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藪をつついて蛇を出す

 初夏の陽光が琥珀色のお茶に反射し、白磁の器の中で揺らめいている。 「エドワード様は剣術だけでなく、最近では乗馬の稽古もなさっているそうですね。ほんの数回の練習でもう馬を走らせておられるとか。飲み込みが早く、王子にしておくには勿体ないお方だと、父も申しておりましたわ」  令嬢の賛辞を聞き流しながら、冷えた茶を口に含む。ローズヒップティーの甘酸っぱい香りが口内に広がり、乾いた喉を爽やかに潤していく。  庭園には色とりどりの花々が咲き、風が新緑の香りを運んでくる。  できることなら、風景に目を癒され、鳥のさえずりに耳を傾けていたいところだが、そうもいかない。 「クラウス伯爵のような、武勇の誉れ高い方にそう仰って頂けるとは、光栄です」  カップをテーブルに置くと、極上の微笑みを浮かべて見せた。  カインが見たら胡乱な顔をされそうな作り笑いも、目の前の令嬢――ヴィオラには効果的だった。俺を見つめていたうっとりとした目が、満足げに細まる。    ここで彼女と会うのは初めてではない。  柱と屋根のみでできた簡素な建物であるガゼポは、屋外の解放感もありながら、周りを植え込みに囲まれていて、人目につきにくい。侍女たちを離れたところに控えさせれば、話し声も聞かれないため、ヴィオラが来たときには、いつも花を愛でることを口実に、庭園に連れ出していた。  王太子の成人祝賀の舞踏会の後、俺はラブレターとも言えるようなご機嫌伺いの手紙をヴィオラに送り、そして、それを字面通りに受け取ったらしい彼女は、たびたび王宮に足を運び、俺への謁見を希望するようになった。  最初のうちは気圧されていた、炎を巻き上げるかのように高く結い上げられた赤毛と派手なドレスも、今ではすっかり見慣れた。    彼女の気を引く目的は二つ。  一つは、クラウス伯爵に関する情報を引き出すため。もう一つは、彼女がセレナに危害を加えることを阻止するためだった。  ヴィオラは王太子妃の座を狙っているが、俺に関心が向けば、セレナに危害を加えてまでその地位に取って代わろうとする野望はひとまず薄れるのではないかと思ったのだ。  はたして狙い通りにはなったが、それはそれで、別の問題も浮上していた。 「王太子様は剣術にも乗馬にも興味を示されないのでしょう? 公務以外は、セレナ様とただお茶を飲んだり、王宮内をお散歩されているだけだとお聞きしますわ。最近では、(まつりごと)に関する事まで、セレナ様に相談されて、ご意見をおうかがいになられているとか。いずれ王になる方がそれでよいのかと、貴族の間でも心配する声が上がっているようですわ」  ヴィオラは俺の寵を得ていると思い込んでいるのか、露骨に兄上やセレナの悪口を言うようになった。それに、事あるごとに、兄上よりも俺の方が王太子の器だと、言外に仄めかす。  これには、正直、辟易していた。 「王に必要なのは剣の腕でも乗馬の才でもない。私は王にはなれないから、剣や乗馬を鍛錬しているのだよ。いずれ、どこかの辺境伯になって、国境の防衛を任されるかもしれないからね」  心にもないことを口にし、当たり障りのない返事を返した。  剣も乗馬も、カインが無理やりやらせるから、仕方なくやっているだけだ。どこかの辺境伯になって国境を守れと言われたら、王子の位を返上して、平民として王宮の使用人になったほうがマシだと思う。  笑みを消し、わずかに眉をひそめたヴィオラは、もし実際にそうなったときは、辺境伯夫人としてついていくかどうかを真剣に考えているのかもしれない。そもそも辺境伯夫人で満足するような女なら、他人を陥れてまで王太子妃の座に固執したりしないだろう。  最近のヴィオラの発言には、兄上を差し置いてでも俺に王太子になってほしい、という願望が透けて見える。そして、その場合に王太子妃となるのは、当然自分だと思っているに違いない。  いずれその野心を利用しなければならないときが来るのかもしれないが、今はまだ付け入る隙を与えないようにしたかった。 「それより、御父君はお変わりないか? 私に関して、何か言ってなかったか?」  話題を変え、ヴィオラをお茶に誘った目的である本題を、自信なさげに切り出す。  