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どうやら転生したらしい
今宵、王宮では、王太子リチャードの誕生日を祝う舞踏会が開かれていた。
華やかな装いの人々が調べに合わせてステップを踏み、ドレスの裾や髪飾りを煌めかせている。四方を囲む長テーブルには豪勢な料理やお菓子が所狭しと並び、芳しい香りを漂わせていた。
身に着けた宝石や衣装で互いを値踏みし、意中の相手に秋波を送る。そんな退屈しのぎと社交を兼ねた駆け引きの場は、何度経験しても慣れることができない。
(何が楽しくて、ご馳走も食べずに踊ってばかりいられるのだろう)
広間の隅で人波に隠れ、小皿に盛った料理をつまみながら、心底疑問に思う。
かくいう僕、エドワードは、この国の第三王子である。年は成人の儀を終えたばかりの20才。
ダンスは兄や妹とともに一通り教わったから踊ろうと思えば踊れるが、僕は王族にしては珍しく、物心ついた頃から華やかなことにも社交にも興味がなかった。今夜は王太子妃候補のお披露目を兼ねているとあって、両親である王と王妃から参加を強制され、仕方なくこの場にいるだけだ。
始まってしばらくはおとなしく王族席にいたのだが、公の場に滅多に顔を出さない第三王子とあって、挨拶に来た貴族たちはこぞって僕にも声をかけてくる。
「大人になられても王妃様にそっくりですわね」
「殿下の瞳は宝石も霞むほどの美しさですわ」
「まるで月光を浴びたような神々しい御髪ですこと」
などなど。
勉学は凡庸、剣術は論外で、容姿以外に褒められる点がないのもわかるが。耳にするのは似たような美辞麗句ばかりで、最初の数人で笑顔を作る顔の筋肉が引き攣り始めた。
僕は『フィアリス王国の秘宝』と謳われた母に、兄妹の中で最もよく似ている。
長い睫毛に縁取られたつぶらなアイスブルーの瞳に、細く通った鼻筋、薄い唇。くせのないプラチナブロンドの髪はうなじでひと結びにしている。
子供の頃から体を動かすよりも部屋にこもって本を読んでいるほうが好きで、剣術の稽古も仮病を使ってそのうち行かなくなった。学院卒業後に与えられたのは公文書庫の管理官の仕事で、ほとんど日に当たることのない生活のせいか、肌は青白く体の線も細いままだ。
そんな見るからに優男でも、婿にして王家の縁者になりたい貴族は多いのだろう。
娘を紹介する貴族も増え始め、「お嬢様方をダンスに誘ってみてはどうかしら?」と母上から促されたのをこれ幸いと、王族席を抜け出した。
もちろん、ご令嬢をダンスに誘う気など毛頭なく、直行したのは料理の並んだテーブルだった。共に王立学院で学んでいた貴族の子息もちらほら見かけるが、卒業以降のつきあいはなく、旧交を深めるような友はいない。
これだけ人が多いのだから、しばらく自室に戻っていても、いないことに気づかれないだろう。
そう思って、腹ごしらを終え、広間の出口へと向かいかけたとき――。入り口近くに立つ長身の人物が目に入った。
最初に目に留まったのは、華やかな賓客たちの間にあって際立つ、騎士服の暗い色合いだった。それが次の瞬間には、まるでその人だけを残して周りの景色が消えてしまったかのように、視線が釘付けになった。
壁際に控える騎士たちよりも頭一つ抜きん出た堂々たる体躯。深い紺色のジャケットには胸元に金糸で騎士団の紋章が刺繍され、足元まである黒いマントが肩で留められている。
ゆるくうねったダークブロンドの髪は、騎士らしく短く整えられており、日に焼けた肌は浅黒い。きりりと上がった眉に、はっきりとした目鼻立ち。遠目にも端整な顔立ちだとわかるが、どこか影を帯びているようにも思えた。
ただ、目を離せないのは、人目を引く容姿が理由ではない。初めて見る人物なのに、何故か既視感を覚えたからだった。
どこかで会ったのに思い出せない――というもどかしさとは微妙に違う。会ったことがないことはたしか。でも、俺はあの人のことをよく知っている。
――と、そこまで考えて、違和感を覚えた。
(どうして今、「俺」なんて……。そんな下々の者のような言葉を使ったことなんて、今まで一度もなかったのに……)
騎士がマントをふわりと翻して背を向ける。その裾に施された金色の獅子の紋様を目にした瞬間――。全身が総毛立ち、胸がざわりと騒いだ。
(あれは……、あの獅子の紋様は……、カインだ!)
