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第17話 異変

「そこまで!」  緊張感のある声が試験終了を告げる。筆を置いた詩鸞(しらん)は、ふう、と、息をついた。  精魂(せいこん)込めて書き上げた答案を試験官に提出する。その後、詩鸞は筆記具の片付けに取り掛かった。  詩鸞がいまいるここは、貢院(こういん)と呼ばれる場所だ。典礼祭祀および学制などを(つかさど)る、(れい)()といわれる組織に属する建物だった。  およそ国が行う試験は、ここ貢院において、礼部の管轄のもと執り行われることになっている。  監察使の資格試験は四年に一度である。当日発表される三つの課題に論述で答える学課――筆記試験――がまずあり、その後、一次試験に及第(ごうかく)した者には、神気(じんき)の操作能力を測る実技試験が課されることと定められていた。  そもそも今回、詩鸞が京城(みやこ)たる瑛洛(えいらく)へやってきた目的は、監察使の資格を得るためである。  その資格を持たねば、国境より向こうへ立ち入ることが出来ないからだ。十五年前の妖魔討伐戦の際に滅びた我が故郷を訪ねるために、詩鸞は満を持して、今回の試験に挑んだのだった。 「はぁー、緊張した。どっと疲れたぁ」  片付けを終え、貢院を出た詩鸞は、うん、と、伸びをしつつ独り()ちた。  試験は朝いちばんからはじまり、日暮れまで、ほぼ丸一日を費やすものだった。  もちろん、途中、(おのおの)で休憩は取っても良いことになっていたし、飲み物や食べ物だって、礼部から各受験者に提供されはする。が、試験中は当然、すこしも気なんか休まらないし、食べたり飲んだりしたものだって、味などほとんど覚えているものではなかった。  頭を働かせるため、必要な水分、栄養などを、無理やり身体に取り込んだという感じでしかない。 「でも、それなりの解答は作れた気がするかな」  それもこれも昨日は何事もなく勉学に集中できたおかげかもしれない――……令雅(れいが)が妖魔討伐に出掛けなかったから、だ。  令雅はほんとうに毎日のように出撃を繰り返していた。昨日のように京城衛の宿舎に詰めていただけというのはほんとうに珍しい気がするが、おかげで詩鸞は令雅の治療に借り出されることもなく済んだわけだ。  今朝、詩鸞が出掛ける際も令雅はまだ屋敷にいて、試験に向かう詩鸞を、ちゃんと力が発揮できるように、と、そんな言葉とともに門で見送ってくれてもいた。 「たくさん書物(ほん)も貸してもらったし……」  数日とはいえ、令雅の屋敷の書庫を好きに使わせてもらえたのは、辺境の書生に過ぎない詩鸞にとっては、本当にありがたかった。さすが妖魔に対応する組織だけあって、それに関する書物は豊富で、そのおかげもあってか、今日の試験を終えたいま、詩鸞はかなりの手応えを感じていた。  一次試験の結果は、三日後に、この場所に掲示されることになっている。  二次の実技試験は、それからさらに十日後だ。  とにかくも、今日の試験で詩鸞は人事を尽くしたのだから、あとは天命を待つのみだった。一次試験の合格を祈りつつ、今度は二次試験に向けて備えをしなければ、と、そう思いつつ、貢院の門を出る。 「無事に試験に臨めたことへの御礼に、廟堂へ祈りにいこうかな。合格祈願もしたいし」  鳳凰(ほうおう)(まつ)神廟(しんびょう)へ寄ってから帰ろう、と、そう思って、大通りに出た後、そのまま神廟のあるほうへと足を向けかけたときである。 「――咆號(ほうごう)が出たってさ」  往来を行く人の不安げに囁く声が聴こえた。詩鸞ははたと歩を止める。  咆號とは、羊の体に虎の牙や爪を持つとされる妖魔だ。嬰児(えいじ)のような声で鳴くとされ、家畜や人など、見境なく生き物を襲って食うともいう。  跳躍力に優れ、その上、鋭い爪で崖などでもやすやすと登ると言われていた。