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お忍び外出

 麻製のコットは、ごわつく布地が肌に馴染まず、動くたびに腕や足にチクチクとした不快感を覚える。前世でいうところの長袖のワンピースのようなもので、膝丈のブレーを穿いていても、普段と比べて下半身がスースーして落ち着かない。  女装をしたのなんて、前世の高校の文化祭でコスプレ喫茶をしたとき以来だ。あのときは、似合わな過ぎてただの黒歴史だが、さすがは美形のエドワード。スカートを穿くだけで美少女にしか見えなくて、鏡を見た瞬間は複雑な気分だった。  本当にこんな格好する必要あったのか!? と未だに納得できない思いだが、ここまできたら、どうか誰にも王子であることがバレませんようにと祈るしかない。  城内の通路を抜けると、やがて城門が見えてきた。槍を持った衛兵が三人立っていて、通行人を一人ずつ確認している。  反射的に隣を見ると、こちらを見下ろしていた切れ長の目と視線がぶつかった。「行くぞ」と言われた気がして、軽く頷き返す。肩に羽織ったクロークの襟元を引き寄せ、フードを目元近くまで目一杯引き下ろした。浅くなる呼吸に息苦しさを覚えながら、城門へと足を進める。 「城のメイドですか? アルベール公が女連れなんて、珍しいですね?」  通行証を確認しながら、衛兵が身を屈め、目深にかぶったフードの下から顔を覗き込んでくる。顎から頬にかけて濃い無精ひげが生えた顔も、汗の匂いの混じるむせ返るような体臭も、間近に接したのは生まれて初めてで、思わず身がすくんだ。 「すげー。こんな美人が城のメイドにいたんですか?」  衛兵は間近で顔を見ても、俺が男だとは疑いもしないようだった。  バレていないようでよかった。と安堵する心の余裕はない。  そっと肩を抱かれ、自分では動かせないでいる体を背後へと引かれる。 「3か月かけてようやく口説き落として、今日が初めての外出なんだ。一刻も早く彼女を家に連れて帰りたいから、あまり時間を取らせるな」  普段のそっけない声と違って、妙な色気を感じる、腰に響くイケボだ。緊張していて話の内容まではちゃんと理解できなかったが、何故か急に、衛兵たちはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ始めた。 「お若いのに、旦那も隅に置けませんねぇ」 「引き留めてしまってすみません。ささ、どうぞどうぞ。これからご自宅でゆっくりたっぷりお楽しみください」 「明日も仕事なら、あんまり無理させちゃあいけませんよ」  急に態度が変わった衛兵たちに薄気味の悪さを感じつつ、肩を抱かれたまま城門をくぐる。なだらかな坂道をくだり、緩いカーブを通り過ぎたところで肩から手が離れた。  いつのまにか、前後に人の気配を感じる。外で待機していた護衛の兵も合流したようだ。 「な。俺の言った通り、女装のほうがすんなり通してもらえただろ?」  珍しくカインは得意げだった。  確かに、衛兵たちが俺を城で働くメイドだと信じてくれて、何故かよくわからない歓待ムードになったけれども。あれは「すんなり」と言えるのだろうか。 「従僕の格好でも通れたと思うぞ」 「髪はフードで隠せても、お前さんのように綺麗な肌といい匂いのした従僕がいるわけないだろ。従僕なら、顔を見られた時点で正体を怪しまれている」  その言葉に、俺はぎくりとし、慌てて視線を彷徨わせた。 「に、匂いは……、侍女が勝手に髪に香油をつけただけだ……」  実を言うと、今日カインと外出することが決まっていたので、昨日、入浴後に髪と体に香油を塗っておいた。侍女に言われたからではない。しかし、外出を楽しみにしていたようで気恥ずかしく、できればカインには伏せておきたかった。  あまり鼻につかないよう、清涼感のあるベルガモットの香りを選んだが、それでも匂いがきつかっただろうか……。  これ以上匂いが洩れないよう、クロークの前を寄せてぎゅっと片手で握りしめる。 「それに肌も、最近では毎日外に出ているから、少しは日焼けしたんだぞ」 「本当か?」  歩きながら、カインが顔を覗き込んで来た。  香油とは真逆の男らしさをアピールしたつもりだったが、これも失敗だった。鼻先を寄せられたら、匂いがバレてしまう。 「毎日見ているからかな。あまり変わった気がしないな」  カインはすぐに、視線を前方へと戻した。  剣の稽古をするようになって、かれこれ二週間が経つ。  初夏に入り、日に日に陽射しの強さが増している。それでも、日光を浴びても赤くなるだけで日焼けをしない体質らしく、カインの小麦色の肌との差は歴然としている。 「俺も君みたいに日焼けしたら、少しは男らしく……」  見つめていた精悍な横顔が「ん?」とこちらを向く。これでは、カインが男らしいと言っているようなものだと気づき、慌てて「なんでもない」と口を噤んだ。  王族の住まいであり、国の中枢でもあるフィアリス城は、山の麓の高台にそびえ立っている。  山肌を縫うように緩やかに蛇行する石畳の道は、木々や草花に囲まれ、あちらこちらで小鳥のさえずりが響く。風が吹くたび、行く先の木漏れ日が揺れていた。  