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第33話
――おはようございます。式終わったら店に寄っていいですか?
寝起きをしている青果店の二階から下りて岳にメッセージを入れる。返事はすぐに来て「今日店休みにしてるから式終わったら連絡して。ロータリーで待ち合わせしよ。そっから俺ん家で卒業祝いな」と画面に表示され頬が緩む。
茹で過ぎた餅のように落ちて行く頬を意識して引き上げ、階段下で靴を履くとスーツ姿の裕司に声を掛ける。
「行って来ます」
「おお、あとでな」
大学合格、一人暮らしのための賃貸契約。
新しい家への引っ越しは裕司だけでなく岳や木場らが車を借りて手伝ってくれることになり、残すイベントは高校の卒業式だけとなった。
これが終われば漸く岳と――。
いや、そんなことを考えているのは自分だけで、岳は純粋に卒業を祝ってくれようとしているだけだと邪な考えをすり潰す。
付き合い始めても岳のガードは堅く、「綾太のことは好きだけど高校生には手を出せない」と水族館の外でした以来キスもしていない。
それが大学の合格発表後、岳が「大学合格兼卒業祝いをしてやる」と言い出したものだから受験勉強ばかりしていた反動か綾太は岳とキス以上の行為をする妄想が止まらなくなった。
元より二人きりになれる空間が店舗奥くらいしかなかったからキスより先の進展など不可能というのもあり、だからこそ岳の部屋で行われる「卒業祝い」に綾太の想像は膨らむばかりだった。
卒業式の最中も岳のことを考える。
校長の式辞も、卒業生答辞も、右から左に流れて、校歌斉唱では声の調節が利かないほど意識散漫となっていた。
卒業式後には倉本らコミュニティ部や、西田含めたクラスメイトらと写真を撮って、今から皆でお別れ会をするから来ないかと誘われたが用事があると断って学び舎をあとにした。
一度青果店に戻り、パートさんに挨拶を済ますと二階に駆け上がって用意してあった私服に着替える。裕司はまだ学校から帰っていないようだが、待っている時間が惜しくて着替えの最中に「一回帰って来たけど出掛ける」とメッセージを入れる。
それから昨日の晩に準備した一泊用の荷物が入ったトートバッグを持って早速出掛けようと階段を下りる――その前に立ち止まってポーチの中身を確認した。
岳と付き合い始めてから購入したコンドームの小袋が三つ入っているのを確かめて一人頷くと階段を下りて行く。
過度の期待は禁物だ。分かってはいるけれど十八になり高校を卒業した身としては何が起きてもおかしくない。
今晩何がなくともガッカリしないよう、男としての最低限のエチケットだから、備えあれば憂いなしだから、と繰り返し自分に言い聞かす。
「あら、綾太くん、今帰って来たと思ったらもう出掛けるの? あ、謝恩会?」
勝手に解釈してくれたパートのおばちゃんに「そうなんです」と応じる。
「そのあと友達と遊ぶ予定なので今日は帰らないと思います。父さんにもメッセージ入れてるけどなんか聞かれたらそう伝えといてください」
「はいはい」
穏やかなおばちゃんに別れを告げ青果店を出ると駅のロータリーに向かう。
卒業式帰りに岳にメッセージを入れたら「じゃあ迎えに行く。ロータリーで待ってるな」とすぐに返信があった。
夏休み振りの待ち合わせだ。ロータリに出るとすぐに岳の車を見つけ、向こうがこちらに気付く前に綾太の方から走り寄る。
運転席の岳と目が合う。
小走りをしたせいではなく、胸が弾けるみたいに鼓動を刻む。
「お疲れー。卒業おめでと」
「ありがとうございます」
助手席に乗り込むと車全体に暖房が効いていて、肌寒さを感じていた体がじわっと温まる。
「俺から誘っといてなんだけど、謝恩会とかパーティーとかあんじゃねぇの? 出なくて大丈夫なん?」
「大丈夫です。仲良い奴らとはまた別でお別れ会やるんで」
嘘は吐いていない。今日お別れ会をすると言っていたが、また後日綾太からも皆に声を掛ける予定でいる。
「そっか。じゃ、俺ん家でい? どっか寄る?」
「いや、大丈夫す。着いたら風呂だけ借りていいですか。式の最中に汗掻いたり外で冷えたりで汚れてそうなんで」
「いいよ。すぐ入る?」
聞かれて、車を走らせる岳を見る。ラフなパーカー姿以外は普段と変わりはないのだけれど、匂いが少し違う、気がする。
綾太の勘違いかもしれないが、柔らかなシャンプーのような――それに前髪がやけに纏まっている。
「岳さん、ヘアオイル変えました?」