続けて思い出した、カイン・ド・アルベールという名前は、以前から知っていた。
名前と宮廷騎士団の部隊長をしていることは、彼の妹で兄の婚約者候補でもあるセレナ嬢の身上書で見たことがある。
自分でもよくわからないのは、カインとは会ったことがないのに、啓示でも降りてきたかのように、あの騎士がカインだと確信していることだった。
確か、元使用人の産んだ庶子でセレナの腹違いの兄ということになっているが、実際のところは養子だったはず。
――と、そこで再び、違和感を覚える。
違う。それは彼女の身上書で目にした情報ではない。カインが養子であることは、アルベール公爵夫妻とその長年の側近しか知るはずのないことだ。なぜ、僕がその事実を知っている……?
混乱する頭に、今まで知らなかったはずの彼にまつわる情報が次々と浮かんできた。
第一王子の側近だった彼の実父が、12年前に、僕の母親違いの兄である第一王子を毒殺したとして処刑されたこと。そのせいで母親が自死し、当時12歳だった彼も道連れにされたことになっていること。けれど実際は、父親の親友だったアルベール公爵に密かに匿われ、事件のほとぼりが冷めてから、公爵家の養子として迎えられたこと……。
カインの身の上だけではない。次に浮かんできたのは、つるつるとした光沢を持つ掌サイズの本だった。表紙に色彩豊かに描かれているのは、僕とセレナ嬢のイラスト。そして、タイトルは、この世界では見たこともない文字で――。
そこまで思い出したところで、思わず、「あーーー!」と叫びそうになった。
(そうだ! ここは『王太子に婚約破棄されたら、弟殿下の独占愛に囚われました』の世界だ!)
それは俺が、この世界で第三王子として生まれる前――二次元好きのオタクな日本人だった頃に好きだった、恋愛ファンタジー小説だった。
小説の主人公であるセレナと出会ったときも、その相手役である自分自身の顔を鏡で見ても、今まで何一つ思い出さなかった。それがカインを見た瞬間に前世の記憶を取り戻した理由は、なんとなくわかる気がする。カインが『推し』だったからだろう。
この物語は、悪役令嬢の陰謀によって公爵令嬢であるセレナが断罪され、王太子との婚約を解消されるところから話が始まる。その後、セレナは王太子の弟であるこの俺、エドワードと協力して、悪役令嬢やその父の悪事を暴くための証拠を集める。その過程で二人は惹かれ合い、最後はいわゆる「ざまあエンド」で、悪役令嬢親子と、彼女に操られていた王太子を失脚させ、エドワードが王太子、セレナが王太子妃になるのだ。
そのクライマックスの一つが、セレナの血の繋がらない兄であるカインが彼女をかばって命を落とす場面だ。
『我が命より大切なお前を守れたのだから、本望だ』
今わの際に彼が口にしたその台詞には、長年のセレナへの秘められた思いが込められていて、読むたびに涙したものだ。
前世の俺は、子供の頃から友達と遊ぶより小説や漫画に夢中になるタイプだった。高校二年生頃から見よう見まねで自分でも小説を書くようになったのだが、きっかけとなったのがこの物語だった。推しキャラだったカインの非業の死をどうしても受け入れられず、彼が幸せになるアナザーストーリーを妄想しているうちに、それを文章に残したくなったのだ。いざ書き始めてみると、読む以上にハマってしまい、投稿サイトに投稿するまでになった。
人と接することが苦手でまともな恋愛経験もなかったが、それでも、創作とそれを通じて出会えた仲間や読者のお陰で、それなりに充実した楽しい人生を送ることができた。
そういう理由で、『王太子に婚約破棄されたら、弟殿下の独占愛に囚われました』は、前世の俺にとって人生で最も思い入れのある小説であり、最も繰り返し読んだ小説でもあったのだ。
(しかし、何故、よりによってエドワードなんだろう……)
転生したことを受け入れた途端、そんな不満が湧き上がってくる。
エドワードに転生したことを心から喜べない理由は一つ。王になりたくないからだ。
小説はエドワードが王太子になるところで完結するが、その後も俺の人生が続くのであれば、王太子になった俺には、いずれ王になる未来が待っている。それは心底、ごめんこうむりたかった。
王子に転生してなお、俺は華やかな宮廷生活にも政治や社会情勢にも興味のない、架空の物語と空想を愛する、コミュ障なオタクだった。
俺は一生、大好きな本に囲まれて、虚構の世界で推しの幸せだけを妄想して生きていけたら、それでいい。それに小説通りに話が進めば、推しであるカインが若くして非業の死を遂げることになる。それだけは何としてでも阻止したい。
(でも……。阻止するとして、一体どうすればいいのだろう)
小説を冒頭から順に思い返してみて、俺はある重大なことを思い出した。
そもそもセレナが婚約破棄されるのは、悪役令嬢であるヴィオラ・フォン・クラウスが仕掛けた罠が原因だ。その罠は、王太子の成人祝賀の舞踏会――すなわち、今夜この場所で、仕掛けられる予定だった。
背筋がぞくりと震え、心臓が激しく鼓動を打ち始める。
(セレナはどこだ!?)
