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第12話 月下の語らい

 じじ、と、かすかな音を立て、一瞬ゆらりと揺らいだ燈明の明かりが、ふ、と、消えてしまう。部屋が真っ暗になって、書卓について熱心に書物に目を通していた詩鸞(しらん)ははっとした。  時刻はもう深更も近い。 「油切れ、か」  ずいぶんと長いこと書物に集中していたらしい。喉も渇いた。燈明(とうみょう)油をもらいに行くついでに、水でも一杯飲んでこよう、と、詩鸞は立ち上がった。 「んんーっ」  腕を上に持ち上げて伸びをする。ずっと同じ体勢でいたために固まってしまった肩やら腰やらを軽く叩いてほぐしてから、ゆっくりと扉を開けて部屋を出た。  屋敷は静まり返っている。  それもそのはずで、半月を越え、もう望月に近いほどにふくらんだ月は、すでに上天をすぎ、西へ傾きかけていた。みな寝静まっていて当然の時刻だ。 「水だけいただいたら、わたしもさすがに寝るとするか」  詩鸞は、そ、と、独り()ちた。  そのとき、ふと、目の端を何かの影が(かす)めた。詩鸞ははっとしてそちらに視線をやった。  紫黒の眸をじっと()らす。すると程なくして、月明かりの下でひとり剣を振るう姿が浮かび上がった。  令雅(れいが)である。  繰り出される、力強い剣。しなやかな身のこなし。先日目にした、蜚牛(ひぎゅう)を相手取って全身に返り血を浴びながら戦う彼の姿が、刹那、脳裏(のうり)によみがえった。  けれども、いま彼が浴びるのはさやかな月光だ。  冴え冴えと蒼い月影の下で剣をふるう相手はどこか幻想的で、まるで優雅な剣舞でも目にするかのようである。詩鸞はなぜかじっとその光景に見入ってしまっていた。  ほう、と、気づけば無意識に嘆息している。  すると、こちらの気配に気づいたのか、令雅がぴたりと動きを止めた。 「そこにいるのは……詩藍どのか?」  どうやら彼は夜目も相当に()くようだ。即座に言い当てられていた。 「はい。令雅どのは、こんな遅くに稽古ですか?」 「ちょっと寝付けなくてな」  令雅は詩藍のほうへと歩み寄ってきて、苦笑しつつ、ちら、と、肩を(すく)めてみせた。 「先程まで部屋に明かりがついていたようだが、あんたは勉学か?」 「ええ。よい書物をお貸しいただいたので、つい、読み(ふけ)ってしまって」 「そうか。詩鸞どのは熱心だな」  感心するように言われ、こんな夜更けに稽古に(はげ)む人だって熱心だろうに、と、詩鸞は心の中でだけ思った。  ついでに先程令雅の稽古姿に――一瞬だけとはいえ――ぼうっと見惚(みと)れてしまったことを思い出してしまって、ひとり、あたふたとした。 「どうかしたか?」 「い、いえ! その、あの、えっと……」  しどろもどろになってしまう。 「ああ、そうだ! その、わたしのことは……ただ、詩鸞で、かまいません。詩鸞どのなんて言われると、ちょっと、()わりが悪いというか……ええ、だって、年齢(とし)も、近いですし……お偉い立場の方にそんなふうに呼ばれると、かえって、気恥ずかしいというか……」  誤魔化(ごまか)すように、そんな思い付きを、もごもごと口にした。  詩鸞からのいきなりの申し出に令雅はわずかに金茶の目を(みは)ったようだが、すぐに、ふ、と、笑った。 「なるほど。じゃあ、これからは詩鸞と呼ぶ。――そのかわり、俺のことも令雅でいい」 「そんな! 京城衛将軍を呼び捨てだなんて……」  できない、と、言いかけた詩鸞に、令雅はちいさく笑んで首を振った。 「そんなものは気にしてくれるな。なにしろこちらは無理を押しつけている立場なんだ。――それに……年齢(とし)だって、近いんだろう? ちなみにあんた、何歳(いくつ)なんだ?」 「え? 二十三ですけど」 「なんだ、ふたつも歳上だったのか。ますます非礼を詫びるべきだな、俺は」  令雅は言って、軽く喉を鳴らすようにして笑った。 「どういう理屈なんですか、それ」  詩鸞は一瞬、む、と、くちびるを引き結ぶ。 「歳上は敬うべきだろう?」  令雅は肩を竦めて冗談(かるくち)の口調で答えた。なんだかこちらもおかしくなってきて、詩鸞は、くすくす、と、軽く笑い声を立てていた。  笑う詩鸞を見詰め、令雅が金茶の眸を細める。  穏やかな眼差しを向けられて、詩鸞ははっとした。  (ほだ)されかかってないか、だめだぞ、と、気つけのために、己の頬を、ぱん、と、軽く叩いて気を引き締め直した。 「百面相だな」  令雅がまた、くつくつ、と、笑った。  詩鸞は相手を、ちら、と、()めつけた。 「というか、あなた、稽古なんかして大丈夫なんですか? そんなのでまた(あざ)を濃くされでもしたら、治療するわたしが迷惑なんですけど」  ()まり悪さも手伝って、詩鸞は敢えて、つん、と、そっぽを向きながら令雅に言った。すると相手は、平気だ、と、あっさり答える。 「やってたのはただの剣の稽古だからな。神気(じんき)を練りさえしなければ、悪化することはない。あんたに迷惑はかからない」 「それならいいですけど……でも……痛みとかは? 普段は痛んだりはしないんですか、その痣」 「慣れた」  さらりと返された言葉に、詩鸞は刹那、息を呑んだ。それは、痛くないというのとは、根本的に違う答えだった。  令雅に口づけられると、詩鸞の身体の奥はほんの刹那だけ、燃え立つように熱くなる。それはじくじくと身を刺す痛みにもにた熱なのだが、詩鸞の場合、肌を染めた痣が(ほととぎす)の形に成ってしまえば、同時にその熱も消えうせるのが常だった。  でも、もしかすると令雅の身体は、詩鸞が一瞬だけ味わうああした()(うず)くような痛みに、ずっと(さいな)まれ続けているのだろうか。  寝付けないのはその痛みのせいなのでは、と、詩鸞は窺うように令雅を見た。  月明かりの下に立つ相手は、先程まで稽古に励んでいたためか、多少、肌が汗ばんではいるようだ。が、欠片(かけら)の不調もないとでもいうふうに、まるで平気そうな表情(かお)をしていた。  国を背負う武人というものは、皆、こうしたものなのだろうか。  令雅のように、自らの身を国や民のために(なげう)って悔いないと、誰もが、そんな気高い心の有り様をしているのだろうか。  否――……もしもそうなら、十五年前、詩鸞の故郷の辿(たど)った運命は、異なったものになっていたはずだ。  詩鸞は無意識にこぶしを握った。  燃え盛る焔。  あの日、無慈悲な焔に飲み込まれた廬。  知らず眉を寄せ、くちびるを引き結び、黙りこくってしまっていた。

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