木々の合間からは眼下に広がる街が一望できる。城の塔から何度も眺めたことのある景色なのに、家々からたなびく煙や陽光を受ける赤茶色の屋根が、今日はひときわ鮮やかに映る。  硬い石畳の感触ではなく、雲の上を歩いているかのようなふわふわした心もとなさを覚えながら坂道を下っていくと、やがて石造りの大きな建物や牧場が見えてきた。  確か城の麓には、下級兵士の宿舎や厩舎が並び、馬を運動させるための牧場なんかもあったはず――と前世の記憶を手繰り寄せる。ひっきりなしに響く金属音は、きっと武具を作る鍛冶場のものだろう。  カインの後を追い、分岐路を右へ折れてしばらく歩くと、高い塀を有する立派な屋敷が立ち並ぶエリアへと出た。 「え? ここって、貴族街だよね? 教会に行くんじゃなかったの?」  思わず、隣を歩く男を仰ぎ見る。  兄の毒殺に関わったとされるメイドが娘を預けていた教会は、市民街にある。今日の外出の目的地はそこだったはず。 「一度我が家に寄って、着替えてもらおうと思って。その服装のままでよければ、直接教会に向かうが」 「え? 俺、アルベール家に行けるってこと? なんだよ! そういうことは先に言ってよ! 何も手土産用意してないじゃん! あーーー、しかも俺、こんな格好だし」 「何故、友の家に行くのに手土産がいるんだ? それに、こんな格好だから、着替えるために行くんだろ?」  初めて推しの家に行くのに、手土産もない上に女装で行かねばならないオタクの嘆きは、理解してはもらえないらしい。  そうこうしているうちに、中でもひときわ門構えの立派な建物へとカインが近づいていく。どうやらそこが、アルベール家のようだ。門は開いていて、門番らしき屈強な男が、帽子を胸元に当て、軽く頭を下げて迎えてくれた。  「お帰りなさいませ」という男の言葉にカインが「ただいま」と返し、俺も、小声で「こんにちは」と挨拶をする。素通りするのかと思いきや、顔を上げた男が何やら困ったような眼差しをカインに向けてきて、それにつられる形でその場に足を止めた。 「何かあったか?」 「それが……。ヴァルモント家のご兄妹がいらっしゃっています」 「ヴァルモント兄妹!?」  俺の嬉々とした声とは裏腹に、隣からは「チッ」と舌打ちが聞こえてくる。  ヴァルモント兄妹というのはアルベール家の隣にあるヴァルモント公爵家の令息と令嬢で、カインやセレナとは幼馴染だ。兄のコンラート・フォン・ヴァルモントがカインと同じ24才で、妹のリリアがセレナと同じ19才。  推しの家に来ただけでなく、まさか幼馴染の兄妹にもお目にかかれるなんて。  一瞬、気持ちが前世に戻り、目を輝かせていたら、物言いたげな半眼と視線がぶつかった。  カインが門番に背を向け、ひそひそ話の(てい)で耳元に顔を寄せてくる。 「あいつらを追い出すから、それまで門の陰に隠れてろ」 「え? なんで? こんな機会二度とないだろうから、近くで見させてよ」 「正体がバレてもいいのか? 二人とも第三王子の顔を知らないはずないだろ」  確かに、コンラートは宮廷の官吏だから、廊下ですれ違ったことくらいはある。リリアも、面と向かって会ったことはないが、舞踏会などでは同じ場所にいたかもしれない。  でも、前世の記憶が戻る前だから、これまで特に意識することもなくスルーしていた。 「うーーーん。あ! じゃあ、カイン、そのクラバットを貸してくれない?」 「いいけど……、いったい何にするんだ?」  今日は騎士団の仕事が休みのカインは、白いシャツの上に丈の短い紺色のジャケットを羽織り、下はライディングパンツというラフな格好をしている。俺を王宮まで迎えに来てくれたからか、軽装にも関わらずクラバットを巻いていて、首からするりと抜き取ったそれを不可解そうに渡された。  俺はそれで自身の鼻から下を覆い、フードの中に手を入れ、頭の後ろで端を結んでずり落ちないように固定した。即席のフェイスマスクの完成だ。これで、目元以外は全て隠せたことになる。  香水だろうか。クラバットからはシトラス系の香りがして、少しだけ落ち着かない気分になる。 「これなら、正体がバレないだろ?」 「か……、顔を隠すんだったら、家から清潔な布を持ってくるから、先に言え!」  カインは珍しく慌てた顔をしている。心なしか頬も赤い。 「別にいいよ。そんなに汗臭くないから」 「そんなにってことは、少しは汗臭いってことか?」  いつも剣術の稽古をするときは汗の匂いなんて気にしたことないのに。  変なの。と思いつつ、そんな意外な反応が可愛くもあった。口元がニヤつくのを抑えきれず、やはりマスクがあってよかったと思う。 「そもそもフードをかぶって顔も布で覆っていたら、正体がバレなくても怪しすぎるだろ」 「それについては俺に考えがあるから大丈夫だよ!」  ドヤ顔で親指を立てて見せたが、露出しているのが目元だけでは説得力に欠ける。胡乱な顔のカインの背中を押し、アルベール公爵家の邸宅へと足を踏み入れた。  いつのまにか姿が見えなくなっていた護衛の兵は、門の外で身を潜めているようだ。  門の奥には、石畳の小道が庭を貫き、屋敷へと伸びていた。  道の両脇には手入れの行き届いた芝生が広がり、花壇にはアイリスやバラ、デルフィニウムが植えられ、柔らかな風に乗って甘い香りが漂ってくる。