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王者の最後

 すり鉢状の円形闘技場は、風で巻き上げられた砂塵が陽光を反射し、白く霞んで見えた。  場内の視線を一身に集め、その白砂の中央で、二人の騎士が向かい合い、一礼を交わす。  黒銀の鎧に身を包むのは、騎士団最強と言われる王太子付きの近衛隊長、ニコラス・アウフ・ヤーゲル。一方、白銀の鎧に身を包むのは、トーナメントを勝ち残り、王者に挑む権利を得た若手の筆頭株、カイン・ド・アルベール。  カインも十分に長身だが、こうして並ぶと、ニコラスのほうが一回り体格がいい。  王族席ではなく、それよりも闘技場に近い貴族用の観覧席に陣取った俺は、口から心臓が飛び出しそうなほどの緊張に耐えながら、瞬きもせずに二人の騎士の一挙手一投足を見守っていた。  今回のトーナメントを最後に騎士団を去ることが決まっているニコラスは、トーナメントに参加するのもこれが最後になる。前評判通りにニコラスが有終の美を飾るのか。それとも、カインがそれを阻み、名実ともに新たな王者の称号を得るのか。平民出身で庶民にも人気のあるニコラスなだけに、貴族だけでなく国中の人々が勝負の行方を気にかけていた。 「カインに勝ってほしいけど~。でも、勝ったら人のものになるかと思うと、どっちを応援するか迷う~」  隣の席で両手の指を組み、祈るような姿勢で独り言ちているのは、アルベール家の隣に住むヴァルモント兄妹の妹、リリアだ。 「お前、まだそんなことを言っているのか? カインを応援すると決めてきたんじゃなかったのか?」  その奥に座っている兄のコンラートが、呆れたような声をかけた。 「『勝ったら人のものになる』とは、どういう意味だ? ……ですか?」  間のリリアの頭越しに、コンラートに訊ねる。  父から謹慎を言い渡されている俺は、本来なら自室を出ることを許されていない。今日はコンラートに頼み込んで、頭からフードをかぶり、カインの従者・エドとして秘かに貴族席に紛れ込ませてもらっていた。 「こいつ、トーナメントの前に、カインに告白したんです。……したんだ。トーナメントで優勝したら、自分に求婚してほしいって。でも、『我が身を捧げる相手は既に決めている』と断られたみたいだ」 「そうか……ですか…………」  リリアは俺が第三王子だと知らないため、リリアの前では普段と逆で、俺がコンラートに敬語を使い、コンラートは無理にタメ口を使おうとするから、二人とも喋り方がぎこちない。 「いったい誰なのよ! カインの心を射止めたのは! 子供の頃からずっと、彼に近づく女はことごとく追い払ってきたというのに!」  リリアは俺たちのことは眼中にないようで、熱い視線を闘技場に注ぎ、歯ぎしりしている。  いくら隣家の幼馴染でも、彼が秘かに思いを寄せ続けてきたのが、血の繋がらない妹だったとは夢にも思うまい。  トーナメントの王者には名誉が与えられる。身分を越えて意中の令嬢に求婚することもその名誉の一つだと言われている。  俺は王族席で兄である王太子の隣に座っている婚約者――セレナをチラリと振り返った。彼女もリリアと同じように、両手の指を組み、一心にカインの勝利を祈っている。  この戦いに勝利したとして、カインは本当に、セレナとの結婚を望むだろうか。  俺はどっちだろう。カインに勝ってほしいのか、あるいは――。  ふと脳裏をよぎった考えを振り払い、再び闘技場へと視線を戻した。  カインと共に、クラウス伯爵が第一王子を弑逆した証拠を探し出せれば、その功績を認められ、カインは実父の侯爵家を再興できるに違いない。兄もカインのセレナへの長年の思いを知れば、婚約を破棄して、彼らの結婚を許してくれるのではないかと目論んでいた。  けれどその目論見は、あっけなく潰えた。  クラウス伯爵が、第一王子を弑逆した首謀者ではなかったからである。  