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5 守るべきもの(4)
春の訪れを知らせる白やピンクの花々が晴れやかな青空を縁取る。思わず気持ちが憩うような美しい風景を、アンドレアは食堂の窓からそっと眺めた。
サン・マルコ修道会の中庭には見事なマグノリアの木立があって、涼しげな風に乗って建物の中にまで甘い香りが漂ってくる。大気までが春の訪れを喜んでいるようだった。
修道院の食堂の壁画製作を頼まれ、アンドレアが手を付けてから三か月あまりが経つ。全行程の半分ほどが終わったが、次の仕事の予定が入っていて今回もミラノ観光はできそうになかった。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の『最後の晩餐』も見ることは叶わないだろう。心残りにはなるが、仕事に空きがないのはありがたいことだった。『最後の晩餐』はいつか機会を作って見に行ければと思う。
朝の空気を胸いっぱいに吸いこみ、「さて…」と続きの作業に取り掛かかろうと、足場にのぼった時だった。
「おはよう、サンティ。元気?」
突然、足元から女性の声がしてアンドレアは気が動転するほど驚いた。耳がおかしくなったのかと疑ったくらいだった。
ここは女人禁制の男子修道院である。女性の声がするはずがない。加えてアンドレアの作業のために食堂は立ち入り禁止となっていたから、人が入ってくるとは思っていなかった。
アンドレアは慌てて声の主を確かめた。
眼下に紺色のパンツスーツを着込んだラウラ・シュッティの姿を認め、さらなる驚愕に襲われた。万が一にも忍び入ったのではあるまいかと余計な不安まで頭を過る。
シュッティが楽しそうな笑顔をアンドレアに向けた。ずいぶん機嫌が良いようだ。
「どうして、ここに…?」
他方でアンドレアは足場に乗ったまま、シュッティを唖然と見おろした。
「話すわ。まずは降りてきて。これじゃ話しにくいじゃない」
パチッとウインクする。
「…分かりました。外で話をしましょう」
女性がいることが知られれば、少なからぬ混乱を修道院側に引き起こしてしまうだろう。そう考えたアンドレアはシュッティを敷地外へ誘い出そうとした。
だがシュッティはあっさりとそれを拒否する。
「誰にも聞かれたくない話なの。大丈夫よ、入所許可はとっているわ。本当よ」
シュッティはやはりどこか得体のしれないところがある女性だ。どんな事情があれば、女性が女人禁制の修道院に入ることを許されるのだろう。シュッティの言葉を聞いても、まだアンドレアは信じられない気分でいた。
「その様子では今朝のニュースをまだ見ていないみたいね、キミ」
足場を降りて傍に寄り、まだ愕然とした気持ちでシュッティを見下ろすと、肩をすくめたシュッティがおかしそうに笑う。
「ええ…」
一体なんのニュースなのかと気になった。シュッティの表情を見た限り、悪い知らせのようではないが――――。
「カストが死んだわ」
さらりと告げられ、絶句した。シュッティを見つめたまま、茫然と目を見開いて身動き一つできなくなる。
(…カストが死んだ?)
窓から吹き込む風が一気に冷たくなった気がして、ぞっとするような悪寒に襲われた。
「い、いつ…?」
「昨日の午後よ。アトリエで射殺体が見つかったの。胸と頭を一発ずつ撃ち抜かれていたらしいわ。即死だったみたい」
顔色一つ変えずに淡々と答える。
一方でアンドレアは頭の先から血の気がざっと床へ抜けたようになって、今にも眩暈が起きて倒れてしまいそうだった
(殺されたというのか)
フィオーリ自身が予言していたように。
「プロの仕業だろうって警察は言ってる。キミには私が直接会って知らせたいと思ったの。そういうことならと、ここの修道院長が特別に訪問の許可をくださったのよ」
シュッティがここに入れた理由も分かるには分かったが、今は耳をすり抜けるだけで頭に残りそうにない。
フィオーリはこうなることを予見し、恐れていたのだ。それが現実となってしまった。
(僕のせいだろうか――――)
贋作の製作を協力しなかった、自分の。
フィオーリから贋作の話を打ち明けられたのは四か月ほど前だ。
彼が薬物依存になっていることと、その工面のために贋作製作に手を出したこと、そして、最近になって色覚異常に陥ったことをその時に聞かされた。
同時にフィオーリの代わりに贋作を描いてほしいと頼まれたが、それは拒んだ。そのために酷く殴られて別れた。
それきりフィオーリとの付き合いはなくなった。
フィオーリもあからさまにアンドレアを避けるようになったし、アンドレアもできるだけ近づかないようにした。目が合えば互いにそれとなく外し、挨拶をすることもなくなった。周囲からは怪訝な目で見られたが、それも仕方ないと気に病まないことにしていた。
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