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3 悩ましい関係(1)

 イタリア有数の大都市トリノの駅前には、広いメインストリートが走っている。  フィオーリとの待ち合わせは、そこから一本外れた路地の末端にある、カフェの前と必ず決まっていた。正面にチョコレート色をした洒脱な屋根飾りのついた小ぶりな店であった。  昼間晴れていた空は夕刻に近づくにつれてどんよりと暗くなり、日没が過ぎる頃には厚い雲が垂れこめて街路樹にそよぐ風も冷たくなっていた。  待ち合わせより三十分近く早く着いたアンドレア・サンティは、店の中に入ってフィオーリを待つことにした。  折よく道に面した席が空いていて、腰を落ち着かせるとカフェ・オレを頼んだ。店内にはほどよく暖房がかかり、冷えた体が少しずつほぐれていくので助かった。  天井から軽妙なクラシック・ピアノが流れる中、テーブルに頬杖をついてしばらく窓の外を眺めていたが、それでもまだ待ち合わせには間があると感じたアンドレアは、退屈しのぎに鞄から一冊の画集を取りだした。  いつも持ち歩いているお気に入りの小冊子である。  ルネサンス期の名だたる絵画がイタリアから欧州北部にかけて網羅されているのだ。作者名、製作年、制作場所、現在の所蔵場所、製作のバックグラウンドとなる詳細な解説も施されていて、たいへんためになる一冊だった。廉価版だが使われている紙はしっかりしていて、発色も悪くない。出先でちょっとした時間を潰すにはちょうど良い教材だった。  幼い頃に養父から買ってもらったこの画集は、慣れ親しんだぬいぐるみのような安心感をアンドレアに(もたら)す。どのページももう(そら)で言えるほど憶えてしまったが、それでも眺めているだけで楽しいのだ。  雨音が耳に届いた。雨が降り始めたのである。  おもむろに窓へと目を向けると、無数の大粒の雨がコンクリートに打ち付けている。暗く重たるい雲が空を覆い、街路灯や建物の明かりは(もや)がかった光彩を街に与えていた。  雨の予報がなかったのでアンドレアは傘を持っていない。  降り始まる前にカフェに入れたのはラッキーだったと画集の続きのページをめくった、その時だった。カランと音がして店のドアが開いた。 「うわっ、濡れたな」  背後で小さく呟かれたその声に聞き覚えがあって、アンドレアの心が小さくざわついた。  誰だったか――――そう思った瞬間、横から声がかかった。 「あれ、アンドレアじゃないか!」  人好きのしそうな明るい声に視線をあげると、中肉中背の男が立っている。まるで旅先で親友にでも会ったような、親しみのある朗らかな笑顔をアンドレアへと向けていた。  古風な銀ぶち眼鏡に見覚えがった。洒落っ気のない茶色のジャンパー、そして素朴なブルージーンズ。短い癖毛がぴょこんぴょこんと好き勝手な方向に跳ねている。そんな焦げ茶の髪は降り始めた激しい雨に濡れていた。  変わらないなと、アンドレアは男を思い出して奇妙な感動を覚えた。 「お久しぶりですね、トニー」  トニー・プローディーである。数年前にアンドレアが世話になった医師であった。 「久しぶりだね! 会えて嬉しいな! ここ、座ってもいいかい? それとも、誰かと待ち合わせしてる?」 「待ち合わせはしていますが、まだ時間には早いので、良ければどうぞ」 「そ? じゃ、その人が来るまで」  にこにこと向かいに座る。すぐに来た店員にプローディーはモカを頼んだ。 「買い物?」  柔和な笑みを乗せたまま、アンドレアのショッピングバッグに目を置きながら訊ねてくる。人懐こさも相変わらずだと、アンドレは懐かしい気持ちになって頷いた。 「少し服を買い足しに」 「なんだか、きみが服を買いに町へ出るなんて、意外」  おどけるように目をきょろりとさせる。 「どうしてです?」 「工房からの支給品で暮らしているのかと思ってた。ほら、フィリポ・リッピが着てるみたいなケープブラウスの」  思わず笑ってしまった。この男は以前からこんなふうに自然な茶目っ気があって、時折こうして本気で面白いことを言い出す。 「僕は修道士じゃないですよ」 「ああ。確かに。あれは修道士の服か」  失態を恥じるように頭を搔きながらプローディーが苦笑する。 「読書中だった? 邪魔してごめんね」 「いいえ。暇をつぶしていただけですから」  手元の本を閉じると、「うわぁ!」とプローディーが奇抜な声をあげる。 「それ、前にも持っていた本だね、懐かしいよ。きみは、物持ちがいいなぁ!」 「あなたこそ、よく憶えてくれていらっしゃいますね」 「そりゃあ、きみがたくさん見せてくれたものー」 「そうでしたね」  なんだかむしょうに懐かしい気分になって、アンドレアもほほえんだ。  プローディーに世話になっていた頃、アンドレアはプローディーから求められてよくこの画集を彼に見せたのだ。どこにも居場所がなかったあの頃、先の見えないトンネルを歩むような心持ちのアンドレアの孤独をプローディーはそうやって慰めてくれたのだった。 「今はどんな具合? 体調は、どう?」  急に医師の顔になって言う。 「おかげさまで元気です。もうあの人達もいなくなりましたから」  自分はかつての悲劇を気に病んでいない、そう示すためにできるだけ明るく返した。  プローディーが肩の荷をおろしたような、ホッとした表情になる。 「それはよかった。工房の居心地も悪くないんだね?」 「はい。むしろ、気持ち良く研究を進めさせてもらっています」 「何よりだ」  ――僕と君とは一生の友人だよ……。屈託なくそう言ってくれたあの頃のまま、今も心を砕いてくれているプローディーの存在はやはりありがたいものと言っていいだろう。 「きみが教えてくれたから、僕もルネサンス美術に興味を持つようになったんだ。今では、美術館巡りが趣味の一つだよ。先日はオランダのアムステルダムまで足を延ばしたんだ」 「それは凄い。何より嬉しい言葉です。久しぶりに少しご覧になります?」  アンドレアは画集を差し出した。 「いいのかい?」 「もちろん」  受け取ったプローディーが丁寧な手つきでページをめくり始める。

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