伯爵から涙ながらに第一王子の殺害に関しては無実であることを訴えられたときは、命惜しさの虚言を疑っていた。  けれど、殺害に関わったとされるメイドに金を渡していた理由を聞き、まだ何か、俺たちの知らない真相が隠されていることを知った。  伯爵が言うには、メイドに金を渡していたのは、第一王子に毒を盛るためではなかった。薬屋から購入した毒を、第一王子の母君――当時の王妃に届けさせるためだったという。  王妃から頼まれてのことらしい。毒の種類は兄上が飲んだとされる毒と一致する。  その話を聞き、カインと俺は言葉を失った。  それが本当なら、予想だにしなかった可能性が浮上する。  王妃が、自身の息子である第一王子を殺害した可能性だ。  まさか、という思いであったが、王妃付きの侍女らしき女と街で偶然出会ったとき、彼女がカインの顔を見てひどく驚いていたことも、ずっと気にかかっていた。ニコラスも、事件に関わったとされるメイドが、当時の王妃付きの侍女と人目を避けて話しているのを見かけたことがあると言っていた。  元侍女が何か事情を知っているに違いないと考え、俺たちは前王妃の実家に足を運んだ。  第一王子が亡くなってからそれほど時を置かずして王妃も病死し、その後、側妃だった俺の母が王妃になった。俺は当時8歳であったため、前の王妃のことも長兄のこともほとんど記憶にない。  ただ、長兄の髪がダークブラウンに近い濃い色だったことはなんとなく覚えている。王である父も、前の王妃も、明るい髪色だったから、兄の髪色が両親のどちらにも似ていないことを、子供ながらに不思議に思っていた。  カインと共に訪ねると、侍女だった女はかなり狼狽したが、クラウス伯爵やメイドの名前を出したところ、やがて観念したように、一枚の肖像画を見せてくれた。王妃が絵師に描かせたというその肖像画は息子である第一王子のもので、そしてその顔は、カインによく似ていた。    出方をうかがうように微動だにしなかった二人がふいに動き出し、会場にどよめきが起こる。先に動いたのはカインだった。  両手で柄を握り、剣先を低く構えて走り出す。跳ね上がる砂塵で、一瞬、剣の動きがわからなくなる。「キン」という高い金属音で、カインが剣を突き出し、ニコラスがそれを払ったことを知った。カインは動きを止めず、立て続けに斬撃を繰り出し、ニコラスもまた、正確にそれを捌く。  息をすることも憚られるような激しい応酬だった。  カインが一瞬、宙を舞った。よくもまぁ、甲冑をつけてあんなに飛べるもんだと思う高さから体を捻りながら剣を振り下ろす。上段で構え、防御しようとしたニコラスの剣を、重さを感じさせない身のこなしでひらりと交わし、胸に向かって鋭い突きを繰り出した。鎧に弾き返されたが、突かれた勢いでニコラスは後ろに二、三歩よろめいた。  しかし次の瞬間、ニコラスが重心を戻し、強烈な斬撃を叩き込む。カインの剣が軋む音を立て、数歩後退させられる。 「お、おい……。大丈夫だよな?」  従者である設定を忘れ、ついいつもの口調で隣の兄妹に声をかける。  ヴィオラを騙し、クラウス伯爵を窮地に追い込んだ俺たちに、ニコラスは恨みを抱いているはずだ。トーナメントでの殺傷は禁じられているが、勢い余って剣が生身の肉体を傷つけ、深手を負ったり命を落とすことも珍しいことではない。  今年はトーナメントを辞退したほうがよいのではないかと勧めたが、「騎士がそのようなことできるか」とカインは鼻で嗤っていた。必ずニコラスを倒して優勝を勝ち取ると、約束もしてくれた。  彼を信じよう。  最後に会ったとき、突き合わせた右手の拳を、心の臓が荒れ狂う胸元へとあてる。  遠目にも、二人の肩が荒く上下しているのが見て取れた。  年齢の差か体格の差か。どちらかというと疲労の色はニコラスのほうに濃く見える。  ニコラスが剣を振り上げ、踏み込む。重心が前に流れたその瞬間、カインの足が砂を蹴った。