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第34話 鳳凰

令雅(れいが)……令雅、ねえ……生きて帰るって、約束、したじゃない」  詩鸞(しらん)は、自分の肩にぐったりと身を預けてしまって、もうこそとも動かない令雅に呼びかける。けれども、令雅は答えなかった。  令雅の命が、彼の身体から、流れ出してしまおうとしている。  抱き締めた身体がいつか冷たくなってきていることに、詩鸞は気がついていた。 「令雅……ねえ、令雅……かならず帰るって、やくそく、は……?」  必死で語りかけても、彼は動かない。ただぐったりと詩鸞に身を(もた)せかけているだけである。詩鸞の声はふるえ、(まなじり)には、知らず涙の滴がもりあがっていた。  けれども詩鸞は、ぐい、と、乱暴に涙を拭った。  令雅をぎゅっと抱き締めなおす。泣いてしまったら何か不吉なことが起きてしまう気がして、今度は必死で涙を(こら)えた。  令雅にくちびるを寄せる。  ふれあわせると、そこはひやりと冷たくて、背筋がぞっとなった。  接吻は血の味がした――……そして、たぶん、これは昏い死の味でもあるのだ。彼の呼吸は、弱弱しいどころか、もうすっかりとまってしまっていた。 「……いやだ……い、や……」  令雅を抱えた詩鸞は、その事実に、やっぱり堪えきれなくて嗚咽(おえつ)をもらした。燃え盛る故郷を前に泣き濡れた遠いあの日のように、滂沱(ぼうだ)と涙を流し、ひたすらに声をふるわせた。  そのとき、プゥルゥグィ、と――……(ほととぎす)の高い啼き声が響いた。  詩鸞の身から、彼岸と此岸とを行き来するという鳥が飛び立っていく。プゥルゥグィ、プゥルゥグィ――……不如帰(帰るに如かず)、と、鳥は啼く。  国を失った男が、帰りたいと泣き続け、ついに姿を変えたのが鵑なのだという。  帰りたい、大切な場所へ。  帰りたい、大事な者のところへ。  帰ってきてほしい。  ほかのどんなことよりも、ただ、それだけを望む。  不如帰、不如帰、と、いま辺りに響くその声音は、いったい、誰の想いなのだろう――……詩鸞か、令雅か。  詩鸞は涙にぬれた頬を、令雅の冷たい頬にこすりつけた。  みるみる鳥の数は増え、詩鸞と令雅の頭上を、啼きながら飛び廻る。  やがてその鳥たちが、螺旋(らせn)をえがくように、空の奥へと飛びのぼった。  そのとき、ばさり、と、大きな羽音が響いた。  それまで――まるで事態を見守りでもするかのように――じっとしていた太風(たいふう)である。肢を折っていた巨鳥は、不意に、ばさ、ばさ、と、翼をはためかせた。  そして、一気に、天高くへ舞い上がる。 「なんだと……まだ、そんな力が……!」  禁軍将軍が慌てたように太風を追おうとした。乗騎の鳥の背にまたがって、舌打ちをひとつ、朱家の私兵を引き連れて飛び立とうとしている。羽姫もまたそれに続いた。  でも、詩鸞にはそんなことは、もうどうでもよかった。  だって、令雅が、動かなくなってしまった。令雅の命は、この手からこぼれ落ちるように、どこかへ消えていってしまった。 「うっ……っ、ぅ……ふ、ぅ」  詩鸞は令雅を抱いたままで空を仰いだ。  鵑が空に吸いこまれるように消えていく。鳳凰のしもべ、彼岸と此岸をつなぐ鳥――……いま彼岸(あちら)の世界へ連れ去られてしまった魂を、その鳥は、呼びもどしてはくれないだろうか。 「……令、雅……」  詩鸞が天空を仰いだままでつぶやいた時だった。天の奥底で、ちか、と、何かが光った気がした。  その刹那のことだった。  ばさばさ、と、またしても大きな羽音が響いた。  太風ではない。否、太風だ。  