ヴィオラは何かを思い出すように宙に視線をさ迷わせ、遠慮がちに口を開いた。 「殿下のことというか……、最近、父が気にかけているのは、カイン様のことですわ。殿下がカイン様から何か聞いていないかとか、殿下は彼のことをどう思っておられるかとか、私に訊ねてきますの」 「伯爵が、カインのことを?」 「ええ。カイン様はまだお若いですから。こう言ってはなんですが、殿下の指南役としては頼りないと思っているようですわ。できれば、もっと実戦経験のある優秀な指南役をご紹介したいと申しておりました」  クラウス伯爵がカインのことを気にしていたとは。  お忍びで外出した後、あまり表立って動きすぎただろうか……。  嫌な予感が胸をざわつかせる。 「あ、えっと……、カインはあの通り寡黙な男だ。剣術の指導以外の無駄口は叩かないから、それ以外で特に言われたことはないかな。カインはセレナ様の兄君のため、解任すればセレナ様の顔に泥を塗ることになる。お気持ちはありがたいが、わざわざ波風を立てる必要はなかろう。君から伯爵にそう伝えてくれ」 「承知いたしました」  にっこりと微笑んだヴィオラが、上目遣いで、媚びるような眼差しを向けてくる。 「殿下。父は私たちのことも、心配しておりますの」  先ほどのざわつきとは別の種類の嫌な予感が胸をよぎり、心の内で「来た!」と身構える。 「私のような者に、殿下が本当に目をかけてくださっているのかと。だって、殿下……、二人きりになっても、口付けどころか手も握ってくださらないのですもの」  いいかげん、手くらいは繋いでやってもよいか……。  などと、前世の自分が聞けば、「その上から目線なんなの」とツッコんだであろう台詞を胸の内で呟いたとき。離れたところから、「殿下」と呼びかける侍女の控えめな声がした。 「どうした?」 「アルベール公がお見えになりました」 「あぁ、もうそんな時間か」  わざとらしく独り言ち、柳眉を寄せて口惜しそうな顔を作る。 「もちろん、私も君に触れたい気持ちはやまやまだが、触れれば止まらなくなりそうで、今は我慢しているのだよ」  席を立ち、彼女の傍に行くと、その前に片膝をついた。 「お父上が心配することは何もない。私の心は、出会ったときから君のものなのだから」  歯の浮くような台詞を口にし、ヴィオラの手を取ってその甲に口付けする。  腰を上げると、見上げてくる女の瞳に熱がこもり、誘うように唇が微かに開く。  その蠱惑的な表情に微塵も心を動かされない自分は、もしかしたらヴィオラだけでなく、女性そのものにそういう欲が湧かないのかもしれない。しかし、まぁ、それを自覚したところで、大して困らないくらいには、今世でも絶賛草食系だ。   「剣術の稽古があるから、残念だがこれで失礼するよ」  苦笑して肩をすくめて見せ、その場を後にした。 「悪い。助かった」  ガゼポを離れ、人気(ひとけ)がなくなったところで小声で囁いた。  カインがわざわざ庭園まで迎えに来てくれたのは、ヴィオラとのお茶会を終わらせるためだ。頃合いを見て顔を出してくれるよう、事前に頼んでいた。そうでもしないと、彼女のお喋りに延々と付き合わされることになる。 「カイン。最近、身の回りで何かおかしなことはなかったか?」 「おかしなことと言うと?」 「誰かに見張られていたりとか」  カインは少し考え、首を横に振る。 「いや。特には。伯爵令嬢に何か言われたのか?」 「伯爵が、君のことを気にしていたらしい。俺の剣術の指南役として、もっと実戦経験のある者を紹介したいと言っていたとか」  一応、「優秀な」という一言は省いたのだが、それでもカインは気を悪くしたようだ。  不本意そうに眉根を寄せる。 「お前の剣の腕が上がらないのは、指南役の経験の問題ではないと思うんだが」 「わかってるよ。だから俺も、俺クラスなら、経験の浅い新米騎士で十分だと言っておいた」  上達の遅さを槍玉に上げられ、つい事実とは異なる皮肉を口にしてしまう。  ジロリと睥睨されたが、カインがそれについて言い返してくることはなかった。 「最近、騎士団内で情報を集めていたからな。息のかかった者がいるのだろう」 「すまない」 「なぜ、お前が謝る?」 「俺に腹心の部下がいたらいいのだが。