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第9話 妖魔の襲来
「旦那さま!」
扉の向こうから聴こえてきたのは、令雅 を呼ぶ声だ。叫ぶような調子だった。
場の空気に緊張が奔 る。会談の場にわずかに生じていた奇妙ななごやかさは、刹那にして、凍りついた。
詩鸞 はただただ驚くばかりだったが、さすがに武人というべきか、令雅も佑祥 も、瞬時に表情を引き締めていた。
「どうした」
令雅はさっと立ち上がると、扉を開けて駆けてきた家人 に問う。
「京城 衛 の屯所 より、急報にございます。郭壁 の南の森にて、監察 使 が蜚牛 の群れを確認したとのこと。進行方向に瑛洛 が位置していると」
「蜚牛……っ?!」
詩鸞は思わず声を上げてしまっていた。
蜚牛というのは、ひとつ目の牛形で、蛇の尾を持つとされる妖魔である。その行く所、土中の水は涸 れ、草木もまたたちまち萎 れてしまうという。城 や廬 に這入 り込めば、疫病をもたらすのだともされていた。
「佑祥、出るぞ」
報告を受けた令雅は、副官を振り返ると、短く言った。
「蜚牛なら俺ひとりでも片付けられる。おまえは一隊を率いて援護にまわれ」
「お、お待ちください、将軍! それではお身体が……」
「大丈夫だ。さいわい……詩鸞どののおかげで、呪詛 は弱まっているしな」
ちら、と、令雅が詩藍を見たので、詩鸞は紫黒色の目をぱちぱちと瞬 いた。
一瞬、なんのことだ、と、思う。
が、どうやら口づけの後に、令雅の身体に這いまわる呪詛の痣 が薄くなっていることを言っているらしい。そのことに思い至って、詩鸞は思わず赤面しつつ、反射的に、己の口許をがばりと手で覆っていた。
そんな詩鸞の様子など気にするふうもなく、令雅は憂わしげにする副官を説き伏せていた。
「心配するな、佑祥。保 つ……いや、保 たせるさ」
「そんな……っ!」
「ぐだぐだ言っている間に京城が危なくなるんだ。とっとと行くぞ。――出来れば、灌木 地帯に入る前に止めたい」
まだ心配げな声を上げる副官を置いて、最後、令雅はさっさと部屋を出て行ってしまった。
そのときだった。不意に、佑祥がなぜか憎々しげに、き、と、詩鸞のほうを見た。
なんだ、と、思ううちに、彼はつかつかとこちらへ近づいてくる。
「な、なんですか……?」
詩鸞が警戒を滲 ませすると、伸びてきた手がこちらの腕を取った。
「お前も来い!」
「えっ!?」
「お前の事情など知るか。将軍に万一のことがあったときには、即座に身を捧げてもらう」
「はぁっ?! っていうか、森で?」
余計なひと言を付け足してしまってから、いやそういう問題じゃないだろう、と、詩鸞は頭 を振った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。離して」
抵抗を試みたが、武人の力に適うはずもない。ぐい、と、手を引かれた詩鸞は、無理やり部屋の外へと連れ出された。
そのとき、ふわり、と、風が発 る。
ばさり、と、逞 しい羽打ち音が響いた。
はっとそちらを見ると、遙かな青空へ向けて、巨 きな隼 が飛び立ったところだった。
霊鳥を駆 っているのはもちろん令雅だ。大きく翼を広げた影が虚空 を切り裂いて舞い上がる。
詩鸞は一瞬、状況を忘れて、その優美な姿に見入っていた。
空の上には、おそらくは京城衛の部隊なのだろう、同じように様々な種類の巨鳥に乗った兵卒たちの姿があった。令雅は彼らを追い越して先頭に立つと、そのまま南を指して飛んでいく。
その影はぐんぐん小さくなる。
物凄い速度だ。まさに、天翔けるという言葉がふさわしいのではないか。
「何をぼんやりしているんだ。行くぞ」
佑祥がまた詩鸞の手を、ぐ、と、引いた。詩鸞ははっと我に返った。
屋敷の中庭では、下男らしき男が一頭の鳥を引いて待ち構えている。巨大な鷲 である。おそらくはそれが佑祥の霊鳥 なのだ。
令雅の副官は詩鸞を引き摺るようにして巨鳥に近付き、下男から手綱を受け取って騎乗すると、こちらの身体をも大鷲の背に引き上げた。
「落ちるなよ」
そう一言素っ気なく告げると、詩鸞を抱えた体勢で飛び上がる。
「将軍を追うぞ!」
空中で待ち構える部隊に向かって、佑祥は声を張り上げた。おう、と、それぞれに応じる声がある。
令雅の姿はもうかなり遠くなっていた。それを追うように、佑祥は鳥を駆った。後には兵卒たちが続く。
「どうして……あの人は、ひとりで飛んでいくんです……?」
佑祥たちは上官の後を追ってはいるが、その距離はまるで縮まるふうがない。それだけ令雅が速いということだろうか。
だが、これでは部隊の態 をなしていない。単騎行の令雅の姿を視界の遥か遠くにとらえつつ、詩鸞は無意識につぶやいた。
