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第10話 瘴気

「将軍っ!」  佑祥(ゆうしょう)のあげた声にはっとして、詩鸞(しらん)は下を見る。  すでに令雅(れいが)の手によって、すべての蜚牛(ひぎゅう)は倒されたようだ。妖魔の(むくろ)の傍らに、令雅は凛として立っている。  ということは、いまの佑祥の緊迫した声は、どうやら令雅が妖魔にやられたからというのではないらしい。  詩鸞は、ほう、と、吐息した。  その刹那だった。  令雅の身体が、ふら、と、(かし)いだ。  そのまま彼は地面へと倒れ込む。 「将軍!」  再び叫んだ佑祥が手綱を引いた。巨鳥は翼をはためかせると、ゆっくりと降下した。  令雅がいる場所からやや離れたところに降り立った佑祥は、反射的に、令雅のほうへ駆け寄ろうとした。 「来るな!」  けれども、地面に座り込んだ令雅が、低い声でそれを制した。 「まだだ。まだ、瘴気(しょうき)が収まりきっていない」  佑祥が足を止める。 「……くそっ」  毒づきつつ、口惜しそうにその場で地団太を踏む。  肩で息をする令雅の身から、(すみ)色の(もや)のようなものが、くゆるように立ちのぼっていた。  あれが瘴気だろうか。  周囲の草木が枯れているのは、果たして、蜚牛の行進のためなのか、それとも令雅の身を侵す呪詛から発せられる強い邪気のせいなのだろうか。 「く、ぅ……っ」  苦しげな声が聴こえ、詩鸞ははっと顔をあげた。  令雅が我が身を抱え込むようにして(うめ)いている。(あご)のあたりから首、手や腕に、鎖の巻きつくような(あざ)が、色濃く浮かびあがっていた。  きっとあれは全身に()いまわっているのだ。そして、その痣の色は、先程よりも、否、はじめて令雅を見たときよりも、明らかに赤黒くなっていた。 「あ、れ……だいじょうぶ、なんですか……?」  詩鸞は令雅の様子に息を呑みながら、恐る恐る佑祥に訊ねた。  そういえば、瘴気はまわりのものだけでなく令雅自身の身体をも(むしば)むのだと言っていた。 「瘴気って……おさまるん、です、よね……?」  先程の令雅の口調からすれば、そうだろうと思われる。だが、放っておいて大丈夫なのか、と、詩鸞は不安にかられていた。  ちら、と、令雅の副官の表情を見上げる。彼はじっと令雅のほうへと眼差しを向けつつ、厳しい表情をして、くちびるを引き締めていた。 「わからん。これまでは……しばらくしたら、収まってた。だが、瘴気は間違いなく将軍自身の身体を(いた)めていってる。だから、いつかは……」  いつかは、なんだというのだろう。  令雅の副官が呑み込んだ言葉の続きを想像して、詩鸞は目を(みは)った。  伝説級の妖魔の呪詛。それに侵された身体。  神気を練るたびに呪詛はひどくなる。わかっていて、ひとり戦闘を切って妖魔の群れに突っ込んでいった姿――……なぜ、そんなことができるのだろう。  ――……自らが進んで犠牲になることはあっても、民を捨て駒にすることはあってはならない。  不意に、先程令雅が口にしていた言葉が、詩鸞の頭の中に甦って響いた。  その刹那、詩鸞は衝動的に駆け出していた。 「っ、くるな!」  令雅が切迫した声で叫ぶ。  だが、詩鸞は構わずに走った。  相手は必死で身を起こしてこちらから距離をとろうとするようだ。が、弱った身体ではままならないと見えて、身体ごと引き()るように歩きかけたところで、ふら、と、よろめいた。  その身を、詩鸞は受けとめる――……否、書生の身では(たくま)しい身体を受けとめ切ることはできずに、一緒に、地面へと倒れ込んだ。 「瘴気が、まだ……」  令雅が絞り出すような調子で言った。詩鸞は相手の重たい身体を支えるように、なんとか抱き起こした。 「大丈夫、みたいですよ……神託を下したとかいう、鳳凰の加護かもしれませんね」  詩鸞とて瘴気に()てられることも覚悟しないではなかったのだが、実際のところ、いま詩鸞の身体には目立った変調はなかった。  令雅がわずかに目を瞠る。しかし、それ以上なにか言う気力もないものと見えて、ぜい、ぜい、と、荒い息だけを繰り返した。  薄っすらと開かれたそのくちびるを、詩鸞は刹那、じっと見詰めた。  自分がいま何をしようとしているのか、もう一度、自問する。  なぜ、と、問われたら、答えられない。なんとなく放っておけなかったとしか言えない。  もしかしたら、馬鹿なことをしようとしているのかもしれない。  それでも――……。  ぎゅっと目を瞑る。  ええい、ままよ、と、ほとんど自棄(やけ)っぱちの(てい)で、令雅のくちびるに己のそれを押し当てた。 「なっ……」  令雅が驚いて、一瞬、息を呑んだ。  けれどもすぐに詩鸞の意図を察したのか、抵抗することはなく、口づけを受けている。  プゥルゥグィ、と、独特の啼き声が高く響いた。  (ほととぎす)だ。くちびるを離して目を開けると、詩鸞の身体からは、廟堂(びょうどう)で令雅に口づけられたときと同じように、()け出るように次々と小鳥が湧いていた。 「……な、ぜ?」  すこしは楽になったのか、やや落ち着いた呼吸で、令雅が改めて詩鸞にそう訊ねた。 「なぜ、ですかね」  詩鸞は言った。別に誤魔化(ごまか)したわけではなく、本当に、自分がどうしてこんな行動を取っているのか、自分でも理解できていなかった。 「ただ……わたしが断ったせいであなたが死んだりしたら、さすがに、寝覚が悪いからかも……」  詩鸞は自嘲のような苦笑のようなちいさな笑みを浮かべた。

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