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第36話 事後の諸々

「ふう」  夕刻である。令雅の屋敷の一室で書物を(ひら)いていた詩鸞は、虚空(くう)を仰いで、ひとつ大きな溜め息を漏らした。  ()り固まった肩や腰を軽くこぶしで叩くと、んん、と、伸びをする。  皇帝の登場によって急転直下の結末を迎えたあの日からすでに数日が経っていたが、太風の一件が片付いて以来、詩鸞には特にすることもなかった。  おかげでここ数日、はからずも読書がはかどってしまっている。高く積み上がった冊子にちらりと視線をやった詩鸞は、なんだかな、と、頬杖をついてまた嘆息した。  皇帝は、すでに十五年前から、異母兄の抱く野望を薄っすらとは感じ取っていたらしい。今回、京城の東に太風――太鳳(たいほう)――が顕現し、それを追っていった羽姫が消息不明になったあたりから、ひそかに、皇宮司と呼ばれる組織を使って、兄である禁軍将軍の動きを探らせていたらしかった。  そしてついに、太風の再びの出現に合わせるかのように私的に禁軍を動かそうとしたのを根拠として、すみやかに将軍の任を解き、捕縛に動いたということだった。  あの日、城郭の上に集結した禁軍を率いていたのは、皇帝自らだったということである。  なにしろ鳳凰の代替わりは、有史以来はじめてのことだった。まるで前例のない再生の儀において不測の事態があったときに備えてのことでもあったらしい、とは、詩鸞は令雅の副官の佑祥を通じて聞かされていた。  禁軍に撃ち落され、落鳥した禁軍将軍および羽姫は、あのあと、父娘(おやこ)ともども囚われの身となっている。叛逆(はんぎゃく)罪で縄を受け、天牢(てんろう)という重罪人が収監される牢の中で、裁きの沙汰を待っているということだった。  皇兄による叛逆計画に、鳳凰の死と再生、前代未聞の出来事が重なった京城は、しばし騒然とはなった。が、簒奪(さんだつ)計画は未然に防がれており、実際に叛乱が起きたわけでもない。京城に実質の被害がなかったということもあり、数日経ったいま、すでに(まち)は平穏を取り戻したように見えていた。  予定されていた監察使の試験もまた、期日通りに実施される。  その日が、ついに明日に迫っていた。  とはいえ、純潔の誓いを破ったために神気(じんき)を失った身である詩鸞にとっては、監察使の道はすでに閉ざされてしまったものだ。それでも、なんとなく、未練がないでもない。 「……いちおう、受けにだけいこうかな」  神気を操る実技の試験である。いまの詩鸞は何も出来ずに終わるだけなのは目に見えてはいたが、それでも、勝手に辞退したり棄権したりしたのでなければ、この先の受験資格だけは残る。 「でも、な」  一方で、そうしたところでそれが何になるのだという気持ちもあった。この身に神気が戻る見込みは、ない。  監察使の資格は手にはいらない。  だから、故郷の地を踏む日も、来ない。  詩鸞は、はあ、と、また長嘆息をもらした。 「これから、どうしようかな」  これまで詩鸞は、監察使の資格を得ることだけを目標に、日々を暮らしてきた。それを失くしてしまったいま、この先をどう生きていくべきか、ちょっとばかり、途方に暮れてしまう。  早いところ次の目標を見つけなくては、と、そう思うものの、それがなかなか簡単ではなかった。  それでも、これは、後悔しているのとはちがう。  人生の目標を失ったようなもので、たしかに胸に空虚感があるのは否定しない。それでも詩鸞は、不思議と、重苦しく暗い気持ちにとらわれているわけではないのだ――……たぶんそれは、令雅がちゃんと、生きているから。  京城衛将軍である彼は、あの日以来、ひどく忙しそうにしていた。屋敷の中でもほとんど見かけることがない。どうやら諸々(もろもろ)の事後処理に追われて、京城衛の屯所との行き来だけではなく、京城内や皇宮なども含めて各所を駆けまわっているらしかった。  