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第8話 純潔の誓い

 一大事だ。  なにせいま令雅(れいが)が口にしたのは、皇位の簒奪(さんだつ)といった(たぐい)の話ではないのだろうか。  詩鸞(しらん)が言葉を失い、紫黒の目を(またた)いたら、ふん、と、佑祥(ゆうしょう)が鼻を鳴らした。 「まさに一大事なんだよ! 最初からそう言ってんだろうが! そういうわけで、将軍だって仕方なしに、お前に頭を下げてるんだ。わかったらとっとと協力しろ!」 「っ、だからわたしだって無理だって最初から言ってるでしょ!」  反射的にそう応じてしまってから、詩鸞ははっとした。  とにかく、令雅の言うまぐわう云々(うんぬん)が冗談ではないこと、相手がかなりのっぴきならぬ状況で、詩鸞に本気で助けを求めていることは、わかった。  詩鸞は、こほん、と、(せき)(ばら)いをする。 「ご事情はわかりました。京城を守護する結界が弱まっているうえに、京城衛の将軍が戦闘不能の状態では、さぞ、お困りのことでしょう。国の大事といわれれば、(とう)国の民であるわたしにとっても、まったくの無関係とはいえないのかもしれません。――とはいえ、ですね……解決のために、わたしが将軍と、その、ま、ま、まぐわうというのは、やはり、むり、です」 「尊厳にもかかわることだ。協力してもらったとしても、必ず秘密は守ろう。保証も、出来る限りはするつもりだ」  令雅の声も(まな)()しも真摯(しんし)なそれだった。  実際、相手は将軍職の人間で、かつ、皇帝陛下の甥でさえある。保証という意味では、こちらが想像する以上のことをしてくれそうではあった。  だが――……。 「そういう問題では、なくてですね……」  詩鸞は困ったように眉尻を下げた。 「その……わたしは、監察(かんさつ)使()を目指していて。それで、純潔の誓いを、しているのです。それを破るわけには、いかないというか……」  こほん、と、咳払いをしつつ詩鸞が言うと、令雅は怪訝(けげん)そうに金茶の目を瞬いた。 「祭祀(さいし)(かん)だというならともかく、監察使には、その身を清らかに保たねばならないという規則などはなかったと思うが? 実際、俺の父母はかつて監察使だったが、婚姻を結んだのは、まだその職掌(しょくしょう)にあった頃のはずだ」 「それは、そうなんですが……わたしはもともと、神気(じんき)を練るのが下手で……それで、鳳凰神像の前で、身を清らかに保つという誓いを」 「ああ、なるほど……()邪淫(じゃいん)(いまし)めを己に課すことで、あんたは、神気を高めているというわけだな」 「そう、です」  詩鸞が目指す監察使は鳥行(ちょうこう)()、すなわち、霊鳥に騎乗して空を駆けられなければならなかった。  そして、霊鳥を操るためには、体内で練った神気が必要なのだ。神気をうまく練り上げられないと、その職を務めることができない。  神気というのは、多かれ少なかれ、ほとんど誰もが有してはいる。だが、その過多は、生まれもった才に大きく左右された。  神気の量が多く、練り上げるのが巧みであればあるほど、兵卒なら、強い攻撃が可能になる。鳥を操ることにおいても、より高位の霊鳥を、思うがままに駆けさせることができるのだ。  神気は、訓練によって、多少なら高めることが出来るとされている。が、それにも限度はあった。  そこで、神像の前で祈り、誓約をなすことで、力を強めるという方法が取られるのだ。  詩鸞は鳳凰神の前で身の純潔を誓って、それで本来よりも強い神気を練ることが出来るようになっていた。  だが、これにはもちろん、不利な点もある。 「誓約を破れば、その反動で、わたしは神気を失ってしまいます。それは、困る」  そう告げると、令雅は一瞬視線を落として、何か思案するふうを見せた。ややあって顔を上げると、金茶の眸で詩藍を見据える。 「あんたが一生、暮らしに困らないだけの(もの)を用意するといってもか」 「生活の問題では、ありませんから。