他に頼る者がいないせいで、君たちが動かなければならない」 「謝るべきは俺のほうだ。セレナと俺の実家の事情のために、手を貸してもらっているのだからな」  実際にはそれだけでなく、俺のほうにも、俺が王太子になる正規ルートを回避するという目的があるのだが。それを話せば、俺がセレナと結ばれる未来まで説明しなければならなくなる。  子供の頃は、俺にも近習と呼ばれる、身の回りの世話をしてくれたり、勉強を見てくれる貴族の子弟がいた。人に構われるよりも一人で本を読んでいるほうが好きなせいで、いつからか近習がいなくなり、世話をするのは「使用人」と呼ばれる身分の者だけになっていた。  仮に今も側近がいたとしても、クラウス伯爵の息がかかっている可能性を考えれば、協力を得ることはできなかっただろうけど。  12年前の第一王子の殺害について、カインの幼馴染であるコンラートには、その動機とされている王家の財産の横領について調べてもらっていた。小説では、「王太子の名を騙って王家の財産を横領していた」と端的に書かれていたが、彼の調べによると、実際のところは、王太子宮の警備費を水増しして申請していたようだ。  当時の王太子宮の帳簿を見直してもらったところ、歴代と比べて警備費の割合が高かった。そのほとんどを人件費と武具代が占めている。何故かその時期だけ護衛の兵が多く、武具も頻繁に買い替えられていた。  だが、王室記録を見返しても、王子が毒殺される以前に命を狙われたり、王太子宮に不審な者が忍び込んだという記録はなかった。警備を厚くする理由がない。  カインが当時王太子宮にいた騎士に聞きこんだ結果、計上されている人件費に対し、実際の護衛兵の数が少なかったことが明らかになった。特に武具が新しくなったという記憶もないらしい。となると、もしかすると武器商人も一枚噛んでいるのかもしれない。  警備費の横領があったことは事実のように思える。しかし、不可解なのは、横領に関して言えば、最も疑わしいのは王太子付きの近衛隊長であったクラウス伯爵なのに、教育係のノヴァリオ侯爵の犯行とされていることだった。  侯爵は第一王子が10才の頃から仕えており、一番の側近とも言える立場であったため、横領が可能であったと考えられたのかもしれないが。 「とにかく、しばらくは、伯爵に目をつけられないように、表立って動かないほうがいい。次の手を考えるまではおとなしくしてくれ」 「そう言っても、また、セレナの食事に毒が入れられていたのだろう? これまで集めた証拠だけでも、伯爵に疑いの目を向けられるのではないか?」 「駄目だ。何の防御もなしに藪をつつけば、誰かが蛇に噛まれることになる」  そんな会話をしながらいつもの稽古場である中庭に向かっていると、前方に人の姿が見えた。  こちらに歩いて来るのは、兄上とセレナ。それにもう一人、背の高い男が後ろに付き従っていた。 「あ……、えっと、そうだ。今日は剣術よりも乗馬の気分なんだ。牧場に行こう」  兄上とセレナが一緒にいるところを、カインは見たくないのではないか。回れ右をして引き返そうとしたのは、そんな憶測が働いたからだった。  けれどすぐに、背後から鈴が鳴るような声に呼び止められた。 「あら。お兄様とエドワード様」  仕方なしに振り返り、表情をやわらげた。 「兄上、セレナ様。ご機嫌麗しゅうございます」  右手を胸にあて、軽く一礼する。 「お前たちも散歩か?」 「いえ。クラウス伯爵令嬢と庭園でお茶を飲んでおりました。そろそろ剣術の稽古の時間のため、カインが迎えに来てくれたのです」 「最近、ヴィオラ様はよく、エドワード様のところにお越しになりますわね」  屈託なく笑うセレナは、友人と信じて疑わないヴィオラが、義弟となる王子と懇意にしていることを、手離しで喜んでいるようだった。  同じように穏やかに微笑む兄のリチャードは、セレナとよく散歩をするようになったせいか、ふくよかだった頬が以前より少し引き締まっている。 「お前たちにも紹介したいと思っていたから、ちょうどよかった」  兄が背後を振り返り、控えていた人物に隣に来るよう促した。 「(せん)だって、王太子付きの近衛隊長が代わってな。彼が新たに隊長に任命された」  兄の隣に立った偉丈夫を、まじまじと見上げる。  