低く刈り込まれた生け垣が庭の輪郭を美しく縁取り、さらにその外側には、塀に沿って背の高い庭木が整然と並び、涼やかな木陰を作っている。  淡い黄色の花を咲かせたシナノキや、堂々と枝を広げるマロニエ。そして、根元から複数の幹が絡み合い、灰緑色の葉をつけたオリーブの木が、風を受けて銀色にきらめいていた。  庭の広さや豪華さで言えば、王宮の庭園には到底及ばない。けれど、前世の推しであるカインが育った家だと思うと、見るもの全てに胸が熱くなり、景色を余すところなく目に焼き付けたくなる。フードとマスクをしている安心感もあり、無遠慮にキョロキョロと視線を彷徨わせながら、小道を奥へと進んだ。  入ってすぐの一角に、小さめの厩舎があった。庭の向こうには、煉瓦造りの建物と、それよりもさらに大きな石造りの屋敷が並んでいる。煉瓦造りのほうは、きっと使用人の住まいだろう。  主屋には庭に面して、広々としたテラスがある。そこに、三人の若い男女の姿を認めた。真っ白な大理石のテーブルで、優雅にお茶を嗜んでいる。 「ヴァルモント兄妹と……、もう一人はハインリヒか!?」  質問というより、思わず感嘆が洩れた感じだった。  先を歩いていたカインが顔を振り向かせる。 「弟のことも知っていたのか? それも前世とやらで知ったのか?」 「まぁ、そんなところだ」  相変わらずだな。とでも言いたげな冷めた眼差しで一瞥し、カインは再び前を向く。  セレナの弟でアルベール家の正式な跡取りであるハインリヒは、確かセレナより3つ下で、今は16才のはず。  俺が時々、感極まって洩らしてしまう前世の話を、カインは一応信じてくれているようだ。ただ、興味を持つことはなく、前世で俺が見てきたこの世界で、彼自身がどういう人生を送ったかとか、誰と結ばれたかとか、訊ねられたことはない。  俺たちに気が付いたヴァルモント兄妹が椅子から立ち上がった。兄のコンラートが軽く片手を上げ、妹のリリアがぶんぶんと両手を振る。  カインはエントランスではなく庭を回り込んでテラスへと向かい、俺もそれに続いた。  ヴァルモント兄妹は、軽くウェーブした亜麻色の髪を、兄の方は後ろで一つに束ね、妹は大きなリボンの髪飾りをつけて、ふんわりと腰まで垂らしていた。よく似たアーモンド形の目は、猫のように鋭く、二人の勝気な性格を表している。 「おかえり、兄さん」  最初に声をかけてきたのはハインリヒだった。セレナと同じストレートのブロンドヘアは、おかっぱくらいの長さで切り揃えられていて、愛くるしい顔立ちも彼女とよく似ている。血色のよいピンク色の頬や柔らかな微笑みは、まるで天使のようだ。 「カイン! せっかくのお休みなのにお城に行っていたの? 何か急なお仕事だったのかしら? それに後ろのその方はどなた? どうしてお顔を隠していらっしゃるの?」 「セレナが王宮で暮らすことになったとは本当か!? 僕は何も聞いてないぞ! いくら婚約したとはいえ、まだ婚姻の儀も済ませていないというのに、未婚の男女が一つ屋根の下で暮らすのは早すぎるだろ!?」  カインがテーブルに辿り着くのも待たずに、隣家の兄妹は矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。 (そうそう。この人達、こんな感じだったよなー。小説のまんまじゃん)  前世の記憶を掘り起こし、俺一人がマスクの下で笑いを噛み殺している。  ヴァルモント兄妹は、兄のコンラートがセレナに気があり、妹のリリアがカインに気がある。小説の中では何かにつけてアルベール家を訪れ、二人に構う「お騒がせ兄妹」といった役どころだった。  そして兄の方は、セレナが王太子から婚約を破棄されて以降は、徐々に彼女との距離を縮めていくエドワードを疎ましく思い、二人の邪魔をし始める。クラウス伯爵に二人が伯爵のことを嗅ぎ回っていることを告げ口したのも、コンラートだった。 「セレナは王太子妃になるにはまだまだ行儀作法が足りないからな。花嫁修業というやつだ。それでこの人は……」  カインが先にコンラートの質問に答え、続いて俺のことを紹介しようとする。それを遮り、俺は一歩前へ進み出た。  王宮勤めらしい優雅な所作で、片手で軽くスカートの端をつまみながら、もう一方の手を胸の前に添え、頭を下げる。剣術は一向に上達しないが、こういった礼儀作法は、子供の頃から叩き込まれて体に染みついている。 「わたくしは宮廷でセレナ様のお世話をしている侍女です。こちらには、セレナ様のお忘れ物を取りに参りました」 「あら。そうでしたの」  カインが女連れで帰って来たことに気が気でなかった様子のリリアは、険しかった表情をホッと緩めた。 「でも、どうしてお顔を隠していらっしゃるの?」 「王宮で王族のお傍近くに仕える者は、外では顔を隠すのが決まりなのです。余計なトラブ……面倒ごとに巻き込まれないためですわ」  そんな決まりなどないが、前世からの習性で適当に話をでっちあげるのは得意だ。 「リリア様のお話は、道中、カイン様から色々うかがいましたのよ。お菓子を作るのが得意だそうで……。