振り下ろされた剣を寸でのところで身を翻してかわし、軸足を払う。こちらも硬い鎧に弾き返されたが、体勢を崩し、よろめいたニコラスの隙を突いて、カインはすかさず剣を真横に払った。咄嗟に受けたニコラスの剣が弾かれて宙を舞う。その首元――鎧と兜の隙間に、カインがひたりと剣を当てた。 「そこまで!」  立会人の声が響く。  数秒遅れて、地鳴りのような歓声が闘技場を包み、両者の体が砂塵の中に崩れ落ちた。  騎士仲間や貴族の令嬢たちに取り囲まれ、祝福の言葉を浴びるカインには近づけず、俺はヴァルモント兄妹と別れて自室へと引き上げた。  夜は晩餐会が行われる予定だが、謹慎中の俺は参加しなくてよい。夕食が運ばれてくるまで特にすることもなく、ベッドに寝転がって本を読んでいた。  とはいえ、内容はまったく頭に入ってこなかった。トーナメントの立ち合いを見ていたときの、緊張と高揚が体から引いていかない。それでいて、胸の辺りにざわざわと不安めいたものが渦巻くのも自覚していた。  それが何なのか薄々気づいていて、気づかないふりをし、ただひたすらに字面を目で追っていた。  オトマーに声をかけられ紙面から顔を上げると、カーテンの開かれた窓から射し込む陽は、やわらかな橙色を帯び始めていた。  オトマーの用件は、カインの面会希望を伝えるものだった。謹慎中ではあるが、カインは王太子の婚約者の兄ということで、特別に面会が許可されている。  トーナメントが終わった瞬間は、一刻も早く祝福の言葉を伝えたいと思っていた。けれど、いざ彼と面と向かうとなると、ほんの一瞬、ためらいが胸をかすめた。それを振り払い、「諾」と返事をした。  主役を晩餐会に遅らせるわけにいかないし、時間がないほうが話を手短に切り上げられる、という打算もあった。  カインは家に帰り湯浴みをしてきたようで、髪も顔も砂埃を落としてさっぱりし、清潔な儀礼用の騎士服に着替えていた。  オトマーが部屋の燭台に明かりを灯してくれて、テーブル席にカインと向かい合い、腰を落ち着かせた。オトマーが退出し、部屋に二人きりになる。  カインと二人きりで話すことなど、これまで数えきれないほどあったのに、彼の美丈夫ぶりを一層際立たせる華やかな装いのせいか、いつもと違って気分が落ち着かない。  テーブルの下で両手の拳をぎゅっと握りしめ、平静を装って笑みを浮かべた。  トーナメントの優勝を寿ぐと、カインが照れたように謝意を述べた。それに続き、改まった口調で切り出されたのは、予想外の話だった。 「晩餐会の前に、陛下に謁見するお許しをいただいている。その際にお前も同席してくれないか?」 「謁見に、俺が……?」  通例なら、謁見では、カインへの褒賞が下賜される。  トーナメントで優勝した騎士には、身分差を越えて求婚できる特権のほか、国王から褒賞も与えられる。爵位が授けられるのは稀だが、カインの場合は、ニコラスの連勝を止めたことに加え、先の遠征で賊の襲撃を受けながらも北方の辺境を視察し、防衛に関する意見書の作成に貢献したという功績もある。  そのため、男爵、あるいはそれより上の子爵の爵位が与えられる可能性も十分に考えられた。  実父の汚名をそそぎ、侯爵家であるノヴァリオ家を再興することは叶わなかったが、今回の褒賞で爵位を賜れば、今後の功績次第で、そのうち実父と同じ地位まで登りつめることも可能と思われる。  しかし、爵位を賜るだけなら俺が同席する必要はない。彼が同席を望む理由は、おそらく……。  即答できなかったことで俺の逡巡を見抜いたのか、カインの眼差しが真剣さを増す。 「陛下から褒賞を賜る栄誉をいただけたとしても、俺はそれを辞退しようと思っている。代わりに別の望みを願い出るつもりだ。もし、陛下が難色を示されるようなら、お前に口添えを頼みたいのだ」  やはり――。  腑に落ちると同時に、裏切られたような落胆が、じわじわと胸に重く広がっていく。  