カインと同じ紺色の騎士服を着ていたため、騎士であることは遠目にもわかった。胸元に輝く十字模様の金色のバッジは、各騎士団の団長クラスだけが付けることを許されている。  カインと同じくらいに背が高く、そして堂々たる体躯は、カインより一回り厚みがあった。顔の骨格もしっかりしており、後ろで束ねられた金色の巻き毛をほどけば、まるでライオンのように見えるのではないかと思える。  鼻が高く精悍な顔立ちは成熟した男性の魅力を漂わせていて、王宮内ではあまり目にすることのないタイプの人種だった。  近衛隊長は俺の前に片膝をつき、右手を胸にあてて恭しく一礼した。 「ニコラス・アウフ・ヤーゲルです。エドワード殿下。お目にかかれて光栄に存じます」 (ニコラス・アウフ・ヤーゲル……)  その名前を聞いた瞬間、ざわりと胸が騒ぐ感覚がした。  どこかで聞いたことがあるような、引っかかりを覚える。  記憶を辿りぼんやりしていたら、カインに肘で小突かれた。 「あ……、あぁ。第三王子のエドワードだ。兄上とセレナ様のことをよろしく頼む。……ですが、何故このような時期に急に近衛隊長が代わったのですか?」  ニコラスに形ばかりの挨拶をし、兄上に水を向ける。 「前の隊長が急に体調を崩してな。心の臓が弱り、目も患っているようだ。それで、急遽交代になった」  前の隊長もまだ30代で、急に心臓が弱るような年ではなかった。  胸騒ぎが膨れ上がり、動悸を自覚し始める。  気取られないよう、無理に笑みを浮かべて見せた。 「ヤーゲル公のような屈強な方が近衛隊長なら、兄上も安心できますね」 「いえいえ。私ももういい年ですから。今年のトーナメントでは、そろそろ優勝旗を返上することになるでしょう」  立ち上がったニコラスは、俺ではなく、カインに笑みを向けていた。  興味がなかったため、これまで騎士のトーナメントを観覧したことはなかったが、勝ち残りの立ち合い戦などもあることは知っている。自身が前回の優勝者であることをさらりと誇示したのは、カインへの挑発であろう。 「お兄様も今年こそはトーナメントにお出になってはどうですか?」 「ニコラスとアルベール公の立ち合いとなると、見物だろうなぁ」  盛り上がる兄上とセレナは、ニコラスの挑発には気づいていないようだ。  カインがこれまでトーナメントに出てこなかった理由は、なんとなくわかる気がする。貴族の庶子がよい成績を収めたところで、もらうのは称賛よりもやっかみのほうが多いだろう。それに、カインの生い立ちを考えれば、注目を集めることがよいこととは思えない。 「カインは私の剣術指南ですから。彼の剣の腕がトーナメントに出場するにふさわしいと認めたら、出場を許可しましょう」  わざと偉そうに、ふんぞり返って言うと、兄上とセレナは冗談と取ったのか、くすくすと笑い合った。 「兄上たちはこれから庭園を散歩されるのですか?」 「ええ。今は薔薇が見頃ですから」 「散歩だけでなく、たまにはガゼポでお茶を飲むのもよいですよ」 「確かにそうだな。セレナに付き合っていたら、歩きすぎて毎日足がパンパンになってしまう。今日はもう散歩はやめて、お茶とお菓子を楽しむことにしよう」  兄上の言葉に、離れたところに控えていた侍女たちが慌ただしく動き始めた。  カインと揃って一礼し、庭園へ向かう一行を見送る。  頭を上げたあとも、しばらくその後ろ姿を見送っていた。 「どう思う?」  それだけで、カインは俺の言わんとしていることを察したようだ。 「不自然だな」 「やはりそう思うか」  前任の王太子付き近衛隊長の件だ。30やそこらの屈強な男が急に心臓や目を患うなんて、どう考えても不審すぎる。セレナの食事に毒を盛っても毒見によって阻止されるため、外堀を埋めてきているとしか思えなかった。新たな近衛隊長はクラウス伯爵の息がかかっていると見て、ほぼ間違いない。 「君は彼とは初対面か?」 「王宮の騎士団では見かけたことがない。前任はどこか地方の騎士団にいたのだろう。トーナメントでは何度も見たことがあるがな。エドは? やけにあの男を見ていたが、あの男も、前世とやらの『推し』というやつなのか?」 「え? い、いや、ちがうよ」  予想外の切り返しが来て、慌てて、ぶんぶんと顔の前で手を振った。 