久々にリリア様の焼き菓子を食べたいとしきりに仰っていましたわ」  最大限のソプラノで、「ほほほほ」と上品な笑い声をあげる。  王子のくせに何をやっているんだと、自分でも思わなくもないが、背に腹は代えられない。  カインが慌てて、俺のフードの肘のあたりを引き、「おい!」と耳元で囁く。 「まぁ、そうでしたの! カインが私のお菓子を!」  案の定、リリアは、わかりやすく、パアッと顔を輝かせた。 「それならそうと言ってくれたら、朝から準備してたのに。今から帰って作るから、少し時間がかかるけどいい? 楽しみに待ってて!」  カインの返事も待たずに、リリアはそそくさとその場から離れ、スカートの前を軽く持ち上げて裾を浮かせ、弾むように走り去っていった。  乙女心を利用してすまん。という謝罪を眼差しに込めて、それを見送る。  カインは物言いたげにこちらを見ていた。ハインリヒをチラリと一瞥して目配せすると、何か意図があってのことと察したらしい。煩わしそうに嘆息し、ハインリヒに顔を向けた。 「ハインツ。すまないが、リリアが菓子に蜂蜜を入れ過ぎないように見ていてくれないか? それに焦がさないように頼む」 「いいよ。そのかわり、僕の好きな無花果を入れてもらってもいい?」 「どうせ食べるのはお前しかいないんだ。好きにしたらいい」  実を言うとカインは、リリアがカインのために作ってくる甘すぎる焼き菓子を苦手としている。という事実も、本当は前世の記憶で知っていた。  ハインリヒを見送り振り返ると、立ったままのコンラートは、先ほどまでなかった警戒の色を顔に浮かべていた。今のやり取りがリリアを追い払うためのものだと気づいているようだ。  宮廷官吏のコンラートは、さすがに妹よりは人の機微に聡いらしい。  戸惑う様子の彼に、目元だけで微笑みを返す。 「申し訳ありません。折り入って、ヴァルモント公にお願いしたいことがございましたの。リリア様のお耳には入れないほうがよいかと思いまして」 「僕にお願い事?」  怪訝そうに眉を寄せるコンラートに、頷き返す。同様に訝しげなカインを視線で促し、俺たちはリリアとハインリヒが座っていた席に腰を下ろした。  カインが座る前に椅子を俺の方に引き寄せたため、俺とカインが並び、テーブルを挟んでコンラートと対峙する形になった。  短い沈黙が落ちる。無意識に空のティーカップを指先で撫でる仕草から、コンラートの緊張が伝わってくる。  俺は息を整え、目の前の人物を真っすぐに見据えて、口を開いた。 「単刀直入に申し上げます。今、セレナ様は身の危険に晒されております」  コンラートが息を呑み、髪と同じ薄茶の瞳が見開かれる。 「セレナが? もしかして、婚姻前から宮廷で暮らし始めたのも、それが原因なのか?」  コンラートは侍女に扮した俺ではなく、隣のカインへと質問を向けた。 「……まぁ。王太子の婚約者ともなれば、そのような危険が伴う可能性もないわけではないからな……」  俺の意図を計りかねているのか、いつになくカインは歯切れが悪い。 「セレナ様の御身が危険に晒されていることは、杞憂ではありません。これはここだけの話に留めて頂きたいのですが……、既に一度、セレナ様にお出しするお食事に毒が盛られていたことがございました」 「ど、毒!?」  これにはかなり驚いたようで、コンラートの声は裏返っていた。  隣でカインも、わずかに肩を強張らせた気配がする。 「幸いにも鼠を使った毒見で発覚したため、犠牲になった人間はおりません」 「カイン。お前は知っていたのか?」  コンラートがテーブルの上に身を乗り出し、カインに詰め寄る。  カインは若干迷惑そうな顔で、不承不承頷いてみせた。 「陛下に近しい方しか知らない話だ。俺はセレナの身内だから特別に教えてもらえた」 「それで、毒を盛った犯人は見つかったのか?」  俺は神妙な面持ちで首を横に振った。 「探しておりますが、今はまだ……。それに、毒を盛った者を見つけ出せたとして、おそらく黒幕には辿り着けないでしょう」 「だが、そのような危険に晒されているのなら、王太子殿下のほうから婚約を破棄してもらうこともできるのではないか? 公爵令嬢の命がかかっているのなら、申し出を無碍にはされないだろう」  コンラートの必死の形相からは、セレナに思いを寄せていることを抜きにしても、本気で彼女のことを心配していることが伝わってくる。  小説の中の彼は、嫉妬心から彼女とエドワードの動向をクラウス伯爵に密告した。そのせいでカインが命を落とすことになったのだから、ただの読者だった頃は、俺も彼のことを憎き悪役として見ていた。  ただ、彼もまた、苦しんだことも知っている。  カインを死に追いやったのがクラウス伯爵で、その大元の原因を作ったのが自分だと知ってからは、自死してしまうのではないかと思うような落ち込みようだった。  だから、今ならまだ、間に合うのではないかと思ったのだ。後々、彼が後悔することのないよう、今のうちに味方に引き入れておく。セレナの命がかかっていると言えば、きっと裏切るようなことはしないはずだ。  名付けて、『敵をして将と為す』作戦。前世で読んだ三国志系の漫画からヒントを得たものだった。 