ちょっとくらい顔を見せてくれてもいいものを、と、そう思うのは、きっと詩鸞の我儘(わがまま)なのだろう。何の職も持たない自分とはちがって、彼は京城守護の重い任を負っているのだ。詩鸞のために時間を割いてくれないからといって、(うら)む筋ではないことはわかっていた。  あらためて、彼我の立場の大きな違いを、否応なく、考えてしまう。 「そういえば、ここにも……そういつまでもお世話になるわけにはいかないよな。わたし、無職だし。もう、令雅の治療っていう名目も、ないわけだし」  令雅の身を覆っていた呪詛(ずそ)の――結果としては太風の血の形代(かたしろ)としての証のようなものだったわけだが――(あざ)は、あれ以来すっかり消えている。彼の身体も特段、何の問題もないようだった。  そうなれば、あとのことはもう通常の医者の役目の範疇であり、もはや詩鸞が令雅のためにしてやるべきことはない。 「どう、しようかな……これから」  はあ、と、再び深い溜め息をつく。この問題については、考える度にひどく気分が重くなって、ついつい結論を先送りにばかりしていた。  もう、詩鸞には、京城にいる理由がない。  令雅の傍らにいなければならない理由も、ない。  令雅は詩鸞を無碍(むげ)に追い出したりはしないようにも思うが、けれども、何の役にも立たないのにここに居続けていいのかどうか――……どうしよう、と、詩鸞がそっと吐息したときだった。 「――詩鸞、いるか?」  扉の向こうから誰何(すいか)の声がした。 「っ、令雅」  詩鸞は鼓動が跳ねあがるのを感じた。慌てて立ち上がって扉を開けると、そこには、軍装ではなく、珍しく普通の着物姿の令雅が立っていた。  一緒の屋敷にいるはずなのに、顔を見るのは、なんだかとても久し振りな気がする。詩鸞はまじまじと、いまでは痣もすっかり消えた相手の顔を見詰めた。 「あ……な、なにか、わたしに御用でしたか?」 「うん、ちょっとな。――入ってもいいか?」 「え? あ、は、はい。どうぞ」  なぜかしどろもどろになってしまいながら、詩鸞は令雅を招き入れた。  一緒に長椅子に腰掛ける。それからもどうしていいかわからず、令雅から目を逸らしつつ、居た堪れない気分を持て余した。  令雅も、しばらくの間、黙っていた。  もしかして何か言いにくい話でもしに来たのだろうか。そう思ったとき、詩鸞は、はっと顔を上げた。 「も、もしかして……いつ出ていくんだって、わたしに催促に来たとか?!」 「は?」 「だってわたし、もうここにいる理由なんかありませんし!」 「いったい何を言っているんだ、あんたは」  令雅は呆れたように溜め息をつくと、詩鸞の肩を抱き寄せた。  そのままくちびるを寄せられる。ちゅ、ちゅ、と、小鳥が餌を(ついば)むような軽い口づけを繰り返され、なんだこれ、と、詩鸞は戸惑った。 「も、もう、あなたとわたしが接吻をかわす必要など、ないでしょう? ――あ、それとも、もしかしてまだ呪詛が残っているんですか? それで、治療のためにここに来たとか……」 「ちがう。――ほんとうに鈍いな、あんた」  令雅は呆れたように溜め息をついた。 「こっちは、必要とかそういう問題じゃなく、口づけているんだが」  いったん詩鸞からくちびるを離した令雅はちいさく肩をすくめて苦笑してから、再びこちらに顔を近づけた。 「で、でも……だって」  詩鸞は顔を背けて、令雅からの接吻を避けてしまう。 「あんたな……だって、何だ? 理由とか必要とか、そんな問題じゃないだろう。――俺はしたいからしているだけだ。あんたは、俺とはもう、したくないのか?」  じっと見詰められて、詩鸞はその熱い眼差しに鼓動がうるさく早鐘を打つのを感じた。

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