「前世でも、彼を見た記憶はない」  挿絵に描かれるようなメインキャラではなかったことは確かだ。 「ただ……、名前は、どっかで聞いたことがある気がするんだよね」 「無敵の王者だぞ。名前くらい聞いたことがあるだろ」 「そうかもしれないけど……」  いくらトーナメントに興味が無くても、そんな有名な騎士なら、城の者たちが噂しているのを小耳に挟んでいてもおかしくない。でも、だとしたら何故、彼の名前を思い出すだけで、胸騒ぎのような嫌な感覚がするのだろう。  お忍びで街に出たときの、カインを驚いた顔で見ていた婦人のこともそうだ。喉に刺さった小骨のように、ずっと引っかかっている。 「ヤーゲル家というのはあまり聞いたことがないが、どういう家柄なんだ? 騎士になったということは、次男以下か庶子か?」  カインは首を横に振った。 「いや。噂によると、平民上がりのようだ」 「平民上がりで近衛隊長なのか?」  思わず声を上ずらせた。  平民が騎士になるだけでも、かなり困難な道のりだと聞いたことがある。  貴族の侍従をしていて、武術の才を見出されたのだろうか。だが、いくらトーナメントで連勝するほどの剣の腕があったとしても、今の地位に昇り詰めるには、力のある貴族の庇護が不可欠だろう。 「平民出身だが、地方の男爵家の養子になったらしい。俺が騎士団に入ったときには既に男爵だった。爵位があるからこそ、近衛隊長にも抜擢されたのだろう」 「しかし……、トーナメントの褒美だけでは、爵位は買えぬだろう?」  爵位の売買は法で禁じられている。  しかし、それはあってないようなもので、困窮した下級貴族が養子や縁談を通じて、爵位を引き換えに金銭的援助を得ることはよくある話だ。むしろ、何の見返りもなしに平民を養子に迎えることのほうが、普通はありえない。  平民でも商売に成功し、爵位を手に入れる者もいるが、爵位を買えるほど金に余裕があるのなら、わざわざ騎士になろうとはしないだろう。  おそらくニコラスの背後には、クラウス伯爵がいる。しかし、たとえそうだとしても、何かもっともな理由がなければ解任することはできない。  カインは、セレナたちが植え込みの向こうに消えた後も、庭園を見つめたまま動こうとはしなかった。  セレナのことが余程心配なのだろうとそっと盗み見た横顔は、不安げというより何かを考え込んでいるように見えた。 「さっき言ってたことは、本当か?」  庭園に視線を向けたまま、ふいに訊ねられる。  さっきとはいつのことだろう。 「前世でニコラスを見たことがないという話か?」 「いや。トーナメントに出るのに、お前の許可がいるってやつ」 「あ、あれは別に……、君がトーナメントに出たくないのかなと思って適当に言っただけで……。もしかして、出たいの?」  出会った頃、爵位に興味がないし特に望みもないと言っていたから、てっきりトーナメントにも興味がないと思っていた。トーナメントで勝って得られるものと言えば、地位と名誉と褒美、それに、良縁だろうから。 「興味がない。なかった……。去年までは」  カインが独り言ちるように、静かに言葉を続ける。 「でも、今はちょっと、出てみたい気もするかな」  笑みを孕んだような遠い目は、先程のニコラスの挑戦的な眼差しとは異なる。  地位も名誉も褒美にも、興味がなさそうな男が求めるものは……。  それはもしかして、セレナのことを諦めるためだろうか。  導き出した答えに胸の辺りがモヤモヤと苦しくなって、俺は彼の横顔からそっと視線を逸らせた。  カインが突然、ひと月ほど剣術の稽古を休みたいと言い出したのは、庭園で兄たちの一行とすれ違ってから数日後のことであった。  カインは王宮内外の警備を担う第一騎士団――通称、宮廷騎士団に所属しているが、どうやら上官である騎士団長から特殊任務を命じられたらしい。任務の内容は秘匿されているらしく、教えてもらえなかった。  嫌な予感を拭えない俺は、翌日、学院から帰るとすぐにセレナの部屋を訪ねた。兄上もちょうど公務を終えたところで、二人でお茶を飲んでいた。 「まぁ。エドワード様になら任務の内容をお教えしてもよろしいでしょうに。そういうところ、お兄様は本当に融通がききませんのね」  椅子に腰を下ろす間もなく、カインから任務について何か知らないか訊ねたところ、セレナはそう言って目を丸くした。 