似たような髪型や服装の男女が入り乱れる広間を見回す。
彼女と思しき令嬢は、すぐに見つけられた。
カインから数メートル離れたところにいる、編み込んだブロンドの髪を頭の後ろでゆるくまとめ、ふんわりとした淡いピンク色のドレスを身につけた令嬢が、おそらくセレナだ。
ほとんどこちらに背を向けているのに彼女だとわかったのは、彼女が話をしている人物が同時に目に入ったからだ。
まるで炎を巻き上げるかのように高く結い上げられた赤毛と、紫の豪奢なドレス――。挿絵に描かれていたイラストそのものの目を引く装いをしている女性こそが、悪役令嬢のヴィオラだった。
小説通りに話が進むのであれば、セレナは今まさに、ヴィオラの策略によって媚薬を飲まされるところだろう。
小説では、媚薬を飲んだセレナはヴィオラに小部屋へと連れて行かれ、彼女の息のかかった地方の男爵に襲われそうになる。セレナ自身に王太子との婚約を辞退させようとしたか、あるいは、事実を暴露して断罪することが目的だったか。
いずれにしても、自室へ戻ろうとしていたエドワードが物音を不審に思い、部屋を覗いたことで、陰謀は阻止される。薄暗い部屋の中で襲おうとした男の顔は確認できず、逃げられてしまったが、未遂のうちに彼女を助け出すことはできた。
だが、隠れて成り行きを見守っていたヴィオラは、転んでもただは起きない女だった。
セレナはヴィオラによってエドワードとの密会の噂を流され、相手が王子のため罪は問われなかったものの、セレナと王太子との婚約は破談となる。
そしてその後はヴィオラが新たに王太子の婚約者になり、ヴィオラの父はその立場を利用して権力を拡大していく。不正な賄賂で私腹を肥やして、宮廷も軍部も意のままに操るようになるのだ。
クラウス親子のような悪人がのさばる未来は嫌だ。かと言って、筋書き通りに行動して、兄を失脚させて自分が王太子になるのも困る。
筋書きを変えた影響を予測する時間の余裕はなく、咄嗟の判断でヴィオラの陰謀を阻止することにした。
小走りに近い速足で彼女達の元へと向かう。
同時に、盆に二つのグラスを載せたメイドが彼女達へと近付いて来る。小説の通りなら透明な液体が媚薬入りのレモン水で鮮やかな赤い液体がラズベリーの果実酒。ヴィオラから飲み物を勧められ、お酒に弱いセレナはレモン水を取るはずだった。
彼女達まであと数歩のところで、セレナがグラスを取る。
前世同様に今世でも他人と積極的に関わってこなかった俺には、かける言葉がすぐには浮かばない。
(すごく喉が渇いているふりをして、俺がかわりに水を飲むしかない!)
