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第19話 憂悶

 熱い、と、おもう。  詩鸞は自分を閉じ籠めるように掻き抱いている令雅の(たくま)しい背中に腕をまわした。ひしりと抱き合って、幾度も幾度も、口付けを繰り返す。 「んん、っ……ぁ……っ」  身体を侵食する熱に浮かされるように、潤んだ眸で令雅を窺い見た。令雅は我を忘れたように、必死で詩鸞のくちびるを貪っている。  どうやら本能的なもののようだ。無意識でそうしているのだろう。ただただ乾いた身体が水を求めるように、自分が楽になるよう行動しているだけだ。  これは、治療だ。  わかっている。  でも、身体の奥に、奇妙な(うず)きが点った気がした。  詩鸞は令雅の背にまわしていた腕に、すこしだけ、力を籠めた。  (ほととぎす)の啼き声が響いている。鳳凰のしもべ、彼岸(ひがん)此岸(しがん)とを行き来する鳥。  プゥルゥグィ、と、小鳥は啼いた。それはいったい、何を、誰のどんな想いを、天の彼方(かなた)へと持っていこうとしているのだろうか。  カァン、と、ふいに詩鸞は、別の高い啼き声を聞いた気がした。  ぼんやりとしていた意識が、一瞬、現実感を取り戻す。  令雅の接吻はまだ続いていた。それを意識すると、身体が熱くて、まただんだんと気が遠くなってくるようだった――……このまま、たとえば着物を脱がされ、肌をまさぐられたとしたら、自分は、どうするだろう。  純潔の誓いがあるからと、いまでもやはり、拒めるだろうか。 「……だいぶ、楽になった……助かった」  ぼう、と、しているところにそんな令雅の声がして、詩鸞ははっと我に返った。  くちびるを離した令雅は、ぼんやりとしている詩鸞の青銀の房髪を梳いている。 「どう、いたしまして」  詩鸞は慌てたように、相手から目を逸らすようにして言った。  そうだよな、と、思う。たとえ本能のままに詩鸞にたくさん口づけをしたとしても、令雅はそれ以上の無体はしないだろう。たとえこのまま詩鸞が気を失って、抵抗などしない状態になったとしたって、絶対に、しない。  そう確信できるのが、なんだか不思議だった。  同時に、令雅が我が身のために無理を通さないそのことを、詩鸞はすこしだけもどかしいと思ってしまっている。そんな自分もまた、わけがわからなかった。 「無茶、しないでくださいよ……治療するこっちも大変なんですから」  己のうちに生じた不可思議な感覚に蓋をするように、口を曲げた詩鸞は、小声で敢えて相手への文句をこぼしてやった。 * 「あらあら、朝から仲がおよろしいことで」  朝食を運んできてくれた侍女の蓉香(ようか)が、袖を口許にあてながらおっとりと笑った。例によって長椅子で令雅に口を吸われていた詩鸞は、じたばたともがいたすえ、相手の腕がゆるんだところで、慌てて思い切り令雅と距離を取った。 「べつにこれは、仲が良いわけじゃ……!」  治療のために仕方なく、と、ぐい、と、口を(ぬぐ)いながら言う。それでも蓉可は、ふふ、と、ちいさく笑うばかりで、あとは卓の上に手早く朝食の準備を整えていった。 「だいたい、この人が毎度毎度、無茶をやらかしてくるのがいけないんです! おかげで一回では呪詛(ずそ)をやわらげきれなくて……」  それで度々にわたって令雅と口づけすることになっている詩鸞である。  詩鸞が声を荒らげたので、令雅は、ちら、と、極まり悪そうな顔を見せた。 「悪い。どうもあんたが待っててくれると思うと、こちらも安心して妖魔と闘えるものだから」 「あらまあ、旦那さまったら。新妻が家で待ってるから頑張れる夫みたいなことをおっしゃって」 「なるほどな。言い得て妙かもしれない」 「はあっ?! ぜんぜん言い得てない! 蓉香さんも、言い方……!」  ひとしきり言い合いをするうちに、卓の上にはすっかり朝食の用意が出来上がっていた。それを見た詩鸞は目を瞬く。 「あれ? これ、ふたりぶん……」 「はい。どうせこちらにいらっしゃるなら、旦那さまもついでにこちらで召しあがっていただいたほうが、こちらの用意も楽ですし」  蓉香はしれっと言い、令雅は何を気にするふうもなく長椅子から立っていって、卓につく。詩鸞だけがしばらく、むう、と、くちびるを引き結んでいた。  が、お腹も減ってきたことだし、と、結局は仕方なしに令雅の向かいに座った。 「今日、貢院(こういん)で、一次試験の合否が発表されるんだろう?」  令雅はいかにも育ちの良さを感じさせる所作で朝粥(あさがゆ)を食べつつ、詩鸞に訊ねてきた。腹は立つが何させても様になるな、と、うっかり令雅の様子を目で追ってしまっていた詩鸞は、ふいに橙まじりの金茶の眸を向けられて、はっと我に返った。  