「騎士団の中では緘口令が敷かれているだろうからね。仕方ないよ」  兄上がいつものおっとりとした口調で言葉を添える。 「ということは、兄上とセレナ様は、カインの任務について何かご存知なのですか?」  二人は一度顔を見合わせ、兄のほうが口を開いた。 「カインはヴァルトシュタイン辺境伯領に視察に出かけたよ」 「ヴァルトシュタイン辺境伯領に視察ですか? また何で……」  ニコラスの名前を聞いたときと同じ感覚だった。  ヴァルトシュタイン辺境伯領――。その言葉が、記憶の深淵でさざ波を立て、不安を膨れ上がらせる。  南北に細長く、国の大部分を海に囲まれているここフィアリス王国は、前世で言うところのイタリア半島に地形が似ている。北方の小国、カスパラーダを挟み、その北側には、アルプス山脈に似た急峻な山脈が連なっており、ここが本当に小説として描かれた世界なら、実際にイタリア半島をモデルにしたのではないかと思われる。  その北方の山岳地帯が途切れる西側には、広大な森林地帯が広がり、強国ルヴァール帝国と接していた。前世の地図で言えば、フランスにあたる地域だ。北の国境の三分の二をカスパラーダ、残りの三分の一をルヴァール帝国と接している。  そのルヴァール帝国との国境を成しているのが、ヴァルトシュタイン辺境伯領だ。都から往復二十日かかると言われるその辺境の地に、カインは視察に出かけたという。  学院では国の地理や歴史も学んでいるため、ヴァルトシュタイン辺境伯領という地名を耳にするのも初めてではない。  ただ、今初めて、それが単なる地名ではなく、記憶にないほど昔から、自分の深いところに刻みこまれていたような感覚を覚えた。その言葉を、生まれる前から知っているような。  急に顔色を失った俺を見て、目の前の二人がそろって心配そうな表情を浮かべる。 「今度、私がヴァルトシュタイン辺境伯領に慰問に行くことが決まってな。カインはその道中の警備計画を練るために、視察団の団長として派遣されたんだ」 「兄上が慰問ですか? 何故、急にそのような話になるのです?」 「急ではない。前々から宮廷でも、それを要望する声は上がっていた。最近、ルヴァール帝国が軍備を拡張し、国境の小競り合いが増えていることを知っているか?」  初めて聞く話で、俺は首を横に振った。  我が国は小国のカスパラーダとは同盟関係にあるが、ルヴァール帝国とは国交がない。ルヴァール帝国は大陸の中心を成す巨大帝国だが、四方を多数の国々に囲まれ、常にどこかと戦をしている。それによる均衡が保たれていて、建国以来、我が国とは小競り合い程度の争いに留まっていると、授業では習っていた。 「私も、ニコラスから聞いて初めて知った。今の宮廷は穏健派が力を持っているからな。こういうきな臭い話題を意図的に王族の耳に入れないようにしていたのかもしれない」  不安が大きくなりすぎて、不快だった。  胸の奥を素手で掻きまわされるような気持ち悪さがあり、加速する鼓動に恐怖を覚える。  兄上から与えられる情報を必死に処理しながら、意志の及ばぬところで、二つの言葉だけが頭の中でぐるぐると回っていた。  ヴァルトシュタイン辺境伯領……。  ニコラス……。  ヴァルトシュタイン辺境伯領……。  ニコラス……。 「建国以来、北方の国境警備はほとんどヴァルトシュタイン辺境伯に任せきりだった。クラウス伯爵を中心に、その体制を見直すべきだという意見が上がっていてね。第七騎士団の慰問を名目に、私がヴァルトシュタイン辺境伯領へ出向き、国境の防衛体制について協議することになったんだ」 「……第七騎士団?」  絞り出した声は掠れていた。  その言葉にも、何故か嫌な響きを覚えた。 「あぁ。ヴァルトシュタイン辺境伯領に駐屯しているのは第七騎士団だろう? ニコラスはここに来る前は第七騎士団の団長だったんだ。おかげで国境の情報を色々教えてもらえたよ。カインを視察団の団長に推薦したのも、ニコラスだ」  その瞬間――。  ここ数日ずっとモヤモヤしていたことの一部が、あるべき場所に収まった。  ヴァルトシュタイン辺境伯領。  ニコラス・アウフ・ヤーゲル。  第七騎士団。  ――ヴァルトシュタイン辺境伯領で秘かにセレナたち一行を襲い、カインの命を奪った第七騎士団団長のニコラス・アウフ・ヤーゲルも、クラウス伯爵と共に処刑された――。  