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2 マッシモ・コジモ(1)
同じ日の夕方、夕食から部屋に戻ったアレクサンドラは、不意に「それ」を思いついた。
なぜ「それ」を決行する気になったのかは自分でも分からない。果たして自分でもこれまで自覚できなかった、この島への激しい嫌悪と強い憤りのせいかもしれない。
ライティングデスクに向かい、聖書を手にした。昨年のクリスマスにマッシモ・コジモから贈られた本革表紙の立派な聖書である。マッシモ・コジモはローマを中心に暗躍する大マフィアの首領だ。そうティーチャーからアレクサンドラは聞いていた。
あいにくと全能の神に縋るほどの信心はアレクサンドラにない。そんなアレクサンドラが聖書をたえずデスク上に置き、折に触れて手に取って読みふけるのには別の理由があった。
開くのは決まって旧約聖書のエゼキエル書である。
そこにはちょっとした細工が施されていた。
数十ページにわたり、神の言葉を紡ぐローマ字の上に、汚れのような小さな印がぽつりぽつりと付けられているでのある。
例えば「a」の上には「一」、「b」の上には「丿」、「c」の上には「+」というふうに――――そのようにして、aからzまで不規則なマークがところどころに添えられている。
暗号である。それを覚え、また忘れないために、アレクサンドラは時折聖書を開くのだった。
マッシモ・コジモはこの聖書と共に一枚の絵葉書もくれていた。
本人曰く、趣味で描いているという鉛筆画で、精密な筆致で海から見たマクシミリアン島が描かれている。
よく観察すると、波の細かい模様の中にはエゼキエル書に記されている暗号文字が隠しこまれている。マッシモが意図的にアレクサンドラへ向けて書いたメッセージに違いなかった。
マスターからチャイルドへのプレゼントには、ティーチャー達の厳しいチェックが入る。あまりにさりげないこの聖書と絵ハガキは、それをパスしたのだった。
『私の養子になるなら救出してやる』
波模様に隠された暗号はイタリア語でそう読むことができた。
解読当初、アレクサンドラはひっくり返りそうなほど仰天した。
まさかイタリアでも悪名高い大マフィアの統領が、自分を養子にしたいなどと考えているとは、思いもつかなかったからだ。
なぜ自分なのかも分からない。まさに青天の霹靂だった。
それでも、絵葉書のメッセージを読み解いていることをアレクサンドラはマッシモに伝えていなかった。マッシモからもこれといったアプローチがなかったし、悪ふざけでからかわれているのだとしたら真に受けるのもばかばかしい。
ましてや、万が一にも裏でマッシモがティーチャー達と通じていて、こちらを貶めようと企んでいるとしたら、それこそ命に係わることだ。
しかし、今はもう、そんな心配をしていられなかった。
ここを無事に卒業できたからといって、その先を生き延びられる保証もない。少しでも可能性があるのなら試すべきだ、そう思うようになった。
(イチかバチかだ)
聖書をライティングデスクの上に戻すと、窓辺へ寄った。
蒼穹はガラス玉を中から眺めたかのような透明感をもって遠くまで見渡せ、その下の大海はまるで自分は潔癖だと威張らんばかりに澄み渡って輝いている。チャイルドたちの孤立感を深めさせるのにうってつけのこの光景は、いつだって偽善的だった。
偽善は一見、美しい。
偽善は一聴、耳に心地よい。まるで凪いだこの景色のように。
不意に、耳の奥で「院長直々の手付きだった」というティーチャーの言葉が蘇った。
だとするならば、自分は確たる未来を掴まねばならない。
たとえ命の危険を冒そうともなさねばならない。
それがたとえ、悪魔の所業であろうとも。
あの幼い少女の仇を討てるのはもう、自分しかいないのだ。
(やってやる)
アレクサンドラは己の気力を奮い立たせてそう心に誓い、カーテンを掴んだ拳を、強く震わせたのだった。
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