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3 悩ましい関係(4)
シャワールームから出ると、フィオーリもスーツからガウンに着替えていた。ソファで寛ぐ格好でウイスキーグラスを傾けている。ルームサービスで頼んだのだろう。
アンドレアの姿を認めるとグラスをテーブルに戻し、入れ替わるようにしてシャワールームへ消える。情事の前だというのにこれまたいつものように、無口で甘い雰囲気など皆無だ。フィオーリにとって自分は性欲処理の捌け口に過ぎないのだろうと疑いたくなるのは、こんな時だった。
アンドレアは軽く首を振った。
フィオーリにとってこの付き合いが恋愛なのかそうでないのかなど、今更、どうでもいいことだ。そんなことに関係なくアンドレアはフィオーリに溺れているし、彼を自分の人生の指針にしてしまっている。
(そうだ。フィオーリに何人の愛人がいようとも…)
その中で、自分が何番目であろうとも。
たとえ最下層の慰み者であっても。
こうして傍において、時々抱いてもらえるのならば、それでいい。
(フィオーリと少しでも一緒に過ごせるなら)
――あの油彩画の天才を、少しでも独り占めできるのなら……。
間接照明だけの薄暗い客室だった。
外は真冬でもエアコンが唸る室内は心地よい。窓のカーテンは引かれておらず、アンドレアは窓に近づいてすっかり夜の街になった下界に目を凝らした。
トリノの中心部である旧市街が近くに見渡せる。
赤茶けた屋根で統一された歴史ある建物が整然と並び、まっすぐに伸びた通りにはせわしなく車が行き交って、時折トラムが音をたてて通り過ぎる。雨に塗 れたいかにも都会らしいそんな艶めきも、情事を控える落ち着かない気分では他人事のように見える。
カーテンを閉じた。
フィオーリの座っていたソファの向かいにも同じグラスが用意されていたが、アンドレアはフィオーリの座っていたソファに座って彼のグラスへと手を伸ばす。
一気に飲み干した。
ワインと違ってウイスキーは悪酔いするのだが…。
ただ時折、酔わないとやっていられないと思うときがある。度の強いウイスキーはいい具合に思考を霞ませてくれるだろう。
久しぶりにプローディーと会ったからだろうか。三年前、自分を助けてくれた頃のフィオーリが目の前にちらつく。あの頃のフィオーリは、もっと堂々と輝いていた――――ような気がする。アンドレアがなんとなくそう感じているだけだが……。
フィオーリの専門は油絵である。
工房に来るまでにも世界的なコンペティションでいくつもの金賞に輝き、若き天才としてすでにその名は知られていた。
その作品が市場に出回らないことでも有名だった。大富豪や大企業はフィオーリに直接製作を依頼し、期待通りの作品を描いてもらう。引き換えに巨額の褒賞金を支払う。その希少性がまた付加価値となって、フィオーリの名声を高めていた。
フィオーリは商業画家として根強い人気と確固たる地位を築いており、見事に成功したと言えるのだ。華々しい彼の経歴はアンドレアを含めて画家を目指す学生達にとって、垂涎の的であった。
そんな人物が教師 として工房に赴任してくると知り、学生たちは色めき立った。彼の人気のおこぼれに与れればと平然と口にする者さえいた。
ところが、実際にフィオーリが工房の教師として赴任してみると、彼の学生たちからの評判はその厳しい指導によってガタ落ちとなった。彼が学生の作品をこれでもかと酷評するからだった。
「ヘタクソだな」
「こんなの見る価値無しだろう」
「お前だけは画家になる夢を捨てろ」
「まったく才能がない」
「なんのために工房 にいるんだ?」
他の学生がいようがいまいが、自分の気に入らない作品はとことん貶 す。フィオーリのせいで涙を呑んだ学生は数知れない。
他方で、アンドレアはしばらくの間、フィオーリからなんの評価ももらえなかった。
酷評すらされずに素通りされる。作品を見るには見てもらえるが、一言の感想もないのだ。
最初のうちはレイプを受けていた自分への配慮からかと思ったが、そうでもない。観察していると、一定数の学生は同じような対応をされていて、その作品は「一定レベル以上」と解釈したほうが良さそうだった。そういう作品にはあえて何も言わない指導だったのである。
だがこちらはまだ学生なのだから、せめて良いか悪いかくらいは教えて欲しい。アンドレアは一年でフィオーリの油彩をやめ、テンペラ画の講座に籍を移した。
そんなフィオーリとの関係が深まったのは、今年に入ってからだ。
ピエモンテ州が開催した現代美術シンポジウムで、工房から壁画部門でアンドレアが、油彩部門でフィオーリが参加したときである。
その繋がりで食事を一緒にとった。その時に、画家としての彼独特の矜持や美学を教えてもらい、アンドレアは深く共感を覚えた。すでに感じていた部分もあれば、目から鱗が落ちるような新しい発見もあった。
アンドレアにとってその時のフィオーリの意見は斬新なものだったのだ。以降、フィオーリが図書館や食堂で本を読んでいたりすると声をかけて話をするようになった。彼の読んだ本を調べて借りることも多かった。フィオーリの知識や思考回路を知ることは己の製作にも有益だと考えたのである。
そのうちに図書館で会うだけでなく、待ち合わせて街に出かけるようになった。やがてカフェや食事に行くようにもなった。
話題は絵画のことばかりだった。それが嬉しかった。ただの教師と学生という関係だったあの頃のほうが、肉体関係となった今よりも、よっぽど有意義で楽しい時間を過ごせていた気がする。
なぜフィオーリを好きになったのかは、正直、よく分からない。
おそらく理由は一つではない。
畏怖、畏敬、共感、そんな精神的なものの他にも、張り詰めた繊細さや、ふとした時にピリッと動く鋭い表情筋、長い手指、端正な顔、均整の取れた長身にも惹かれた。
フィオーリに複数人の恋人がいることは知っていた。
それでもかまわなかった。
それでも、どうにも惹かれてしまう気持ちを止められなかったのだ。
さんざん悩んだ挙句に告白し、ホテルに連れ立つ仲まで進展した。
あのレイプ事件から二年が過ぎようとした時だった。
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