前世で読んだ小説の一文を、ようやく思い出した。   ドン、と音がするほど勢いよくテーブルに両手を置き、椅子から腰を浮かせた。テーブルが揺れ、まだ口をつけていなかった茶器の中身が溢れ出て、「キャッ」とセレナが小さく悲鳴を上げる。 「あ……、す、すみません」  ヤバい。マズい。どうしよう。  焦りと不安が膨れ上がるばかりで、まともに思考が働かない。 「エドワード。急にどうしたんだ? 顔が真っ青だぞ」 「カインが……」  ――危ない。  そう言おうとして、心配そうなセレナと目が合った。  何の根拠もないのに、彼女を不安にさせたくはない。  兄上と二人で話すべきか一瞬迷ったが、彼女の食事に毒が混入していたことを告げたときの、彼女の毅然とした態度を思い出し、自分よりもよほど気丈だろうと思い至った。 「兄上」  俺はテーブルを回り込み、兄のもとへ歩み寄ると、床に両膝をついた。 「エ、エド……、何をしている?」  驚いた兄は、久しく聞かなくなった愛称を口にした。 「お願いします。私をカインの視察に同行させてください」 「それは……、出発前ならなんとかなっただろうが、視察団は既に昨日発った」 「そうなのですか?」  朝一番に謁見を申請され、しばらく稽古を休むことを告げられたのは昨日のことだ。  だとすれば、カインは、おそらくその足で王宮を出立したのだろう。ぎりぎりまで伏せられていたのは、俺に任務の詳細を問い詰める時間を与えないために違いない。  そう考えたら、あんにゃろう、と腹立たしくもあったが、怒りはひとまず飲み込むことにした。 「ならば、今から出立し、急ぎカインを追いかけます。馬を走らせれば、明日か明後日には追いつけるでしょう。 「な、何を言っている! 正気か? 馬を走らせるなどと、お前にできるわけないだろう?」  何事にも動じない兄が、珍しく狼狽していた。 「カインから乗馬を習い、今は早駆けもできます」  とは言え、走らせたのは牧場内で、長時間馬に乗ることには正直自信がなかったが、自信のなさを気取られぬよう胸を張った。 「何故そこまでして行きたいのだ? お前が行ったところで足手まといになるだけだ」 「そうかもしれませんが……、」  視線を泳がせ、言い訳を探す。 「私がいることが重要なのです。もし、今回の視察が、セレナ様を兄上の婚約者の立場から引きずり降ろそうとする者の謀略なら、兄上の慰問の際に何か不測の事態が起こり、カインが責を問われるようなことがあるかもしれません。視察に私も同行していれば、追及の手も緩むでしょう」  実際には、カインを追いかけたい理由は別にあった。  カインを視察に出したのがクラウス伯爵の差し金なら、小説でエドワードとセレナが襲われたように、追いはぎを装いカインが襲われることもありえる。俺がカインと共にいれば、伯爵もカインを襲うことを諦めるかもしれない。  今の俺はヴィオラと懇意にある。俺に王太子になってほしいと仄めかすヴィオラの発言が伯爵の意を受けてのものなら、巻き込まれて俺が命を落とすことは、伯爵も望まないはずだ。 「まぁ、確かにそれも一理あるが……、私の一存では決められぬ。今から父上のところに行き、お伺いをたてよう」 「時間がありません。私は今から出立しますので、父上には兄上からよろしくお伝えください」  断固たる口調で言い放ち、勢いよく立ち上がった。  旅に出たことなど一度もないというのに。危険な旅への不安を凌駕し、どうしてこうも気持ちが急かされるのか、自分でも不思議だった。 「ま、待て! エドワード!」 「止めても無駄です。俺は今すぐ城を出ます」 「わ、わかった。……わかったから。お前も支度は必要だろう? その間に『影』の者の中から北方出身の者を選んでおく。必ずその者たちを連れて行きなさい」  セレナは、俺がカインを追いかけるのが、自分のせいだと思っているのだろう。泣きそうな顔をしていた。 「ありがとうございます。必ず、カインと共に無事に戻ってまいります」  最後はそう言って二人に笑顔を向けると、一礼してセレナの居室を後にした。

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