃だが、今は駅に居て隣の倉本が「こっちに出ると商店街だから反対か」と独り言を言っている。  市議に会いに行くのだから事務所か市役所に行くつもりなのだろう。  目的は分かっているが目的地を知らない綾太は倉本について行くしかなくて、商店街がある南口ではなく北口へ向かう背中を追って歩く。 「市役所に行くの?」 「いえ、違います」 「じゃあ事務所?」 「事務所……でもないです。仕事場? ですかね」  これから訪ねる市議は専業ではなく兼業しているようだ。  綾太は鼻を鳴らして返事の代わりにする。選挙に落ちたら無職になってしまうわけだしそう考えると専業でいくのはリスクが高い。兼業の方が地に足が付いている感じがするなと思考していると前を行く倉本が「ここですね、多分」と足を止めた。  商店街の反対側にはスーパーやコンビニ、ビジネスホテル等が立ち並ぶ大通りがあって、その中の一画にある店舗を倉本が指差す。 「ポスター貼ってるから間違いないです」  倉本も初めて来たようで、最初はこの場所で合っているのか言葉に迷いがあったが政治活動用のポスターを見つけると声が明るくなった。  店舗の出入口には旗立てブロックがあり「入居者募集中」と書かれたのぼり旗がはためいている。綾太は顔を上げて店舗を確認する。 「……キサキ不動産」  目に入った文字を読み上げると倉本に腕を引かれた。 「さぁ入りましょう」 「え、ちょっ、待っ」  店舗ドアに貼られたポスターが視界に入る。  端正な顔立ちをした男の写真には力強いキャッチコピーが添えられ、読みやすいようにカタカナで名前が表記されていた。 「キサキ、ジュンヤ……」 「あれ、矢敷くんは紀咲さんをご存じなんですか」  名前を読んだだけなのにそう解釈されたかと立ち止まった倉本の顔を見る。  まだキサキ不動産のドアは開かれていない。  今なら引き返せる。そうした方が良いような気がしてならない。しかし倉本にどう説明して良いのか分からず、綾太は口を開いたり閉じたりしている。 「どうしました、矢敷くん。様子がおかし――」  綾太を心配する倉本の言葉が途中で止まり、視線がドアの方へと動く。だけど綾太は倉本の目線を追えない。追ったらもう戻れない。 「やぁ、倉本くん、よく来たね」  不動産屋のドアが開くとふわりと甘い香りが漏れ出てくる。  店の中の匂いなのか、それとも今優しげな声で倉本の名を呼んだ男の匂いか、どちらのものか判別が付かないが綾太はこれに良く似た匂いを知っている。 「その子が電話で言ってた子? 矢敷くんだったかな? 今日はよろしく」  大きな手が差し伸べられて綾太は漸く顔を上げた。  ポスターと同じ顔がそこにはあった。だけどあの人には似ていなかった。

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