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3 悩ましい関係(3)
フィオーリは過去に遡 った性被害の追及さえしなかったが、あの時に冷や汗をかいた者はたくさんいたに違いない。その証拠に、以降の工房で性被害はぱったりなくなった。
一方でアンドレアはフィオーリに大きな借りができた。
同時に、彼に対して強い畏怖と敬愛の念を抱くようになったが、それが恋愛感情に変わるのは早かった。
降りしきる雨の中、フィオーリのマセラティが路肩に停まったのが見える。はっとして背中を伸ばしたアンドレアに、プローディーが顔をあげて声をかけた。
「待ち合わせの人?」
「ええ…」
「もしかして、あの赤い車?」
アンドレアの視線を追って訊ねてくる。
アンドレアは頷いた。
「へえ、立派な車だ!」
嫌味ではなく心からの称賛だった。プローディーはそういう人間である。キューピッドのように純粋な心の持ち主なのだ。
マセラティのクーペから焦れたように「プ、プ、プ、」と短く音がした。
「恋人なのかい?」
屈託なく問われ、アンドレアは思わず頷いてしまう。
「なら、待たせちゃ悪いな。見せてくれてありがとう」
そそくさと画集を閉じてアンドレアへと返す。
「良かったね、アンドレア」
濁りのない祝福の言葉に、アンドレアは画集を鞄にしまいながらきょとんとした。
「表情が明るくなったよ」
「――そうでしょうか」
自覚がないので戸惑ってしまう。
「ああ。私生活がうまくいっている証拠だ。彼女さんによろしくね」
軽くウインクする。向こうの車内が暗いため、ここからだと運転席のフィオーリが見えないのだ。見えたなら体格ですぐに男だと気付くだろう。アンドレアの恋人を女性だと思い込むあたりもまたプローディーらしいと思った。
「また会いましょう、トニー」
「うん、いつでも!」
差し出した手をプローディーが強く握り返す。その手はいつでもあたたかくて、陽気な彼の性格を伝えてくるようだった。
「彼女さんと一緒に、ディナーでもご一緒したいよ」
「ええ、そうですね。いつか」
フィオーリを好きになる前の、一時だけこの男に惹かれた頃を懐かしく思い出した。
それはもう恋とも呼べない、捨てられた猫が拾ってくれた人間に抱くような親しみだったのだが。
表に出ると、雨足は想像よりもひどかった。店のドアから車までの短い距離でも、アンドレアの髪とコートはかなり濡れた。
左右から車が来ないことを確認して道を横切り、助手席に滑り込むと頭の上にポスンとバスタオルを乗せられる。フィオーリは普段タオルなんて車に常備しないので、わざわざ自分のためにこれを持ってきてくれたのだと思うとアンドレアの心は自然とぬくもる。
「ありがとう、カスト」
「…私との待ち合わせ前に、他の男とデートか」
だが、すぐに続いたのは不満そうな声であった。カフェの中のほうが明るいのでプローディーと自分が見えたのだ。
「珍しい。焼きもちをやいてくれるんですか?」
皮肉を返すとフィオーリの表情があからさまに険しくなる。
「ばかばかしいことを言うな」
プライドを少なからず傷つけたのだろう。フィオーリがエンジンをかけたが、運転の巧みな彼らしくなく乱暴な発進だった。
「あれは誰だ」
「誰って?」
「とぼけるなよ。今会っていた男だ。当たり前だろう」
「誰だと、思います?」
実にチープでくだらない質問だ。それでも、珍しく焼きもちを焼いてくれるのが心地よくて、つい稚拙な挑発をしてしまった。
フィオーリが舌打ちする。
「二度と訊かない」
アンドレアは助手席で髪を拭いながら小さく吐息した。
「トニーですよ」
所詮、惚れた弱みだ。あまり機嫌を損ねても自分の得にならない。
「トニー? 誰だ」
「トニー・プローディーです。忘れたんですか? 三年前、僕がよく世話になった医師です。僕がアベリ達からレイプを受けていたとき、あなたも数回会っているはずですけど」
「忘れたな。しかし、なぜ今になって、」
なんとなく、うんざりした。
なんて自分勝手な男だろう。そういうあなたは、僕の他に何人の恋人がいるのですか、と問いたくなる。そんな男にのぼせあがっている自分もたいがいなのだが。
「偶然、会ったんです」
アンドレアはそっけなく答えた。
「あの店で?」
「ええ」
納得して興味を失したのか、フィオーリはそれ以上問うてこない。
まったく空しいやりとりだと思った。ピエロになった気分だ。完全に不利なゲームと知りながら無様にやっている。
マセラティのクーペは直線状の道を軽快に進んでいる。向かっているのはいつものシティホテルだ。フィオーリとのデートは毎回そこと決まっていて、男同士で入っても僅 かな奇異の目も向けられない便利なホテルだった。
工房内にある彼のアトリエにも、市内にある彼のアパートメントにも、アンドレアは入ったことがない。招かれたことがないからだ。だからフィオーリがどんな私生活をしているのかは、見当が付かない。
デートの時間はセックスで終始する。
他の愛人達とはどうなのだろうと気になる時もあるが、問うたところで気が晴れるとも思えず、かえってフィオーリの機嫌を損ねそうなので質問する気にならなかった。
藪蛇はごめんなのだ。フィオーリとの関係がいくら不公平であれど、納得済みなアンドレアだった。これほどの男なのだから入れ込んでしまう人間が多いのは仕方がない。この恋愛において自分は完全に敗者だ、それだけの話だった。
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