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『八月一日来夏という男』
午前、六時半。
二人のスマホのアラームが鳴り、来夏は自分のデバイスの音を切って、ベッドから足を降ろす。
足元に転がる山田に声をかけるが、山田は布団から出る意思を微塵も感じさせない返事を返す。
来夏は便所を済ますと、ひとまずマウスウォッシュで口をゆすいだ。バシャバシャとてきとうに顔を洗う水音が洗面所から聞こえる。
台所で朝食の準備に取り掛かる。その合間に、いまだ布団に包まる山田に声をかけながら。
朝は決まって、マーガリンの入ったレーズンロールパンを二つずつ、バナナを一本、たまにヨーグルトにグラノーラを入れたものを食べる。
同じメニュー、同じ分量。お揃いの木目調のランチプレートは、来夏がいつの間にか揃えていたものだ。
いつまでも起きて来ない山田に、とうとう痺れを切らした来夏は布団から出ていた素足を、足の指を器用に動かしてくすぐったのだった。
世界規模の衣料販売店に勤める来夏の出勤時間は、シフトに寄っては異なるが、大体であれば山田よりも一時間ほど遅い。
今朝は普段ない事に、コーヒーをわざわざ落としていたので本日は休みなのだろうと予想がついた。
それから山田の朝の支度を見守った。
これは毎日のことである。
朝食を終え、洗顔のついでにあまり目立たない髭を剃り歯磨きをする様子を横目で見る。後ろ髪の寝癖を笑い、それを来夏は整える。
どうせ誰も見てないよと昨日のシャツを着ていきそうな山田の、今日のシャツを選ぶ。
セーターの上に春用の上着を羽織り、リュックを背負ってトボトボと玄関に向かった山田を励ますように背中を撫で、着古したスウェット姿のまま見送る。
山田がアパートの階段を降りる音を聞き、その姿が見えなくなるまでシンクのすぐ横の玄関先から見守る男、八月一日来夏。
実に健気な男である。
来夏は土間に戻り、思い切り背伸びをする。
足を踏み入れた台所で、何かを考えるように両手を広げた。
居間と台所を仕切る扉からシンクまでの距離を測るように。そして顎に手を添え数秒。
おそらく来夏は、先日山田と話していた食卓テーブルの事を考えている。頭の中では理想のテーブルと予算を秤に乗せている事だろう。
けれど長くは続かず、居間に戻りすぐに後ろの二重窓をスライドさせた。
風で倒れぬよう、少しばかり足元をずらされる。
昨夜山田が開いた文庫のページを捲るくらいの強い風が部屋の空気を巻き込んできた。
その風で深く呼吸をするようにこちらの体も大きく揺れる。
リラ冷えの晴れ間だ。
暖房で湿気が篭りがちな部屋に、肌寒さが気持ちが良い。
少々乾燥気味であるのはこの町が北にあるからかもしれない。
来夏は楽器部屋の窓も開ける。目に見えないくらいの微かな埃がキラキラと舞った。
来夏は押し入れも開けた。
風は衣類の隙間を縫って、柔軟剤か香水かはわからないが、ミントの爽やかな香りを微かに室内を満たしていった。
今日は彼に関する話でもするとしよう。
この家の家主である八月一日来夏。来夏は東京都出身である。その来夏がなぜ、試される大地に住まいを移しているのか。
それは来夏の学生時代まで遡る。
特に夢も希望も野望も持たずに育った来夏は、ピアノができるというだけで小学校の教員免許を取ると決め、この地にある国立の教育学部を目指した。
決して困る家庭ではなかったが学費や生活費も半分は自分で払うと約束をして、人並みに受験生らしく勉強を重ね見事合格。
正直なところ今となっては、この大学を受けたくて来たのかこの町に来たくて受けたのか、もう覚えてはいない。
晴れて教員免許を取得し都内に戻るかという岐路でここに留まる事を来夏は決めた。
就職活動はしなかった。
学生時代から続いていた衣料販売のバイトと居酒屋のバイトを現在まで継続させている。
居酒屋は、どうしても手が足りない時に週に一、二度助っ人に入る程度。個人経営の居酒屋だ。正規で雇うよりも、お小遣いと称して慣れた来夏を使う方が店にとっても有難いらしいと来夏は言っている。
接客業で稼ぐ傍、趣味で音楽を作り過ごす毎日は決して楽ではなかったが苦でもなかった。
たまにマッチングアプリで遊び相手を探した。
数名と付き合ったようだが長続きはしなかった。
それは来夏が、見た目に反して大変ナイーブかつ少々真面目なところのある人間だからかもしれない。
来夏は金髪でもなければピアスなどもついていないが、職業からかどうしても対人慣れ、すなわち恋愛慣れをしていそうな雰囲気を醸し出している。らしい。そう言うのは山田である。
山田がここに住み着く前の来夏は、来訪を待つ間にアロマを焚いてみたり、逆にダサいか、とアロマを隠してみたり、さもなんとなく見ていただけという体で話題のアニメに切り替えて、やはり面白い方が良いかとバライティ番組をチョイスしたり、そんな事を一人バタバタとする男なのだ。
この行動を見る限り、おそらく恋愛慣れなどしていない。
この家に迎えられた日の事を思い出してみる。こちらの定位置が窓辺に決まった日だ。
エアコンの風が直にあたるので多少の不満はあったものの文句が言えるわけもなく今日まで来ている。
その日も二人は取り止めのない話を台所で繰り広げていた。
今思えば些かよそよそしく敬語が混じって、お互いに距離を測りかねるような会話だったように思う。
