26 / 37

5 守るべきもの(2)

「なぜ僕が贋作を描かねばならないのですか」  衝撃によってわなないた全身はやがて怒りによってカタカタと震えだす。  フィオーリに対する絶望と怒りにアンドレアは気がおかしくなりそうだった。  その腕からすり抜けてベッドから出た。ガウンを着こみ、椅子に座るとウイスキーを注いで一気に飲み干した。それでも憤りで興奮した神経は一向に和らぎそうにない。 「そう腹を立てるな、アンドレア」  フィオーリも上体を起こし、全裸のままベッドの端に座る。それから小さく吐息した。 「人助けだと思って欲しいのだ」 「人助け? 誰のです?」  そんな体裁の良い話ではないだろうと、アンドレアはうんざりした。目の前の男への不信感が胸に激しく渦巻くのを止めることができない。 「私の、だ」  フィオーリはふてくされたようなまなざしを床へと落として、頭を掻く。  その卑屈な態度から、アンドレアにはなんとなく腑に落ちたものがあった。  この三年、この男は一つも新作を完成できていない。天才と呼ばれる人物にもスランプは訪れるのだとメディアからは同情され、周囲からはそれでも次回作を期待されているが、もしかしたらそれにはそれなりの理由があるのかもしれない。  ある疑問に突き当たったアンドレアは鋭く詰問した。 「カスト――――あなたこそ、もう贋作づくりに手を染めているのですね」  違っていてくれと、なおフィオーリへの信頼を保ちたい自分もいる。しかしそんな希望も無碍に覆された。 「そうだ」  あっさりと認めたフィオーリには(ずる)いくらいに開き直った感じがあった。  アンドレアは衝動的に立ち上がると窓辺へ寄った。  カーテンの閉じられていないほうの窓に、自分の歪んだ顔とフィオーリの姿が映る。  全身の震えが止まらない。あまりのショックに何かとんでもない悪態を口にしそうだった。  イタリアでも屈指と称えられる名門美術工房のマエストロが、まさか、贋作製作に携わっていたとは。とても信じられない。信じたくない。  崇拝し、敬愛し、身も心も捧げてきた相手だ。その本性がそれだったとは泣くに泣けない。 (大事な人、だったのに)  愛人の一人で良かった。  こんなふうにたまにでもいいから抱いてもらえる夜がこれからも続くのであれば。そう、ただひたむきに愛してきた三年間だった。  だがもうそれも終わりだ。贋作だけは耐えられない。 「――別れて下さいませんか、カスト」 「…話を聞いてくれ、アンドレア。命がかかっているんだ」  身勝手なセリフに心底、辟易する。  おおかた贋作づくりに携わっている連中など、まともであるはずがない。いずれ内輪もめで命の危険がありうるかもしれないなどと、それくらいも予測できないフィオーリを愚かしく感じる。  均整の取れたフィオーリの裸体をアンドレアは恨みがましく見つめた。  もうこれ以上、聞く耳など持ちたくない。けれど性懲りもなく、命が危ういと不安を打ち明けるフィオーリを守りたい衝動に駆られる自分もいる。憎悪と愛着の狭間で、アンドレアの気持ちはぐらぐらと揺れていた。 「不愉快な思いをさせていることは、分かっている。心から謝る。だが今は、私を助けると思って手を貸してくれ、アンドレア。私もかつては、お前を助けただろう」  こんな時にこんな形で見返りを求めてくるとは。そこまで卑怯な人間だったのかと、さらなる失望を覚えた。  確かにあの時は助かった。自分はまだ十六歳の子供で、不条理なレイプを工房の仲間から受けていたのだ。しかし、自らの意志で贋作に手を出してトラブルに巻き込まれている今のフィオーリとは事情が違う。 「私が贋作に手を出したのは四年前だ」  続いた言葉に、そんなに長い間……と、アンドレアは驚愕した。 「本当に描けなくなったのだ。俗にいうスランプと言うやつだ。その時にドラッグに手を出してしまった。気分が楽になるし、比較的安全だと勧められて気安く始めたのだ。だが、どうやら試作品の新種だったらしくて、副作用で体を壊してな。解毒剤まで手に入れなくてはならなくなった。そのために脅されて、贋作を作ることになって――――結局、私は騙されたんだ。バイヤーだった男が死んで、今はマフィアが私の命を握っている」  薬に溺れ、求められるまま交換条件で贋作を描き始めのだという。その贋作事業には『』ヴィーナス・プロジェクト』という名前が付けられているとフィオーリが続ける。愛と美の女神に対してあまりに失礼だと、アンドレアは(はらわた)が煮えくり返る思いだった。 「その薬物、今でも続けているんですか」  率直な問いにフィオーリは半ば吐息交じりに答える。 「あれをやめるなんて、不可能なんだ、アンドレア」  絶望を乗せた響きにアンドレアは深い奈落に落ちるような感覚がする。 「最近、色覚異常になった」 「あなたが?」 「ああ」  途端に、呼吸すら忘れそうになった。  実のところ、フィオーリが贋作に手を出していたことよりも何倍もショックだった。 「その薬の副反応ですか」 「さあな。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。分からないのだ。症状は悪化の一途だ。これでは贋作も描けない」 「医者には診てもらってるんですか」  は、とフィオーリが自嘲気味に嗤う。 「診てもらえるわけがない」 「診てもらってください、カスト」  今なら治る可能性もあるかもしれないと、アンドレアは微かな期待で拙速に懇願した。

ともだちにシェアしよう!