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5 守るべきもの(3)

 フィオーリが首を横に振る。 「お前にだけだ、話すのは。色覚異常と診断されれば、遅かれ早かれマスコミに知られる。そうなれば仕事がなくなる」  悪夢の中で息をしているように感じた。 「それに、贋作作家として役立たなくなったことが知られれば、私はマフィアに消される。だからお前を仲間として推挙したのだ。だが、今、メールでお前を仲間に引き入れることを断られた」   そんなメールを受け取ったにもかかわらず、洗いざらいこうして話してしまっているのか。それ自体がとても危険なことに思える。その危険は自分にも降りかかっている気がする。 「だから、お前が描いたものを私が描いたと偽って渡したいのだ。そうすれば私は殺されずにすむ。お前も大金が手に入るぞ。六分と四分だ。お前が六、私が四でいい」  唖然として、文字通り開いた口が塞がらなくなる。  この男は本当にフィオーリなのだろうか。まるで見知らぬ者と話しているようだ。途轍もなく醜悪な怪物が目の前に現れたみたいだった。 「ヴェッキオの初期作品がいいな。お前ならできるだろう。ヴェッキオ未出作、片田舎の民家から発見――――。画材は、時代判定に引っかからないものを私が用意する。お前が描くヴェッキオをマフィアに渡す」 「僕は――――描きません」  フィオーリが鼻で笑う。 「私が死んでもかまわないのか?」  フィオーリは、アンドレアから愛されていることに自信があるのだ。アンドレアがフィオーリの頼みを断れないことを分かっているのに違いない。 「贋作なんて——僕は絶対に——…」  頭蓋で鼓動がうるさく響き始める。  悲嘆に暮れるアンドレアに、やや語調をやわらげたフィオーリが続ける。 「贋作を悪くとり過ぎているのではないか、アンドレア。もっと気楽に考えれば良いのだ。贋作は文化を守っているという側面もある。もったいないほどの名品をそこらの美術館に飾ったところで、どうせ見るのは真偽の判別もつかない輩だ。本物の名画は富豪の者にこそふさわしい。彼らはそのために巨額を払う。本当の審美眼を持つ者こそ、を所有するべきだ。そのほうがよっぽど理に適っている」  アンドレアは深く眉間に皴を刻んだ。製作者としてあるまじき傲慢な態度に感じた。 「僕は、そうは思えません…」 「いいことを教えてやろう、アンドレア。美術館にある作品の七割は偽物だ。昨年、ヴェッキオの未出作品が見つかったろう。八十万ユーロの高値で落札されて来年にはウフィツィ美術館に展示される。あれも偽物だ。あれはおととし私が描いた」  吐き気がしてきそうだった。  悪夢でないとしたらこれはこの世の地獄だ。 「お前が以前から持っているルネサンスの画集も、あれも中身はほとんどが贋作だ。お前は後生大事に眺めているが――――あんなもの、それっぽく偽っているモノを本物だと思い込んで載せているにすぎん」  握った拳に震えが走る。  言いようのない悲しみを、この怒りを、どこにぶつけていいのか分からない。  こんなに虚しい世界があろうとは。  自分はいったい、何のために絵を描いてきたのだろう。少なくとも今後一切(いっさい)、自分は小品を描く気にならないだろう、そう思った。  腕組みをしたフィオーリが焦れたように口を開く。 「返事をくれ、アンドレア。時間がない。お前には急いで描いてもらわねばならん、ヴェッキオの未出作品をな」  心底ぞっとした。 「贋作は描きません。誰のためであれ、絶対に」  立ちあがったフィオーリが近づいてくる。ハッとして顔をあげたアンドレアの頬が、高く鳴る。驚きで瞠目する暇もなく、バスローブの首元を掴まれて、今度は拳を食らう。がたがたと倒れ、テーブルの端にしたたか頭を打った。 「お前を工房から追い出すこともできるのだぞ、アンドレア! 奴らに頼んで、お前を殺すことだってできる!」 「いいじゃないですか? どうぞ、ご勝手に。やればいいでしょう?」  フィオーリを睨み据えてアンドレアは言い返した。  哀しみはもうない。麻痺したように何も感じなくなった。フィオーリへの感情は石になったみたいに硬化していた。 「あなたと一緒に殺されるのも一興です」  ふと漏れ出た皮肉に、フィオーリの目が吊りあがる。 「役立たずめが‼」  乱暴な手つきで着衣する。大きな音をたてて部屋を出ていくそのさまは、醜態と呼ぶ他なかった。  アンドレアはテーブルとソファの間で倒れたまま瞑目する。  ついさっきまで愛した男の浅薄な姿を、虚ろな視界からシャットアウトした。

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