カインが褒賞を辞退してでも望むものと聞いて思いつくのは、セレナのことしかない。謁見の場でセレナへの求婚の意志を示すつもりで、俺にも同席し口添えをしてほしいということだろう。  勝手に裏切られた気分になってしまうのは、カインの思いを知っていて、それでもなお、カインがその思いを口に出すことはないだろうと思い込んでいたからだった。  リリアに話したという『我が身を捧げる相手は既に決めている』という言葉も、一生、セレナのことを陰で見守るという意味で、彼女に対して求婚するほどの強い欲望は持ち得ていないと思っていた。――いや、単に、そう思いたかっただけなのだろう。カインなら、そういう控えめで献身的な愛し方をするだろうと、思いたかっただけだ。  父上は既に、カインがノヴァリオ侯爵の息子であることも、カインとセレナが血の繋がった兄妹ではないことも知っている。  褒賞を返上するほどの覚悟を見せれば、王も心を動かされないはずがない。彼の熱い気持ちに免じて、王太子とセレナの婚約解消を許すのではないだろうか。  王の許しがあれば、セレナと血の繋がりがないことを明らかにし、彼女を妻にすることもできない話ではない。  頭の片隅で冷静にそんな算段を立てる一方で、靄がかかったように思考がままならず、自分の言うべき言葉が何も見つからなかった。 「あ……、兄上やセレナ様には、気持ちを伝えたのか?」  縋るような思いでそう絞り出す。けれど、返されたはにかむような笑みで、答えを聞かずとも、それが期待とは異なるものであることを察した。 「あぁ。セレナも、前々からそれを望んでくれていたらしい。話したら、すごく喜んでくれた。王太子殿下にはセレナから伝えてもらい、殿下も、異存はないそうだ」 「そう……なの、か…………」  声が上擦る。  喜べないのが俺だけだったことに、更に気分が重く、苦しくなった。  兄上とセレナは本当の夫婦のように仲睦まじい雰囲気だったから、二人とも、それなりに気持ちを寄せ合っていると思っていた。けれど、もしかしたら、セレナもずっと、カインに対して口には出せない思いを抱えていたのかもしれない。  カインがアルベール家に引き取られたとき、彼女は5歳だった。ぎりぎり当時のことを覚えていてもおかしくはない年齢だ。わざわざ耳に入れる使用人や親戚がいたかもしれない。  血が繋がらないことを知っていれば、カインのような男がずっと傍にいて、心惹かれていくのは自然の成り行きに思える。  セレナの幸せのために、彼女の気持ちを優先しようとする兄上も、その懐の深さがさすが王太子だ。  俺だけだ。  俺だけが、カインに結婚してほしくないと思っている。  「推しの幸せが俺の幸せ」と口では言いながら、心の奥底では、彼には報われない思いを抱えたまま、一生、誰のものにもならないでほしいという身勝手な願望を抱いていた。  彼に対するその邪な感情は友情と呼べるものではないことを、今はっきりと自覚した。  そうだ。俺は、カインのことを――。 「エド、俺は陛下に……」 「少し、時間をくれないか?」  それ以上聞きたくないという気持ちで、彼の言葉を遮った。 「時間?」 「今はまだ……うまく口添えできる自信がない。でも、絶対に、いつか必ず、君たちのことを心から応援できるようになると約束する」  カインの目を見られずに徐々に項垂れていくのは、カインがようやく幸せになる覚悟を決めたというのに、それを応援できない自分への嫌悪からだった。  嫉妬に歪んでいるであろう顔を、彼に見られたくなかった。 「そもそも剣術の指南役に君を指名したのは、クラウス伯爵を断罪するためだった。それが終わったのだから、明日にでも指南役の任を解いてもらうことにする。会わずにいたら、いつかは元に戻るはずだから、少しだけ待ってほしい。父上には俺から、褒賞の授与を延期してもらえるよう申し上げるから……」  その瞬間、ガタッと椅子を引く音がした。 