「今のところ、セレナ様は婚約破棄を望んでおられません」  きっぱりと言い切ると、コンラートはたじろぎ、うろたえたように視線を揺らした。 「何故だ? 命を狙われているのだろう? 彼女は王太子妃の地位に執着するような人ではない。王太子に、彼女が命を懸けて惚れるような魅力があるとも思えない」  何気に不敬罪とも取れる発言だ。男の格好をしていたなら、「俺の兄上だが」と意地悪を言ってやっただろうが、女装の今は思いとどまった。  そう言いたくなる気持ちもわからないでもない。カインのような男を兄に持つセレナにとっては、穏やかで人がよいだけの兄上は、男としては物足りないのではないかと俺も思っている。 「アルベール公の指示か?」  カインは静かに首を横に振った。 「セレナ自身が望んだことだ。あれは……、俺が思っていた以上に、頑なで強かな女のようだ」  誇らしげとも取れる声色だった。最後に、ふっと吐息混じりの笑いが洩れ聞こえる。  きっと彼は今、愛する義妹(いもうと)だけに見せる、優しい表情(かお)をしているのだろう。  見たいと思うのに。何故か苦しい程に動悸がして、顔を動かすことができなかった。  セレナに出す予定の食事に毒が盛られていた件については、兄上とともに父上から説明を受けた。  第一王子である異母兄が毒殺されて以降、王族の食事は念入りに毒見が行われている。  まずは宮廷長、侍女長、侍医の三者立ち合いの元に鼠による毒見が行われ、その後、食べる直前に本人の前で、毒見役の人間が試食する。  今回、第一段階の鼠による毒見で異変が発覚し、すぐさま国王へ報告が上がった。その後、兄上と俺が呼ばれて、父上から仔細を聞かされた。  兄だけでなく俺も呼ばれたのは、その話をカインの耳に入れるためであった。彼は今、俺の剣術指南役なので、稽古の休憩中にこっそり話せば、最も目立たずにすむ。  父上はこのことをセレナ本人に伝えるべきかどうか、悩んでいた。俺は彼女を不安にさせないために、隠しておくほうがよいだろうと思ったが、兄上は逆だった。温和で、事なかれ主義の兄にしては珍しく、彼女にその事実を伝えるべきだと、きっぱりと主張したのだ。  王太子の婚約者という立場は、それだけ危険が伴う。事実を話して、彼女が婚約破棄を望むのならそうしたいというのが、兄の考えだった。  結果、兄上の意見を尊重してセレナに事実が伝えられた。彼女は怯えた様子を見せたものの、婚約破棄は望まなかった。 『毒を盛った者の狙いは、私を王太子の婚約者の座から退けることだと思います。だとしたら、私が婚約を辞退すれば、黒幕の思う壺ですよね? 私はそのような卑劣な奸計(かんけい)に屈したくはありません』  彼女は声を震わせて、けれど真っすぐに国王を見据えて、そう言った。  それを聞いたときの俺も、今のコンラートと似たような反応をしたように思う。清楚で控えめな彼女が、意外にも肝が据わっていたことに驚かされた。  ただ、小説の展開を思い起こせば、それがセレナの本質であった。カインが言うように、彼女は芯が強く、勇敢な女性だ。そのような彼女だからこそ、カインも心から慈しみ、命を賭して守ったのだ。 「だがそうなると……、毒を盛った黒幕が捕まるまでは、セレナの身が心配だな」  コンラートの沈んだ声に、物思いから引き戻される。 「仰る通りです」  俺は伏し目がちに、ゆっくりと頷いた。 「普通に考えたら、黒幕はセレナ様に代わって娘を王太子妃にしたい貴族の誰かと思われます。ですが、同じ年の頃のご令嬢のいる貴族は、それなりにいます」  小説の中では、セレナがヴィオラの陰謀で婚約破棄された後、次の王太子妃候補になるはずだった上位貴族の令嬢たちも、ヴィオラ以外はいつのまにか候補から脱落していた。  身分の低い男と駆け落ちしていたり、暴漢に襲われて顔に痣を作っていたり。脱落した理由は様々だったが、全てクラウス親子が裏で糸を引いていたと思われる。だが、それを「前世で知った」と説明したとして、彼はカインのようには信じてくれないだろう。そのため、別の方向から切り込むことにする。 「侍医の話では、今回食事に混ぜられていた毒は、12年前の、第一王子を弑したものと同じもののようです」 「12年前!? だが、あのときの犯人は、既に処刑されているだろう?」  コンラートが声を上擦らせる。テーブルの上で組まれていたカインの両手に、わずかに力がこもるのが見て取れた。  事前に説明もなくこの話題を出したことへの詫びのつもりで、テーブルの下で彼のジャケットの裾をそっと引く。  「大丈夫だ」とでも言うように、彼は固く握り込んでいた手をそっと開き、指を交互に組み直した。  横目にそれを捉えて安堵の吐息を洩らし、コンラートへと視線を戻す。 「ですが、あの事件は、不可解な点もいくつかあります。もしかしたら、セレナ様に毒を盛った黒幕が、あの事件と何か関係があるかもしれません。それで私たちは、王太子殿下の命により、あの事件のことを調べ直しているのです」  しばらくの間、考え込むように押し黙っていたコンラートが、やがて覚悟を決めた様子で口を開いた。 「……もしかして、僕にお願いしたいことというのは……、あの事件に関する事か?」 「お察しがよくて助かりますわ」  俺はにっこりと、目を細めてみせた。  