唯一思いつけた策がそれだった。
媚薬がどんなものかはわからないが、自室にこもっていれば、どうにかやり過ごせるだろう。
「ちょ、ちょっと待って! その水、俺に……」
言い終わる間もなく、セレナがグラスを口元に運ぶ。
咄嗟に手を伸ばし、グラスを掴み取ったはいいが……、その勢いで中の水が大きく揺れた。
「キャッ」とセレナが小さな悲鳴を上げ、直後、パシャ、という音と共に、勢い余って背後に反らせたグラスが何か硬いものにぶつかった。
恐る恐る背後を振り返ると……、そこにいたのは、『水も滴るいい男』な推しだった。
片方の頬と顎、それにマントの肩と胸のあたりを濡らした男――カイン・ド・アルベールが、俺を睨み下ろしている。
思わず、「ひっ」と悲鳴をあげそうになったのを、必死に呑み込む。
一瞬、自分が王子であることも忘れて、「もももも申し訳ありません!」と床にひれ伏しそうになったが、幸いにも体が硬直しているお陰で王子にあるまじき行いをせずにすんだ。
「エドワード・リーヴェンス・グランディエール殿下。我が妹が、何か殿下のお気に障ることでもしましたでしょうか?」
濡れた頬を拭うこともせず、カインが冷ややかに訊ねる。その慇懃で落ち着き払った口調が彼の怒りの強さを表しているようで、背筋が凍る思いがする。
「い、いえ、彼女は何も……」
グラスを持っていないほうの手をぶんぶんと顔の前で横に振る。途中で自分の取るべき行動に気づき、慌てて「これでお拭きください」と胸元からハンカチーフを取り出しカインに差し出した。
カインは一瞬迷う素振りを見せたが、形ばかりの礼を言って受け取り、濡れた頬と顎を拭った。
「俺……私が、あまりに喉が渇いていて、今すぐ水を飲みたくなっただけです。彼女にも貴方にも、申し訳ないことをした」
「そうですか? 何やらただ事ではない形相で妹を見つめ近づいて来られたので、何かあったのかと思いましたよ」
カインの形のよい唇がわずかに口角を上げる。冷笑と言えるものなのについ見惚れてしまうのは、前世でこの顔を好きすぎたせいだろう。
俺がセレナを目指して勇んで近付いて来たため、何事かと心配し慌ててこちらに来たということか。お陰で推しと会話までできたが、できることならもっと普通に出会いたかった。
凹む気持ちに蓋をし、俺はおずおずと申し出た。
「衣を乾かして頂きたいので、私の部屋に来てもらってもよろしいですか? お詫びをしたいので、セレナ様もご一緒に……」
「お気遣いは不要です。放っておいてもそのうち乾きます」
ぴしゃりと突っぱねられ、万事休す。
確かに、グラスに入っていた水なのでそこまでびしょ濡れではないだろうが、部屋に招待したいのは、どちらかというとセレナのほうだ。
今夜のうちにヴィオラが陰謀の第二弾を仕掛けてくる可能性もなきにしもあらず。そのため、一度セレナをヴィオラから引き離し、媚薬を盛られる可能性があることを伝えたかった。だが、小説の展開を考えると、あらぬ噂を流されぬためにセレナと二人きりになることも避けた方がよい。
顎に指をあて深刻な顔で次の手を考え込んでいると、頭上に小さな嘆息が落ちた。
「わかりました。では、お言葉に甘えます。お前もよいな?」
カインが、セレナに向けるときだけ声色を和らげ、同意を求める。ヴィオラと並んでこちらの様子を窺っていた彼女が、「は、はい!」と緊張した面持ちで頷いた。
騒ぎに巻き込まれた体 のヴィオラはというと、ひとり険しい顔をしていたが、視線に気づき、にっこりと口の端に微笑みを浮かべてみせた。
作り笑いを返して中座の挨拶をし、アルベール兄妹を引き連れてその場を離れる。
廊下に出ると、入口近くで待機していた二人の騎士が、無言で俺たちの前後を固めるように歩き始めた。彼らは第3王子付きの護衛だ。王子にはそれぞれ、専任の侍従や護衛がついている。
どこに行くのかも、なぜ客人を連れているのかも、訊かれなかった。
彼らはこちらから声をかけない限り、自分から言葉を発することはない。普段ならカインもそうだろう。それが先程は、こちらが声をかけるより先に問い詰めてきたのだから、俺の所業がよほど腹に据えかねたに違いない。――いや、よほど、セレナのことが大切ということか。