そうではなくて……わたしはどうしても、監察使にならねばならぬのです」  そう、詩鸞はなにも、暮らしの糧のために監察使になりたいわけではないのだ。どうしてもならなければならない、と、強く思うだけの大きな理由があった。  変わり果てた故郷の姿が脳裏にちらつく。  詩鸞は、きゅ、と、くちびるを引き結んだ。 「やはり……協力は、できかねます」  紫黒の眸で真っ直ぐに令雅を見返して、言った。 「お前な! 国の大事より、自分の個人的な事情を優先するのか!」  再び(わめ)くように言ったのは佑祥である。詩鸞は、き、と、相手を睨んだ。 「あのね……っ」  わたしの事情を何も知らないくせに、と、反論しかけたところで、令雅がさっと手を挙げて副官を制した。 「佑祥。個よりも国を優先すべきだというのは、俺たちが京城衛だからこその考え方だ。民の血税を(かて)にしている俺たちなら、その理屈も、通る。が、彼は、そうじゃない」 「ですが、将軍……っ」  まだ承服しかねるというふうに反論を続けかけた相手に、令雅は静かに(かぶり)を振ってみせた。 「国は民のためにいくらでも犠牲になるべきだが、その逆は本末顛倒だ。国のために民に犠牲を強いてはいけない、と……すくなくとも、それを当然のことだとしてはならないのだと、俺は公主である母に、そうきつく言い聞かされて育った。――国の中央に近い者であればあるほど、自らが進んで犠牲になることはあっても、民を捨て駒にすることは、あってはならない」  静かに(さと)されて、佑祥はぐっとくちびるを噛む。  詩鸞は詩鸞で、令雅の言葉に息を呑んでいた。  かつて、燃え盛る(ほのお)に消えた故郷を思う。あのとき詩鸞の(むら)に火をつけた将軍は、いくらやめてと叫んでも、聞き入れてはくれなかった。こうするより仕方がない、と、頭ごなしにそう言った。  あのとき、先陣に立っていたのがもし、いま目の前にいるこの将軍だったならば、詩鸞の故郷の廬が辿(たど)った運命は、変わっていただろうか――……一瞬、詩鸞はそんな(らち)もないことを考えてしまっていた。 「佑祥」  令雅が副官を呼ぶ声で、はっと現実に返る。 「おまえが国を心底憂えているのはわかっている。俺の身を案じてくれていることも、な」  眉を顰めて黙りこくった副官の肩を、令雅は目を細め、口許に笑みを()きつつ、軽く叩いた。  それから詩鸞のほうへ顔を向けると、こちらに対しては、ゆっくりと頭を下げる。 「改めて、詩鸞どのには、昨日の我が無体、非礼のことを、詫びさせてもらう。此度(こたび)は、こちらの身勝手な事情に付き合わせて、すまなかった。――たしか監察使の登用試験は、一次の学課が、五日後だったか。よければ試験が済むまでの間、この屋敷に逗留(とうりゅう)してくれ。蓉香に世話もさせる。俺からの、せめてもの罪滅ぼしだ」  令雅の申し出は、地方の出身で、京城にこれといった伝手(つて)などもない詩鸞にとっては、実にありがたいものだった。重ねての丁寧な詫びのこともあり、そうまでされてはむしろ、こちらのほうが申し訳なくなってくるような気の遣われ方である。  先方の頼みを断った立場の詩鸞としては、すこしばかり居た堪れないような気分にさえなった。 「えっと……まさか、逗留の対価として、後で身体を差し出せとか……言いませんよね?」  ついついそんなことを言ってしまったのは、令雅の言葉が、うまい話し過ぎて不安だったというわけでは、ない。多分に、己の中に生じた居心地の悪さを誤魔化すための軽口みたいなものだった。  ぼそりとこぼしたこちらのつぶやきを聞き(とが)めた令雅は、一瞬きょとんと目を(みは)り、それから、くく、と、喉を鳴らした。 「なるほど……その手があったか」  くつくつと笑う相手の言葉は、けれどもきっと、これも単なる冗談(かるくち)に過ぎないのだ。  そんな気などさらさらないのだろうな、と、初めて見せられた相手の嫌味のない微苦笑を前に、詩鸞はなぜか、そんな確信を抱いていた。 「――旦那さまっ!」  そのとき、扉の向こうから切迫した声が響いた。

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