王立学院を卒業し、宮廷の官吏となったコンラートは、財務院に配属され主計官を務めている。彼に頼んだのは、12年前の王太子費の帳簿を確認してもらうことだった。  処刑されたノヴァリオ侯爵は、王太子のための予算である王太子費を横領していて、それを王太子に知られたことが殺害の動機とされていた。クラウス伯爵が王太子殺害の黒幕なら、王太子費を横領していたのも伯爵だろう。しかし、実際にどのような手口で横領が行われたのかは、宮廷裁判の記録が紛失していてわからない。そこで、コンラートの手を借りることにしたのだ。  主計官である彼なら、過去の帳簿を調べていても誰にも怪しまれないですむ。彼にはクラウス伯爵を疑っていることは告げずに、「王太子殺害が本当にノヴァリオ侯爵一人による凶行であったか、調べ直している」とだけ説明した。彼は不審そうな顔をしていたが、一応は引き受けることを約束してくれた。  コンラートを見送った後、ホーズと呼ばれる膝下が細いズボンと麻のシャツに着替えて、アルベール家を辞去した。今度はカインの従者に扮したわけだが、例の如く、「従者顔ではない」という理由でクロークを脱ぐことは許してもらえなかった。フードを目深にかぶり、速足で歩いていると、こめかみにジワリと汗が滲んでくる。  前世では温暖化の影響で年々気温が上がり、初夏と言えど真夏日に近かった。このフィアリス王国は、同じ時期でも湿気がなく、陽射しもやわらかい。ただ、体を動かすとそれなりに暑い。 「どうして事前に相談もなしに、コニーにあんなことを頼んだんだ?」  市民街へと向かう道すがら、カインは不満をぶつけてきた。コニーというのは、コンラートの愛称だ。  屋敷では使用人の耳があるため、我慢していたらしい。  貴族街から離れるにつれ、石畳の道は所々ひび割れ、小さな陥没が目立ちはじめた。馬車ならかなり揺れたであろう悪路を、割れ目に足を取られぬよう慎重に歩を進める。  初めての外出なので、ゆっくり景色を楽しみたくて、「歩いて行きたい」と俺が言いだした。だが、実際は景色を楽しむ余裕などなかった。カインは文句を言いながらも、歩く速さは俺に合わせてくれている。 「相談する時間がなかったんだよ。ヴァルモント兄妹がいることを事前に知っていたら、ちゃんと相談したさ」 「思いつきで話していいことではないだろう? 何故、今日初めて会った相手を信用する?」  正論ではあるが。まるでコンラートのことを「信用できない」とでも言いたげな口ぶりに、違和感を覚える。  小説の中では、カインは最後までコンラートを信頼していたのに。 「君とセレナの幼馴染だろう? 彼がセレナのことを大事に思っていることは俺にもわかる」 「確かに、コニーはセレナの身を危険に晒すようなことはしないだろう。だが、あいつは完全にセレナの味方でもない」 「どういう意味だ?」  隣を歩く男を見上げようと顔を上げ、眩さに目を細めた。  朝食後すぐに城を出たが、アルベール家に長居して、すっかり時間を食ってしまった。日は既にてっぺん近くにある。 「王太子の婚約者という立場が身の危険を伴うことを知った以上、セレナの無事が保証されるのなら、コニーは婚約を破棄させるための陰謀に加担する可能性もある。セレナの身を案じて、本人の意志に反することをする可能性もあるってことだ」  自分では思いもしなかった可能性を指摘され、言葉に詰まる。 「彼女自身が婚約破棄を望んでいないのに?」 「男なら、愛する人を危険な場所に置くよりは、自分の手で守ってやりたいと思うものだろう? おまけに、婚約が破談になれば、自分にもその機会が回ってくるのだからな」  甘い言葉とはおよそ無縁の男の口から、「愛する」という言葉を聞き、一瞬ドキッとした。  道端の木々が徐々に少なくなり、視界が開けていく。石畳の向こうに、煙突から煙を吐く、不揃いな灰褐色の屋根が見えてきた。   「君もそうなのか?」  さりげなく訊ねたつもりだったのに。少し声が上擦ってしまった。  カインも、「愛する人を危険な場所に置くよりは、自分の手で守ってやりたい」と思っているのなら。もしかしたら、自分がやっていることは全て、彼の意にそぐわないことかもしれない。 「一時的に婚約を解消してもらって、その間にクラウス伯爵を断罪するための証拠を集めることもできると思う。父上と兄上に、『セレナの食事に毒を盛った黒幕が見つかるまでは、そのほうが安全だから』と言って、一旦婚約を解消してもらうよう進言してみようか?」  そうすれば、セレナはまた実家で暮らせる。カインも、自分の手で愛する人を守ることができる。  緊張して答えを待つ頭上に、落ち着いた声が降ってくる。 「俺も……、セレナを危険な目に遭わせたくはない。だが、いずれは王妃になって、王と国を支えたいと覚悟を決めた妹を、尊敬もしている。王妃になれば、きっと今より危険も気苦労も増える。そのたびに婚姻を解消して実家に逃げ帰るわけにいかないだろう? セレナが自分から婚約解消を望まない限りは、俺はあいつの意志を尊重するよ」  彼らしい答えだ。そう思う一方で、彼は微塵も、兄妹の枠を外すつもりはないのだと思うと、切なくなった。  