「おい、ちょっと待て。『君たち』とは、誰と誰のことだ? 『応援』とは、いったい何の話をしているのだ?」  深々と下げた頭に、混乱した声がかかる。  俺はそろそろと顔を上げた。  腰を浮かせて前のめりになったカインは、随分と焦っているように見えた。  会話が噛み合っていない感覚がある。でも、具体的に何が噛み合っていないのかがわからない。 「『君たち』というのは、君とセレナのことに決まっているだろう? セレナとの結婚を父上に許してもらうために、俺に口添えしてほしいのだろう?」 「はあ? なぜそうなるのだ」  カインは顔を顰め、声を荒げた。 「血は繋がっていなくても兄妹として育ったんだぞ。結婚なんか考えるはずもないだろう? 向こうも、俺のことは兄としか思っていない。気持ち悪いことを言うな!」  照れ隠しではなく、鼻に皺を寄せたその表情は、心底嫌がっているように見える。 「えっと……、では、求婚の相手は、セレナではないのか?」 「求婚? なぜ、いきなり結婚の話になる?」 「リリアが、お前には、『我が身を捧げる相手』が既にいると言っていた。褒賞を辞退してまで望むことと言えば、身分差のある令嬢との婚姻くらいしかないだろう?」  カインは切れ長の目を軽く見開き、直後、何かを探るように、すっとその目を眇めた。 「お前は、俺の望みが身分差のある令嬢との婚姻だと思って、『うまく口添えできる自信がない』と言ったのか? それはなぜだ?」 「あ……いや……」    口ごもり、目を泳がせる。  早く話を切り上げたい一心で正直な気持ちを口走ったが、理由を訊かれることまで想定していなかった。これまで散々、「推しの幸せが俺の幸せ」と言い続けていたのに、カインの結婚に水を差すようなことを言ったのだから、不審に思われても当然だった。 「そ、それは……、単に、君に結婚を越されるのが、悔しかったからだ」  苦し紛れに思いついた言い訳を口にする。  カインの目を見て話すことはできなかった。 「俺のほうが四つ年上だ。先に結婚しても、おかしくはないだろう?」 「それでも、お父君のことが解決したばかりなのに……。そもそも、君にそんな相手がいたなんて……」  不意討ちだったから、戸惑っているだけだ。  ようやく逃げ道を見つけられたかと思ったのに、視線を戻した瞬間、言葉に詰まった。    真っすぐに向けられた眼差しには、真剣さの中に焦燥が混じる。今まで彼が見せたことのない熱を孕んでいるようで、その目に釘付けになった。 「エド……。俺は、生涯、誰とも結婚するつもりはない」  一語一句を噛みしめるように、ゆっくりと、カインが言葉を紡ぐ。  ――生涯、誰とも結婚するつもりはない。  彼の言葉を反芻し、急に頭が真っ白になったような感覚に陥った。  先ほど、カインに結婚してほしくないという本心を自覚したばかりだ。  でも、期待していたはずの言葉を告げられても、喜んでいいのかわからなかった。  カインがふいに立ち上がり、テーブルを回り込んでくる。ただならぬ雰囲気を感じ取り、俺も思わず椅子から腰を浮かせた。その足元に、彼が片膝をつく。  カインは右手を胸に当て、左手を背の後ろに添えて頭を深く垂れ、忠誠のポーズを取った。 「エドワード・リーヴェンス・グランディエール殿下」  フルネームで呼ばれるのは、初対面の日以来ではないだろうか。 「私が、『我が身を捧げる相手』と心に決めているのは、エドワード殿下に他なりません。どうか我が生涯をかけて、殿下にお仕えし、お守りする許しをお与えくださいませ」  さらに混乱が増した。 「えっと……、急に何?」  戸惑いながらも、『我が身を捧げる相手』が身分差のある令嬢だと疑っていたことから、カインがこのような行動に出たことは、遅れて理解した。それでも、やはりわからない。 「俺の側近になりたいってことだよね? それはもちろん、嬉しいけど……、何で今、そんな話の流れになるの?」  