それは単なる独り言だったが、聞き咎 めたらしい佑祥が、ち、と、不快そうに舌打ちをした。
「鳥を駆るには神気を使う。だからだ」
「どういうことですか?」
「さっき将軍が言ってたろう? 神気を練れば、呪詛が発動する。反動みたいに、将軍の身体は瘴気 を発してしまうんだ。――霊鳥は大丈夫みたいだが、おれたち人間は、それに中 てられる。一定の距離以上、将軍には近づけないんだよ」
傍で上官の補佐が出来ないのが口惜しいのだろう、歯噛みするように佑祥は言った。
令雅が佑祥に対して部隊ともども援護にまわれと言ったのには、どうやらそういうわけがあったらしい。では令雅は、本気で、蜚牛 の群れにたったひとりで対処するつもりでいるということなのだ。
「だいじょうぶ、なのですか……?」
「なにがだ」
「相手は蜚牛なのでしょう? ……決して、小物ではないのではありませんか」
「よく知っているな」
「これでも監察使の資格を目指している身ですからね。そりゃあ、妖魔の知識なら、ある程度はありますよ」
詩鸞は小馬鹿にするような佑祥の言に、むっとしてそう返した。
佑祥が、ふ、と、息をつく。
「たしかに小物じゃないな。おれたちだって腐っても京城衛、妖魔討伐の精鋭部隊ではある。だが、それでも、ひとりで一頭を相手にするのが手一杯だろうな」
「それなら……あの人、危ないじゃないですか」
「お前、将軍を甘く見るなよ。汪 将軍なら……」
佑祥が言いかけた頃、彼の駆る大鷲は京城を囲む郭壁を越え、さらに南の森の上空へと向かいかけていた。
詩鸞は前を見る。令雅はさらに前を翔けている。
そのとき、彼の操る隼が、大きく翼を広げてぐるりと空を旋回した。かと思うと、そのまま、暗緑色の葉を繁らせた木々が疎 らに並ぶ森の中へと一気に急降下した。
それに合わせるように、佑祥は手綱を強く引いて鳥を止めた。後ろを振り返って、続く部隊に向かって声を張り上げる。
「展開! 弓、用意!」
佑祥の指示に従い、兵卒たちが散る。佑祥は令雅が先程高度を下げたあたりまで飛んで、先程令雅がしたのと同じように、その上空を旋回し出した。
そっと見下ろすと、令雅が隼を操り、疎林 の間を縫 うようにして低い位置を飛んでいる。右手に剣を提 げ、そのまま、蜚牛の群れの先頭へと突っ込んだ。
令雅と妖魔の群れとが交錯する。ひと太刀、ふた太刀、すれ違いざまに令雅は剣をふるい、蜚牛を斬った。
そのまま急角度で上昇する。繁る木の葉を抜けて、令雅が上空まで飛び上がってきたところで、佑祥が右手をさっと振った。
「射 て!」
合図で、いっせいに箭 が放たれる。蜚牛の群れの上から、雨のように降りそそぐ。
ぐるりと上空をひとめぐりした令雅の隼は、再び斜めに高度を下げた。
「討ちもらしがあれば片付けろ! 灌木地帯を越えさせるな!」
張りのある声でそう命じ、彼は隼の上で器用に身体をひねって、霊鳥の蹴爪 にぶら下がった。ある程度の高さまで下りたところで、身軽に地面に降り立った。
令雅の前には十数等の蜚牛の群れが見えている。鳥から降りた令雅は剣を提げて地を駆けていった。
剣先が閃 く。
それが白銀に輝くたび、昏い色の血飛沫 が飛び、蜚牛の巨体が、どう、と、地面に倒れ込む。
それに躓 いた蜚牛が体の均衡を崩すと、令雅はその体に跳び乗って、角のある頭をひと息に刺し貫いていた。
「す、ごい……」
討ち漏らしなど出ないのではないだろうか。蜚牛が次々と倒されていく様子に、詩鸞は思わず感嘆の声をあげていた。
「百年、いや、千年にひとりの逸材だとまで言われてるんだ」
佑祥がぽつりと言った。
「濃密に練り上げた神気を武器に込めて、的確に急所に叩き込む。あんな芸当、誰にでも出来るもんじゃない。しかも、何頭とやりあっても枯渇 知らずの神気が、あの方の体内には満ちてるらしい。――おれたちがやっと一頭倒せるかどうかって相手を、あの方はひとりで群れごと壊滅させちまうんだから……強さの桁 が、ちがう」
そんな独白じみた言葉の間にも、地上には妖魔の骸 の山が築かれていた。
「陛下の甥が最年少で京城衛の将軍だなんて、ふつうなら、身内贔屓 だと文句も出るところだ。だが、汪将軍に文句をいうやつなんて、いない。あの方は、本物だから。――だからこそいま、国がもし、汪将軍を失うようなことがあったら……」
佑祥はきつく眉を顰めた。くちびるを噛み、うつむく彼は、たしかに、上官の身を、そして国の大事を、心の底から思い遣っているようだった。
だからこそ詩鸞にも、あんなふうに、礼を失した咬みつき方をしたのかもしれない。そう思って、詩鸞は、きゅ、と、てのひらを握り込んだ。
「っ、将軍!」
そのとき、ふと佑祥が悲鳴じみた声をあげた。
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