セレナはカインを血の繋がった兄と信じて育っている。ノヴァリオ侯爵の冤罪を晴らし、カインがノヴァリオ家を再興できたとして、真実を知ったセレナがカインを男として意識するかもしれないと思うことは、彼女に対してとても失礼なことに思える。  俺だって、いきなり、「妹と実は血が繋がっていなかった」と言われたとして、妹を女性として見ることなんてできない。ましてや妹相手に恋愛や結婚なんて、気色悪いとさえ思ってしまうレベルだ。  セレナへの恋情を露わにすれば、もう二度と、これまで通りの普通の兄妹ではいられなくなる。カインはそれが怖いのだろう。  身分の差や体裁だけではない。カインとセレナが結ばれるには、それよりもっと高い壁があったことに今更ながらに気が付いた。 「必ず推しの幸せを見届けるなんて、軽々しく言ってごめん」 「なぜ今その答えになるのかはよくわからないが……」  しゅんと俯いた頭に、フード越しにあたたかいものが触れた。ぽんぽんと軽く叩かれ、撫でられる。 「とにかく。コニーだけでなく、これからは誰かに協力を仰ぐときは、絶対に一人で即決するな。必ず先に俺に相談しろ」  わかった、と答えると、ふっ、と安堵の滲む笑いが落ちてきた。  街に入ると、途端に雑然とした風景になった。  貴族街とは異なり、ほとんどの家には塀がなく、屋根を寄せ合うようにして並んでいる。どれもが木造で、漆喰の壁は灰白色に煤けていた。  細い垣根で区切られた庭には、干し草や薪が積まれ、物干し台には洗濯物が風に揺れている。中には花壇で花を育てている家もあった。  狭い石畳の通りを子供たちが駆け回り、どこからともなくパンを焼く香ばしい匂いや、煮込んだスープの香りが漂ってくる。生活感と、活気に満ちたざわめきが街を満たしていた。 「これがフィアリス王国の街並みかぁ」  庶民の中に俺の顔を知る人間はいないだろうから、市民街に入る手前でフードとマスクを外してよいと許可が出た。その解放感もあり、ついキョロキョロと辺りを見回してしまう。 「田舎者の従者だと思われるぞ」  耳元で囁かれ、そう言えば従者の設定だったことを思い出した。  カインをそっちのけで前のめりに歩いていたのを、慌てて足並みを合わせる。  街の中心に向かうにつれ、露店や、店先で肉や野菜、パンなどを売る店を目にするようになった。パンや菓子の甘い香りがそこかしこに漂い、通りを行き交う人も増えてきた。食堂では店先にもテーブルがあり、昼間から酒を酌み交わす男たちもいる。 「カインはいつもどんな店に行くんだ?」 「え?」  少し驚いた声を上げたカインは、珍しく返答に詰まっているようだった。 「いえ、特には……。そもそも、街に出ること自体、滅多にありませんし……」  動揺しているのか、何故か敬語になっている。 「そうか? 君のお勧めの店があれば、行ってみたかったんだがな」  気になったものの、それ以上は追及せず、露店の美味しそうな焼き菓子に目移りしていると、クロークの袖を引かれた。 「エド、そっちは人が多くて危険だから、こっちの道を行こう」 「え? でも、教会はこの大通りを真っすぐ行ったところだよね?」  万が一、カインとはぐれたときのために、都の地図はなんとなく頭に入れてきている。  人通りが多いと言っても、今日は市が開かれていない日で、歩くのに困るほど混雑しているわけではない。それに、むしろ、人通りの少ない小道のほうが、危険なのではなかろうか。  足を止め戸惑っていると、前方から鼻にかかったような女性の声が聞こえてきた。 「あらぁ。アルベール公ではございませんかぁ」  声のしたほうに顔を向け、ぎょっとした。女性のドレスが、あまりにセクシーなデザインだったからだ。  女性の顔より何より、大きく開いた胸元に最初に目が行った。そこには、白く滑らかな肌の豊満なバストが、レースに縁取られた襟ぐりに窮屈そうに押し込められ、深い谷間を作っていた。その谷間には、大粒の真珠をあしらったネックレスがおさまっている。  そこから視線を上げると、濃いめの化粧をした女性が媚びるような眼差しをカインに向けていた。美人には違いないが、王宮では見かけない、随分と妖艶な美人だ。銀のかんざしを差した髪は優雅にまとめ上げられ、露わになった細い首やうなじが一層の色気を醸し出している。 (なんか……、マリリン・モンローみたいだな)  前世で、「金髪セクシー女優と言えば!」だった人物を久々に思い出した。  女性の服装から、彼女がどういう職種で、その奥に見えるレンガ造りの豪奢な建物がどんなサービスを提供する店かは、容易に想像できた。店の前で客引きをしていて、カインに気づき近づいて来た、といったところか。 「今日はお一人ですか? アルベール公がお一人でいらっしゃるなんて、珍しいですわねぇ。さ、どうぞ。お一人なら、たっぷりおもてなしできますわ」  女性はカインの腕に両手を絡め、強引に店に連れ込もうとする。従者役の俺は、人の数に入れられていないようだ。 「今日はお前のところに来たわけじゃない! ……いや、というか、『今日()』じゃない! 『今日()』だ! いつもお前のところに来ているわけじゃない!」  娼館の女と顔見知りであることを俺に知られたからか、カインはかなり狼狽していた。