赤い絨毯が敷かれた廊下は広く、壁には歴代王族の肖像画が並び、等間隔に燭台が灯されている。迷路のように入り組んだ廊下を、いくつも角を曲がって階段を昇り、またいくつか分岐と階段を通り過ぎて、2階の奥まった場所にある自室へと辿り着いた。
金の装飾が施された重厚な扉の鍵を開け、護衛の騎士の一人が先に中へと入って行く。室内の燭台に火を灯し部屋の確認を終えると、最後に暖炉にわずかに残っていた熾火に薪をくべた。出てきた騎士は、胸に手をあて軽く頭を下げる。入っても良い、という合図だ。
護衛の兵を部屋の外に待機させ、兄弟を促して部屋へと足を踏み入れた。広々とした自室には、壁際に天蓋付きの大きなベッド、中央に4人がけのテーブルと椅子が置かれ、暖炉の傍には一人掛けのソファがある。二人に椅子を勧め、チェストから一番清潔そうなクロスを引っ張り出した。テーブルまで戻り、カインへそれを差し出す。
「これでマントをお拭きください。お時間があれば、暖炉で乾かしますが……」
「お気遣いはご無用です。ここに来たのは、何故あのようなことをされたのか、理由をお聞きするためですから」
「喉が渇いていた」という言い訳が嘘であることは、とっくに見抜かれていたようだ。だからこそ素直についてきたのだろう。
クロスをテーブルに置き、彼の向かいの席に腰を下ろす。
さて。媚薬の件をどう説明したら信じてもらえるか。
追及の眼差しから逃れるようにしばし視線をさ迷わせ、やがて覚悟を決めた。
外の護衛兵に聞かれぬよう、二人を手招きして顔を近づけさせ、自身も前方に身を乗り出す。
ひと呼吸おき、重い口を開いた。
「セレナ様。先程は大変失礼いたしました。実はあのレモン水には、媚薬が混ぜられていたのです」
単刀直入に説明する以外、他の方策が思い浮かばなかった。
案の定、カインは眉根を寄せ、セレナはきょとんとした顔をした。媚薬が何かわかっていないようだ。俺も、つい先程――前世の記憶を取り戻すまでの純粋無垢なエドワードなら、その言葉すら知らなかった。
「えっと……、媚薬というのは、飲むとちょっと淫らな……」
「――悪酔いする特殊な酒だ」
ゴホン、と咳払いして俺の言葉を遮り、カインがセレナに説明する。間髪入れず、こちらに矛先を向けた。
「殿下はそれを誰からお聞きになったのですか? それが事実として、誰が、何の目的で薬を混ぜたのですか?」
「薬を混ぜるよう指示をしたのはヴィオラだ。セレナ様に薬を盛って、空いている小部屋に連れて行き、地方の男爵に襲わせるのが目的だった。それを誰に聞いたかは明かせない」
明かせないのではなく、そもそも俺にその話をした人物など存在しないのだが。「ここが前世で読んだ物語の世界で、あらすじ上、そうなっている」と説明したところで、信じてもらえるはずがない。
説明がしどろもどろだった所為か、カインは追及の手を緩めなかった。
「では、地方の男爵とは、どなたですか?」
「俺もそこまでは……」
小説の中のエドワードは、セレナを襲った男の顔を見ていない。話のどこかで正体が明らかになったのかもしれないが、台詞もないモブの名前までは記憶していない。
「殿下は証拠もないのに、その話をお信じになったのですか?」
質問を畳みかける口調は、完全に犯人を尋問する刑事のそれだ。確かに言われてみれば、事の仔細を明らかにするために、飲み物を運んできたメイドだけでもあの場で捕えておくべきであった。
視線を隣へ移し、助けを求めるようにセレナを見た。しかし彼女は長い睫毛を瞬かせ、不思議そうに小首を傾げるばかりだった。
「ヴィオラ様はとっても良い方ですのよ。わたくしが王太子殿下の婚約者に選ばれたときも、一番にお祝いに来てくださいましたし……」
どうせ油断させるための策略だろう。だが、このままでは、「ヴィオラに気をつけろ」と言っても、大した効果はなさそうだ。
「話がそれだけなら、私達はこれで失礼します」
カインが腰を浮かせる。
「ちょ、ちょっと待って! わかった。だったら、カインと二人で話をさせてもらえないか?」