京城を囲む高い郭壁であっても越えられる可能性があるわけだ。  そんな兇悪(きょうあく)な妖魔が出現したとあっては、人々の不安も大きいのだろう。集って語り合うのは男たちだったが、その声は憂わしげなものだった。  それにしても、と、詩鸞はおもう。  京城(みやこ)である瑛洛(えいらく)とは、こんなにも妖魔の襲来が頻繁にあるものなのだろうか。妖魔は辺境と中央とで特に多く()くのだとはいえ、詩鸞が瑛洛に着いてからまだ数日だというのに、令雅はほとんど毎日といってもいいくらい妖魔討伐に出掛けていた。  以前からこうなのだろうか。  それとも、太風(たいふう)の出現以来のことなのか。  あるいは、弱まっているという鳳凰の結界が影響しているのか。  そこまで考えたとき、詩鸞ははっとした。 「令雅……!」  妖魔が出たなら、きっと京城衛が討伐に向かったはずだ。詩鸞が持つ知識の上では、咆號もかなり厄介な相手であるはずだった。令雅自身が神気を練って戦っている可能性が高い。  そして、またしても、倒れているかもしれない。  そう思い至ったときだった。不安をにじませて話をしていた男たちのひとりが、強いてのような明るい声を出すのが聞こえた。 「大丈夫だろ。鳳凰の結界だってあるし、なんたっていまの京城衛には汪将軍がいるんだから、妖魔が京城内に這入(はい)ることはないさ」 「そりゃあ、そうだ」  そう言って、人々が(うなず)き合ったまさにそのとき、大通りを土煙を上げて騎馬の兵卒が通っていくのが見えた。  遠目にそれを見遣った詩鸞は、思わず息を呑んでいる。掲げられているのは鳳凰旗――……皇兄の率いる禁軍の兵卒だった。 「なんで、禁軍が」  言ったのは誰だったのか。  道に出ている人々の顔は、一様に不安そうである。 「おい、どうも、京城衛が敗走したらしいぞ」  向こうから駆けてきた男が叫ぶように言った。それを聞いて、ざわざわ、と、周囲がざわめき立つ。 「門のほうが騒がしかったから気になって見に行ったんだが、(おう)将軍が妖魔にやらたらしい」 「まさか」 「たしかなことはわからんが……京城衛の屯所や将軍の屋敷がえらい騒ぎだとか」 「おい、それ……瑛洛(えいらく)は大丈夫なのか?」 「妖魔が郭壁の中に入ってきたりしたら……」 「だからいま禁軍が出て来たのか」  口々に不安を吐露する人々の会話を背に、詩鸞は弾かれたように駆け出していた。  どうしてもっと深く考えなかったのだろう。  すっかり暮れて暗い道を、詩鸞は逗留させてもらっている令雅の屋敷に向かって全速力で駆けていた。走りながら、自分の迂闊(うかつ)に対して、忸怩(じくじ)たる想いを抱いている。  京城付近には毎日のように妖魔が出没し、令雅は毎日のように出撃していたではないか。たまたま昨日は何もなかっただけで、どうして、今日もまた無事に暮れるような気がしていたのだろう。  今日また何らかの妖魔が出て令雅が神気を使う可能性など、すこし考えれば思い至ったのではないのか。それなのに、どうして自分は、いまのいままで暢気(のんき)に試験など受けていられたのだろう。  だが、そこまで考えて、はた、と、思考を止める――……もしも最初からその可能性が脳裏にあったとして、だったら、己はどうしていたというのだろうか。  試験に行かずに令雅の傍にいただろうか――……否、そんなわけはない。なにしろ監察使の資格取得は、詩鸞の唯一の人生の目標、目的だったのだから。  でも――……では、自分は、どうしたのだろう。  不意に湧きあがった疑問を、けれども詩鸞は、軽く(かぶり)を振って追い払った。いまはそんなことはどうでもいい。 「――令雅っ!」  詩鸞は屋敷に飛び込んだ。

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