俺がセレナにバラさないか、心配しているのだろう。  「妹君には内緒にしておくから安心しろ」と言ってやりたいが、不用意に妹のことを口に出して、カインと妹の関係を勘繰られるのも困る。  カインもいい年した男だ。この時代の人間なら、娼館に行くのも普通だろうと思う反面、裏切られたように思ってしまっている自分もいる。  それは「ガッカリ」よりもずっと鋭利で重苦しい感情で、そこから逃れるように、店に入る入らないで揉めている二人から視線を逸らした。  何とはなしに視線をさ迷わせた先で、一人の女性が目に入った。  初老の女性で、果物の入った籠を下げている。彼女が気になったのは、道端に立ちつくし、驚いた顔でこちらを見ていたからだった。それに、どこか見覚えがある。  俺が見ていることに気づかないくらいだから、彼女が見ているのはカインか娼婦のどちらかだろう。 「エド、違うんだ」  ようやく女を追い返したようで、カインがこちらを向く。そのタイミングで初老の女性は俺の視線に気づき、ハッとした顔で身を翻し、俺たちに背を向けて歩き出した。  無意識のうちに、足が動いていた。  女性の後を追い、来た道を引き返し始めた俺を、カインが慌てて追いかけてくる。 「エド、どうした? なぜ引き返す? あの女のことで気を悪くしたのか? あそこには、上官に無理やり付き合わされて行っていただけだ。お前が気にするようなことは何もない」 「セレナには黙っておくから心配するな。それより、あのご婦人、君の知り合いか? 向こうは君を知っているようだった」  知っている、という表現が適切かはわからないが。  俺の視線に気づいて逃げるように立ち去ったところを見ると、おそらく、彼女が驚いた顔で見ていたのは、娼婦ではなくカインだったに違いない。 「ご婦人って、前を歩いているあの人か? 後ろ姿だけではわからないが……、身なりからすると貴族の下働きのようだな。どこかの屋敷で顔を合わせたことくらいはあるかもしれない」 「貴族の下働きか……」  小説の中で挿絵に描かれるようなメインキャラの中には、あんなおばさんはいなかった。会ったことがあるとしたら生まれ変わってからだ。でも、貴族の下働きなら、王子の俺には縁遠い。  かつて王宮で働いていた女性が、王宮を下がって今は貴族に仕えている可能性は考えられる。だが、その場合、カインと顔を合わせたことがあるにしても、せいぜい屋敷内ですれ違った程度のはずだ。何故カインを見て、あれほど驚いていたのか。 「カイン。君、貴族のご令嬢に遊びで手を出して、泣かせたことはなかったか?」 「そんなことするわけないだろう!」  本気で怒っているような声だった。  考えを巡らせつつ女性の後をつけ、気づけば街の外れ近くまで戻って来てしまい、カインの言う「貴族の下働き」の説が有力になった。ここから女を追って貴族街まで戻れば、教会に行く時間がなくなってしまう。  仕方なしに俺は片手を上げた。 「お呼びでしょうか」  気配もなしに、『影』の一人が背後から現れる。  『影』は第一王子の暗殺後、王族の護衛のために作られた王直属の護衛部隊で、王に絶対の忠誠を誓う、信用のおける者たちのみで構成されている。 「すまないが、あの者の後をつけて、誰の屋敷で働いているか突き止めてくれ」 「ですが、それでは殿下の護衛が手薄になります」  基本、一切の無駄口を叩かず、「御意」としか答えない『影』だが、王族の身に危険が及ぶ場合は例外らしい。 「これだけ人通りが多いのだから、街中で襲われる心配はないだろう。俺たちは先に教会に向かう。身元を突き止めたら教会に来てくれ」  こちらを睥睨する視線は鋭く、すぐには首を縦に振ってくれなかった。「カインもいるから大丈夫だ」と畳み掛けると、どうにか「御意」と折れてくれた。  教会で話を聞いたところによると、第一王子毒殺の際、お茶を運んだ侍女の娘は、王子の事件からまもなくして、下級貴族の元に嫁いでいた。クラウス伯爵の派閥の家だ。  母子家庭で貧しいため結婚は無理だと諦めていたが、あの事件の後に母親が持参金を用意したらしい。侍女は娘の結婚後まもなくして、川に落ちて亡くなっている。川に落ちたところを目撃した者はいないため、誤って転落したのか、殺されたのかは明らかになっていない。  事件の黒幕がヴィオラの父であるクラウス伯爵だとして、その指示を受けて動いた者達は既に生きてはいないだろうと予想していた。  この分だと、ノヴァリオ侯爵のポーチに毒瓶を忍ばせたと思われる衛兵も、既に亡くなっている可能性は高い。  予想の範囲内であったため、さほどガッカリはしなかった。重要なのは、あの事件に関わった者が、その直後に金を手に入れていた事実だ。  帰る道すがら、カインを見て驚いていた女を尾行していた『影』の兵も合流した。  彼が告げた話のほうが、教会で聞いた話よりも遥かに衝撃的だった。 「ローゼンタール家の使用人だったのか?」  貴族の使用人らしき女が入って行った屋敷は、今は既に病死している、第一王子の母のオフィーリア王妃の実家だったのである。

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