冷蔵庫にある野菜を全て微塵切りにして、夜まで煮込み、ようやく出来た無水カレーを前に二人は美味しそうと顔を見合わせていた。この時、来夏の家に山田の布団はまだなかった。
山田が帰ったあとの来夏はニタニタしながら台所を片付けていたりして、当時はなんなんだこの男はと思ったものだ。
それからふた月程過ぎたあたりだろうか。山田が布団を持ち込んだのは。
当たり前のように来夏はそれを受け入れて、当たり前のように山田は寝泊まりするようになっていた。
山田は今でも時々自宅へ帰っているが、山田の実家は来夏の家から徒歩で二十分かからないというのだから、偶然とは本当にわからないものである。
来夏が不在の時も山田が出入りするようになり、家には文庫本が増えた。山田が暇つぶしに読んでいるのだ。
それにつられるように来夏も本を開く事が増えた。バンドマンでもある来夏は、本を読むと曲が浮かぶと笑うのだった。
打ち込みという、よくわからないやり方が彼の音楽の作り方で、居間の隣の畳の部屋にはギターやキーボードが置いてあるのが見えた。それから、パソコンに周囲機材が並んでいるらしい。
ご近所の手前ジャンジャカとギターを鳴らすことはない。たまに鼻歌が聞こえてくるくらいだった。
ライブっていうからビジュアル系みたいなのだったらどうしようと思ったと笑ったのはいつぞやの山田で、ムービー撮ったとはにかみ、この曲が一番好きだと言われた来夏は照れるばかりだった……。と、まぁさも彼の全てを知っているかのように話した訳だが、どれもこれも全てこの部屋で見聞きした事だ。
ところどころ事実と違う部分があるのかもしれないが、こちらに知る術はない。
けれどこれだけは確かだ。
来夏が随分幸せそうだという事。
幸せじゃなかったら、口笛を吹きながら掃除なんてしないだろう。それもやはり山田が好きだと言った曲だ。
一人だというのにドライヤーの排気口に詰まった埃を取って満足気に微笑んだりしない。
山田の布団を窓の手すりに干したりしないし、日光を浴びながら昼寝などしない。
気付けばどうやら、陽の光がこちらまで饒舌にさせていたみたいだ。
平日の昼間は静かだ。
近くの小学校からチャイムが聞こえた。
ぽかりと目を開けた来夏は、伸びた指先に触れた薄い文庫のページを捲り始める。
来夏は時間も忘れ、干した布団も忘れ、昼食も忘れ読み耽る。頬に畳の跡が付いていた。
そんなに面白いのかその話は。自分の人生よりも。
山田が帰って来る前に、風呂の掃除をするんじゃなかったか。唐揚げはどうした。まだ買い物にだって行ってないじゃないか。山田が夕方の六時半には帰って来るのをお前だって知っているはずだぞ。
ああ、と思い、そうか、と考える。
君は山田が帰って来たらいの一番に、俺も読んだよ、と言いたいのだろう。
主人公の気持ちを語り合い、お互いの解釈で討論する。そんな夜を過ごしたいのだろう。
そうだった。そんな男だった、君は。
夜空に花火が上がるような華やかな夜も悪くはないが、月明かりの元誰にも気付かれないようなくだらない話が足元に小さな花を添える、そんな夜を好むのだ。
来夏が、ハと気付き上半身を勢いよく起こしたときには、晴れた空が紫色になる手前だった。北の地では、まだまだ冬の気配がそこかしこに残っている。
来夏は家着を脱ぎ捨て見てわかるほど生地の厚いパーカーに袖を通しデニムを履き、買い物袋代わりのトートバックを手に取り突っかけを履いて、一度は玄関を開けたが何を思ったか一旦戻って洗面所に籠った。
ジャージャーと流れる水。ボイラーの急稼働を知らせる音がボンボンと鳴る。歯磨きにマウスウォッシュ。
一度居間を横切り隣の部屋からキャップを持ち出してツバを口に咥え、けんけんをしながら器用に靴下を履いていく。居間の隅にある全身鏡の前で一回り。
小さな声で、ああ、まぁ。とよくわからない言葉を発して頷きながら今度こそ家を出て行った。
部屋が星空に包まれた頃、二人の笑い声と共に玄関が開かれる。山田と帰って来たのだ。
結局、夕飯は近所のスーパーの半額の惣菜になっていた。
齢三十にさしかかり健康も気になるこの頃か。青々としたブロッコリーを茹で、冷蔵庫に余っていた野菜を全部ぶち込んだ味噌汁と納豆。狭い台所で昼間読んだ小説の話をしながら夕食の準備をする二人の背中を眺める。
そこの小説俺も読んだよ、と言う来夏の楽しそう声が届いて、山田のめんどくさい考察に来夏は声を出して笑っていた。
◆◆◆
山田が風呂に浸かっている間に、来夏は食事の片付けをしてテーブルを避け、普段は部屋の隅に避難させている山田の煎餅布団を狭い部屋に敷いて寝支度を始めた。鼻歌はやはり山田が一番好きな曲だった。
一曲歌い終わる頃、芯までさっぱりしたような山田がお礼を言いながら布団に転がる。
髪乾かしなと小言を投げながらも口の端を上げる来夏。
部屋の明かりが枕元のライトだけになり、二人の小さな話し声はお互いにしか届かぬほどにささやかだった。
あいも変わらず地肉の養分にもならない話だろう。
けれど来夏はそれすら楽しんでいるに違いない。
着地点までの道草を道草だと思っていないのかもしれない。
そういう男だ。八月一日来夏という男は。
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