すぐ風呂に入るのか、という問いには答えずに逆に全く違うことを聞くと岳が「いや」と首を横に振る。
「なんか濡れ感出てる」
「……そう? あんま見んなよ」
岳が前髪をぐしゃぐしゃと手櫛で散らすのを見て「いい感じですね。かっこいいです」という言葉を掛けるタイミングを失い、見るなと言われたのに照れているような岳をじっと見つめてしまう。
岳にばかり意識を向けていたからか車がどのルートを通っているのか見落として、十数分走ったのちに岳が借りているマンションに着いた。
荷物を持って岳の後ろを付いて歩き、エントランスで住人と擦れ違うと挨拶をしてエレベーターに乗り込む。
二人きりの箱の中で勇気を出して岳の手を取ると抵抗なく繋ぎ返してくれた。ここでも隣に意識が向かい何階が岳の部屋のある階なのか見逃してしまう。
エレベーターが開き、岳が外を覗いて「誰も居ねぇな」と廊下を行き交う住人の有無を確かめて部屋まで手を引いて歩いてくれる。
部屋は廊下の端にあって、ドアが開くとすぐに嗅ぎ慣れた岳の香りが鼻をついた。
「……いい匂い」
「嗅ぐなよ、恥ずいわ」
住人らしく先に廊下に上がった岳が「狭いし片付いてないけど、どーぞ」と迎えてくれる。
「お邪魔します」
靴を脱いで揃え、廊下に上がると自然と頬が緩んでいく。我に返っては表情を引き締めるが、短い廊下の先にあるリビングに向かう間にもまたニヤけそうになる。
「綾太の部屋ってどんな感じ?」
ふいに聞かれて「1Kです」と答える。
「岳さんの部屋のが全然広い。あ、そういえば家の件もほんと助かりました。岳さんのお父さんにもちゃんとお礼しに行かなきゃ」
綾太が進学する大学は地元駅から特急で一時間半の都市部にあって、通学出来ない距離ではないが、裕司と話し合いをした結果毎日朝早くに起きて時間を使うくらいなら一人暮らしをしてバイトをした方が良いということになって、大学のある土地で部屋を探すことにした。
岳にその話をすると「親父に聞いてやるよ」の一言で召喚された彼の父親に知り合いの不動産屋を紹介して貰い、予算を抑えて家の契約が出来た。
「礼とかいいって。あの人世話焼くの好きなだけだから」
「岳さんそっくりすね」
「俺より兄ちゃんに似てるよ」
リビングに着くと岳が「お客さん用のバスタオル取ってくるわ」ともう一つの部屋に繋がるドアを開けて中へと入ってしまった。
綾太は手持ち無沙汰になりリビングを見渡す。
テレビがあって、床にはラグが敷かれてその上にはローテーブル、あとはソファーがあるくらいで物の少ないすっきりとした部屋だ。前に岳が「大体店に居る」と言っていた通り頻繁には帰らないのだろう、生活感があまりない。
こっちに帰る時には何処で寝ているのだろうか。
ソファーで寝れないこともないだろうけど、岳が入って行ったもう一つの部屋を寝室として使っている可能性が高い。ということはあっちにベッドがあるのかと綾太の目は木目調のドアに釘付けとなる。
「お待たせ。バスタオルとフェイスタオルも要るよな? 風呂あっち、通って来た方……っておーい、なにぼーっとしてんの」
「……あ、ああ、ありがとうございます」
岳が部屋から出て来た瞬間すかさずドアの隙間に目をやり、ベッドが見えた。
そこに視線が集中してしまい岳から指摘されるまでドアの方を見つめ続けてしまった綾太は慌てながらタオルを受け取る。
「シャンプーとか適当に使って」
「すいません。すぐ戻ります」
「ごゆっくり~、昼飯の準備してるわ」
岳の声を背に荷物を持って洗面所に向かう。
扉を開けて中に入るとささっと服を脱いで風呂場に入りふと気付く。
浴室の床が濡れている。
そりゃあ岳も毎日のように銭湯に通っているわけではないのだから、昨日風呂場を使ったのだろうと考えてシャワーから出る湯を頭から被る。
いや、昨日風呂に入ったのなら浴室の床はとうに乾いているはずではないか。
なら朝風呂? 昼風呂? をしたのかもしれない。
目を瞑って全身の汗を流していると、様々な憶測が脳内を巡っていく。そして最後に瞼の裏に浮かんだのは車の中で見た岳の濡れ髪だった。
あれはヘアオイルじゃない。
髪が濡れていたように見えたのはセットしていたからじゃなくて本当に濡れていたのだ。つまり綾太に会う直前に風呂に入ったに違いない。
閃きを得た名探偵のように目を見開く。
急いで確かめなくては。
綾太はいつも通りに髪と体を洗うと湯の温かさに落ち着く間もなくシャワー浴を済ませた。
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