遥かな天の彼方から、もう一羽、赤い巨鳥が姿を現していた。 「太風が、二羽、だと……どういうことだ?」  戸惑うように男が呆然とつぶやいたのが聴こえた気がした。  二羽はすぐさま互いに近づくと、羽を打ち交わし、(くちばし)を寄せ合い、カァン、と、高く啼き合った。しばらくじゃれるように、上になり、下になり、その場を飛び廻っていた。  やがて飛びながら、二羽は首を絡めあって、羽を結びあった。  重なったその姿がぐにゃりと()ける。かと思うと、二羽はそのままひとつに収斂(しゅうれん)し、合一(ごういつ)して――……やがてそこには、一羽の優美な赤い鳥が姿を(あらわ)していた。 「……鳳、凰……」  詩鸞はつぶやくようにその霊鳥の名を呼んだ。  紅い霊鳥は、大きく羽を広げた。神秘的な鬱金(うこん)の眸が、静かに地上を見下ろしているかのようだった。  人々が祈りを捧げる神廟の、祭壇に祀られている気高い神像。いま目の前に現れたその鳥の姿は、まさに、その鳳凰像そのものだった。  カァン、と、鳥は啼く。ばさ、ばさり、と、羽ばたいて、ゆっくりとこちらへ降りてきた。  詩鸞の目の前に降り立つと、鳳凰はすらりと伸びた優美な首を曲げて、その(くちばし)をしずかに令雅のほうに差し出した。  ぽう、と、あたりに光の泡が浮かび上がっては消えたような気がした。まるで冬を耐えきったあとの春の(うら)らかな陽射しのような、そんなやさしい気配に包み込まれる。 「……あ……」  太風との戦闘により再び令雅の肌を覆っていた(あざ)が、そのとき、すぅ、と、消えた。それと同時に、血の気の失せていた頬に、ほんのりと赤味が差してくる。  やがて彼のくちびるが、ほう、と、静かな息をもらした。 「れい、が」  呼びかけると、まぶたかかすかにふるえて、持ちあがった。  (だいだい)まじりの金茶の眸が、その下に覗く。 「令雅……!」  鳳凰が奇蹟を起こしてくれたのだ。詩鸞は感極まって、無言で令雅に抱きついていた。 「……し、らん」  掠れ声がこちらの名を呼ぶ。 「ばか。この、うそつき。――一生かけて……わたしに()びろ」  心配したんだから、と、詩鸞は泣きながら令雅を(ののし)った。  令雅はまだ詩鸞に身を(もた)れさせたまま、わけがわからないというふうに数度、目を瞬いた。詩鸞は、令雅の身をぎゅっと抱え込むようにして、しゃくりあげる。 「……ご、めん」  しばらくしてから令雅は、口許をすこしだけ苦笑のかたちに持ち上げて、ささやき声で言った。  それから、涙に濡れた詩鸞の(まなじり)のあたりに――涙を拭うように――そっとくちびるを寄せた。  鬱金の眸を細めてそれを見届けた鳳凰が、ばさり、と、羽を広げる。  カァン、と、ひと声高らかに啼き声を響かせると、鳥の中の鳥、翼あるものの王たる最高神は、また、ゆっくりと空中へと舞い上がった。 *  しかし、喜びに包まれたのもほんのわずかの時間だ。  詩鸞が現実に引き戻されたのは、不意に、頭上に巨大な影が差したからだった。振り仰ぐと、そこに姿を現したのは鳥船である。それは兵卒を乗せた軍艦だった。  赤地に金の(ぬいとり)が施された軍旗を掲げているのが見える。 「……鳳凰、旗」  詩鸞は呆然とつぶやいた。  中央に鳳凰の図像を(いただ)いた旗が(ひるがえ)っている。禁軍の証だ。  視線を巡らせると、鳳凰が飛んでゆく先、京城の郭壁の上には、数多(あまた)の霊鳥が並んでいた。自分たちは、いま、禁軍に取り囲まれている。 「……う、そ」  そう言ったきり、詩鸞は言葉を失った。

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