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5 守るべきもの(6)

 揺さぶられ、意識が直視したくない現実へと引き戻される。吐き気がして口元を覆った。その手もカタカタと震えていた。 「カスト……!」  思わずつぶやきが漏れ出る。  嗚咽をかみ殺すだけでも一苦労だった。  やるせない思いに精神が蝕まれそうだ。痛みに切り刻まれた胸は、はちきれんばかりの苦しみでいっぱいだった。 「そうね……キミは本当に、カストを愛していたんだものね。ショックも大きいはずだわ」  同情の籠った声でシュッティが静かに労わる。 「座りましょうか」  優しい声かけに、アンドレアは近くの椅子に腰かけた。  食堂には、長閑な朝の日差しが溢れるほども注いでいる。こんな悲惨なニュースがなければ、快いだけの陽光が、今は目に痛くてたまらなかった。  シュッティもどこからか椅子を持って来てアンドレアの横に腰をおろす。アンドレアは力なく首を振った。 「あらためて話せるようなことは何もありません。…何も――何も、聞かされていないので」  カストの実生活など、何一つ知らない。自分だってセックスの相手をしていただけだ。情けないほどそうだった。  悄然と呟いたアンドレアにシュッティが食い下がる。 「どんな些細なことでもいいの。なんでも、少しでも心当たりのあるなら、話して、サンティ」  そんなことを言われても。 (カストはもう、この世にいない…)  一人になってその意味をよく考えたい。  アンドレアはようやくの思いで口を開いた。この会話を少しでも早く終わらせたい、その一心だった。 「カストは数年前からスランプに陥っていますね。そのために薬物に手を出したと言っていました。副作用で体を蝕まれ、その解毒剤を手に入れるために贋作製作を始めたようです」 「そう――なのね。薬物って、どんなもの?」 「さあ、よく分かりません。…彼は色覚異常になっていたんです。その薬のせいだと感じました」 「色覚異常? 画家にとって命とりね」  さすがに驚いたのか、切羽詰まった声を出す。 「でも、なんて言いましたか。――タッ…?」 「タッソね」 「ええ。その名は聞いていません。カストを贋作画家として使っていた男が死んだという話は、聞いた気がします。その後はマフィアが贋作の事業をしているのだと話していました」  シュッティの顔色がにわかに変わった。 「マフィア? どこの?」 「そこまでは知りません。カストは、色覚異常で用済みになった自分は殺されるだろうと言っていた」  あの時のフィオーリの不安を想像するだけで胸が掻き(むし)られる思いがする。彼を救える手だてが、何かあったのかもしれない、と思うのだ。 「カストはマフィアに、僕を協力者にしたいと申し出たらしいんです。でも、その希望は却下された。だから、一か八かで僕に贋作を描かせて、それを自分が描いたと偽ってマフィアに渡そうとしたんです。自分が色覚異常になったことだけは、マフィアに知られたくなかったようでした」  はあっと、シュッティが溜め息を吐く。 「まあね…。でもなかなか危ういな悪企みだったわね。それで、キミは?」 「もちろん、断りました」 「賢明な判断だわ」  しかし、頼みの綱だった自分に拒絶されたフィオーリは、深い絶望に沈まされただろう。そして、他の手立てを打てないまま、消されたのだ。 「彼を死に追いやったのは僕です」  アンドレアは頭を抱えた。今後ずっと、自分はあの時どうすべきだったのかと、悔やむだろう。なのに、こんなにやるせないのに涙が出てこない。死んでなお、自分がフィオーリを見捨てている気がしてたまらなかった。 「違うわ。キミの選択は正しかった。そうでしょう? 贋作づくりは画家にとって多大なリスクを伴うものよ、私なんかが語るまでもなく、キミなら充分承知でしょうけれど。でも、世の中から贋作がいっこうに無くならないのは、裏で巨額が動くからだわ。年代推定の技術が進んだといっても、完全じゃない。あらゆる買収工作も行われている。フィオーリはその一味に加わって大金を手に入れて、墓穴を掘ったに過ぎないのよ。マフィアとトラブルになってこんなふうに死んだのも、悲しいけれど、自業自得だわ」  酷な言いざまだが、真実でもあった。  贋作を作り続けるとオリジナルが作れなくなるというのも、よく聞く話だ。  オリジナルを発想する能力が衰えてしまうからなのか、贋作のほうが金になるからオリジナルを作る気力がなくなってしまうからなのか、原因はアンドレアには分からない。 「贋作づくりを拒否したことを気に病む必要なんて、まったくないのよ、サンティ。画家なんだもの、贋作を憎むのは当然だわ。愛する男を失った悲しみには、思う存分、浸っていいと思うけど。――キミに訊いてみて良かった。今後はマフィアのほうをあたるわ。ありがとう」 「あなたも気を付けてください、シュッティさん――――」  アンドレアが目をあげると、ニコッと笑ったシュッティは毅然とした足取りで食堂を出て行く。  しばらく指一本、動かす気にならなかった。  うなだれたままフィオーリと過ごした日々を思い浮かべてみる。もう、絶対に戻ってこない時間だと思うと、あるかないか分からない銀河に思いを馳せるような、どうしようもないほど虚しい気分になった。

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