確か俺たちは、結婚の話をしていたはずだ。  彼が、「俺は、生涯、誰とも結婚するつもりはない」と言って、いきなり忠誠を誓いはじめた。 「俺の側近になったからって、生涯、独身を貫く必要はないだろう?」 「それは、私がそうしたいだけです。常に殿下の傍に仕え、殿下のことを第一に考える男に、夫や父親が務まるとは思いません」 「カイン……、急にどうしたんだよ。何でさっきから敬語なんだ? もしかして、立ち合いで頭を打ったんじゃないか? ひとまずベッドに横になれ」  カインの言動があまりに唐突で、理解が追いつかない。  おろおろする俺に、カインは静かに首を横に振った。 「側近としてお仕えする以上、これからは臣下の分をわきまえます」 「何だよ、それ!」  俺は思わず声を荒げ、カインの前に膝を折った。 「側近になるなら、友ではなくなるということか? だったら、側近なんていらない!」  カインの真摯な眼差しに、困惑の色が滲む。 「これまで通り、友でいてくれたら、それでいい。君の人生を俺に捧げる必要はないし、結婚だって……今すぐはちょっとアレだけど、本気で好きな相手ができたら、その人と結婚したらいい。口添えが必要なら、俺も協力する」  自分の気持ちが振り子のように揺れている自覚がある。  彼に『我が身を捧げる相手』と言われる人を、羨ましいと思っていた。でも、いざそれが自分に向けられたら、嬉しいとは思えなかった。  カインを縛りたかったわけではない。  彼に小言を言われたり、笑い合ったり、ときに頭を撫でられたり。そんな日常を手離すくらいなら、彼に妻や子ができるほうが余程マシだ。  マシだけど……、そんな未来を想像したら、胸の辺りがぎゅっと絞られたように苦しくなる。 「エド……、俺はもう、『友』でもいられない……」  吐き出す声は苦しげで、思い詰めた顔をしていた。  どういうこと? と視線で問う。 「分をわきまえなければ、これ以上、自分を抑えられそうにない。そのうち、とりかえしのつかないことを、お前にしてしまうだろう」  ――――え?  ドキンと心臓が跳ねた理由は、驚きだけではなかったように思える。  カインは俺のことを『我が身を捧げる相手』と決めていて、生涯結婚する気もないという。友でいることもできず、分をわきまえなければ、自分を抑えられそうにない。それって――。  ここに至るまでの情報が頭の中でぐるぐると渦を巻く。  カインの熱っぽい眼差しに、勝手に期待が膨らんでいく。 「い……いいんだよ。カインは、俺に何をしてもいい」  声が掠れ、震える。  期待している自分が猛烈に恥ずかしい。  もし、思っていたのと違ったら、山に籠って出家しようと本気で思った。 「気軽にそういうことを言うな」  カインは表情を険しくしたが、その声は、どこか探るようでもあった。 「気軽になんて言ってない! カインだからだ。俺がそんなふうに思うのは、君だけだ。……俺にとっても、『我が身を捧げる相手』は君しかいない」  口に出してみれば、思いの大きさに胸がいっぱいになった。目頭が熱くなり、視界がじわりと滲む。  カインが目を見開く。  信じられないという顔をしたのは一瞬で、両腕が伸びてきて、倒れ込むように抱きしめられる。ぎゅうぎゅうに締め付けられて、痛いくらいの抱擁だった。 「俺もだ。俺も、お前だけだ。エド……、お前を、愛している」  情感のこもった声で、耳元に囁かれる。  「何故?」「いつから?」という戸惑いのほうが強く、言葉通りに受け止められなかった。「愛している」という言葉に俺の知らない意味があるような気がしてならない。  それでも、カインの匂いとぬくもりに包まれて、「好き」という気持ちがどうしようもなく溢れてくる。  涙が止まらなかった。

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