思わず名前で呼んでしまっていたことに、口に出してから気がついた。今日初めて会ったばかりで、名前で呼べるような間柄ではない。カインの無表情が崩れ、驚いたように目を瞠る。その隙をつき、彼の腕を掴んで部屋の隅へと引っ張って行った。
この世界が前世で読んでいた物語の世界だと、正直に言ってしまおうか……。
いやでも、流石にそれは信じてもらえないだろう。それに、物語の内容を全て話せと言われたら、彼の非業の死のことまで話さなければいけなくなる。
歩きながら、取り乱した頭で話すことと伏せておくことを必死に取捨選択する。
壁際まで行き、セレナに背を向ける形で二人して壁のほうを向いた。頭一つ分背の高い彼の耳は、背伸びをしても俺の口が届きそうにない。腕を引き、顔を近づけさせる。
「俺には少しだけ、千里眼の能力があるんだ。ヴィオラはセレナを婚約者の座から引きずり降ろして、自分が王太子妃になることを狙っている。おそらくクラウス伯爵の指示だろう」
苦し紛れに持ち出したのが、「千里眼」という言葉だった。
カインが体をのけ反らせ気味に俺から距離を取る。気が触れたとでも思っているのか、驚くよりも憐れむような眼差しを向けてきた。
心が折れそうになるのをぐっと堪えて、背伸びをして再び彼の耳元に口を寄せる。
これでも信じてもらえないのなら、最終手段だ。
「12年前の、兄上毒殺の黒幕もクラウス伯爵だ。君の実のお父君に罪を着せたのもそう。セレナに次に盛られるのが、媚薬ではなく毒薬になる可能性は十分にありうる」
バッ、と今度は振り払うように、カインが勢いよく距離を取った。
驚愕に目を見開く顔には、わずかな怯えも垣間見える。
「どうしてそれを?」
声を荒げ、直後、ハッとした顔でセレナを振り返る。小説の通りなら、彼女はまだカインの出自を知らないはずだ。
カインは「大丈夫だ」とでも言いたげに、彼女にぎこちない微笑みを浮かべて見せ、再び壁を向いた。マントをふわりと広げ、俺の頭を覆う。
普通なら不敬罪ものだが、そのことに気づかないくらい動揺しているらしい。
俺は俺で、暗闇の中で彼の息遣いがすぐそばに感じられる状況に、恐慌に陥っていた。頬が熱を帯び、鼓動がドクドクと耳奥に響き始める。
「俺が養子であることを知るのは、アルベール家の両親と、信頼のおける父の側近のみのはずです。殿下はそれを誰からお聞きになったのですか?」
「誰からも聞いていない」
半ばヤケクソで即答する。この状況が心臓に悪すぎて、信じてもらえなくてもいいから、とにかく早く話を終わらせたかった。
「信じられないだろうけど、俺は生まれる前の世界で、少しだけ、この世界で起こることを知ったんだ。でも、今夜のヴィオラの陰謀を阻止したから、これからは俺が知っている未来とは変わってくる。兄上の婚約者でいる限り、セレナは命を狙われるだろう。そのことについて、一度君と相談したい」
「では明日、殿下に面会を申し込みます」
俺はふるふると首を横に振った。
「明日は駄目だ。これまで俺と君とは何の接点もなかったのに、急に面会を希望すれば、クラウス伯爵に怪しまれるかもしれない」
小説の中でも、セレナとエドワードがクラウス伯爵の悪事の証拠集めに奔走したことで、命を狙われ、カインが犠牲になった。俺が舞踏会でヴィオラの陰謀を阻止し、その翌日にカインと面会したのでは、早々にクラウス伯爵から目をつけられることになりかねない。
「君を俺の剣術指南に指名する。騎士団長が承認すれば一週間ほどで命令が下るだろうから、そうしたら指南役として王宮に来てくれ。それまでは、くれぐれもセレナの身辺や口にする物には気をつけてくれ」
これまで剣術に興味がなく、指南役を決めていなかったのが幸いした。急に俺が剣術にやる気を見せたら、家族や侍従たちは皆驚くだろうが、セレナの紹介だと言えば不審に思われることはないだろう。
カインはしばらくの間、口を噤み考え込んでいるようだった。やがて、頭上に潜めた声が落ちる。
「わかりました。では、そのようにお願いします」
マントが取り払われ、ようやくまともに呼吸ができるようになった。
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