慌てて自分も粥を口に運びながら、まあ、と、素っ気なくうなずく。 「この後、見に行ってきます」 「あら、そうなんですの。よい結果が出ているとよろしいですわね」  蓉香が茶を注いでくれながら言った。 「その後は、二次試験があるのでしたっけ? もしもそれにも及第(ごうかく)なさったら、詩鸞さまはそのまま、監察使として仕官なさるおつもりなんですか?」 「いえ、資格を取ったからといってすぐに登用されるとは限りませんし……合格したら一度、故郷のほうへ戻ろうかと思っています」  詩鸞の目的は監察使の資格を得ることだ。その資格があれば、故郷へ――利陶(りとう)の廬ではなく、生まれの地である芝蒼(しそう)へ――一帰ることができる。  だから、合格を得たあかつきには、なるべくはやく芝蒼へ帰る用意を整えたいと思っていた。  そのためにも、いったん東の辺境へと戻る。  当たり前にそう思っていた――……これまでは。 「あら、お帰りになってしまわれるのね。それでは、旦那さまが大変」 「あ、いえ……わたしの治療が必要だというのなら、もうしばらく京城逗留を延ばしても構わないのですが」  すくなくとも太風の件が片付くまでは、令雅の傍にいたほうがいいような気がする。そうでないと令雅は戦闘に出向けないだろうし、と、そう思いつつ、詩鸞はちらりと令雅のほうをうかがった。 「あなたの呪詛(ずそ)をなんとかする方法は……その、ほかには、ないのですか?」  令雅は、呪詛を解く方法として、詩鸞と交合するようにという鳳凰の神託があったのだと言った。だが、それ以外には方策がないのだろうか。 「たとえば、呪詛のもとの太風を倒せば、解けたりとか?」 「どうだろうな」  令雅は首をかしげつつ曖昧(あいまい)に言って、息をついた。 「でも、解けないなら、あなたは……」  生涯、神力の行使がままならぬ状態のままで過ごすのだろうか。いまは詩藍が都度治療して呪詛を和らげているが、詩鸞がいなくなったら、どうするつもりなのだろう。  (あざ)はだんだん濃くなっている。そしてそれは、これからも令雅が神力を練る度にひどさを増すのだろう。もっともっと強い瘴気(しょうき)を発するようになる。  いまでさえすでにのっぴきならない状態に陥ることがあるのだから、詩鸞の治療なしでは、令雅の身はそう長くもたないのではないのだろうか。  それでも彼に京城衛を退く気がまるでないのだとすれば――……いつか、そう遠くない未来の、限界を迎えた日に、彼はいったい、どうなるのだろう。  ぞわ、と、背筋を悪寒が駆け抜けた。  胃のあたりが冷えて、気持ちが悪い。  詩鸞が黙り込んでくちびるを引き結んでいると、心配するな、と、令雅はゆっくりと言った。 「大丈夫だ。俺はあんたの目的を(はば)むつもりはない。あんたが帰るという時には、無理に止めたりはしないから」 「そ……っ!」  そんなことを気にしているのではない、と、思わず声を荒らげそうになって、詩鸞ははっと口を(つぐ)んだ。  別に、詩鸞が去ったあとに令雅がどうなろうが、知ったことではないではないか。だいたいにして詩鸞は、はじめから、わからず巻き込まれただけの立場である。  監察使の資格を取って、故郷へ戻る。それは詩藍の悲願だ。そのためにこれまで努力を重ねてきたのだから、それを果たさずしてどうする。  そう、思う。  思うけれども、一方で、いま令雅を置いて京城を離れてしまって、心穏やかに過ごせる自信などまるでなかった。呪詛におかされたままの令雅を放って故郷に戻るのは忍びない、と、そういう気持ちになってしまっていた。  いっそのこと、試験に不合格だったなら――……それなら、次の試験が実施されるまでの四年は、すくなくとも、令雅の傍にいてやれる。  不意にそんな思考が浮かんできて、詩鸞は己の思考に愕然(がくぜん)とした。  なんだこれは、と、思う。こぶしを握り込む。  もしかしたら詩鸞は、唯一の、そして譲れない願いだったはずの監察使になることよりも、令雅の身を優先したいと思ってしまっているのだろうか――……否、そんなことはない。  そんなことは、許されない。  故郷の皆に、申し訳が立たない。  でも――……令雅を救えるのは、自分だけだ。  それなのに令雅を放っておくなんて、胸が痛む。  こころが、ゆれる。  ぐちゃぐちゃになる。  自分の中に生じつつある、感情。それに気がつきかけた詩鸞は、あまりのことに深く(うつむ)いたきり、顔を上げることができなくなってしまった。

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