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『生活最低賃金』

 テーブルの上の山田のスマホが、ブ、と一瞬震えて知らせたのは来夏からのメッセージのようだった。腹ばいのまま腕を伸ばしスマホの画面を確かめた山田は文庫本をベッドへ放ってうどんを茹で始める。  あっという間に狭い部屋には湿気が蔓延して、山田は除湿機代わりにエアコンをつけた。  曇った眼鏡を頭にひょいとひっかけて。 ◆ 「待って一回ストップ」 「え?」 「枕、変わってる」  喉を滑滑らせて胃袋に収めるはずだった麺を詰まらせ、ゲホゲホと咳き込みながら来夏の指先がティッシュを探した。山田は、手元に置いていた箱を差し出す。全くと言っていいほどその顔に表情は無い。 「欲しいって言ってたでしょ」 「言った!確かに言ったけど!あと、これ!」 「ええ?」  まだ何かあるのかと山田はうどんを啜る手を止めず、上目遣いで来夏を伺った。 「何これ」  来夏が指差したのは、一旦は全ての反応を保留にしてベッドの端へ避難させていた新品のタブレットだ。ピカピカの本体の林檎マークの下には、RAIKAと刻印までもが為されている。 「タブレット。それも欲しいって言ってたから」 「全然頭が追いつかないんだけど」 「家賃受け取らない来夏が悪い」  きっぱりとそう言い切った山田。  来夏の顔には、果たしてそうだろうか、という戸惑いの文字が浮かんだが、そんな反応はどこ吹く風で、山田は付け合わせの豚肉とピーマンの炒め物を頬張ると、結局こういうのが一番美味いんだよな、と一人で満足げに頷いたのだった。  夜九時を回って帰宅した来夏は、玄関を開ける前から出汁の匂いを嗅ぎつけていたのか、いい匂い、お腹空いた、と子供のような笑顔でドアを開け靴を脱ぎ散らかしていた。  半畳もないであろう狭い土間は、向きも揃えられないまま放り出された男二人分の靴で、ぎゅうぎゅうに埋め尽くされているだろう。 ◆  うどんを食べ終えた二人が居間の小さなテーブルを挟んで対峙していた。その上には一冊のノートが開かれている。  来夏は落ち着かない様子でノートの端を指で何度も折っては戻している。 「枕、いくらしたの?」 「言わない」 「こないだテレビの通販で見たやつなら二万だよね?」 「さあ」 「これは?値段調べるの怖いんだけど」  そう言って再び指を刺したのはシルバーのタブレットだ。  確かに来夏は、事あるごとにスマホでタブレットのスペックを調べ眺めては、欲しいなと呟いて、使い切れる気がしないんだよな、と結局は独り言で締めるという行動を再三繰り返していた。 「俺がここに泊まるようになって、一、二、三、まあ、毎月三万として。うん、そんなもんでしょ。本当は家賃以外を俺が払っても良いかなって思ってるんだけど」  山田は、ここに泊まり始めた頃のことを思い出すように少ない歳月を指折り数えては、一人納得するようにうんうんと頷いて腕を組んだ。 「あのさ。俺は充分助かってるんだよ。気付いたらお米とか買ってくれてるし。夕飯だってさ」  来夏は、言葉を重ねるほどに申し訳なさが募るのか、視線を落として未だにノートの角をいじる自分の指先を見つめた。  そんな来夏の姿を無言のまま数秒眺めていた山田は急に腰を上げると汁の残った皿を手に持ち台所へ向かった。シンクに重ねたどんぶりに水を張る。ギュ、という音で、山田が力いっぱい蛇口を捻ったのがわかった。  その背中を追いかける来夏の視線は随分と心許ない。 「最近俺が食費に使ってる金額なんてたかが知れてるし。それで充分っていうか。助かってるっていうか」  来夏の言葉を背中に受けた山田はシンクの縁に手をかけ腰をかがめて前屈をするように頭を下げると、長く大きなため息をゆっくりと吐いた。  やっと振り返った山田の顔は穏やかなように見えるが、にわかに歪んでいる。  来夏は視線を彷徨かせて、どうしようもなくなったのか結局は山田と目を合わせた。 「で?」 「お金だけじゃなくてさ。ゴミ捨てとか掃除とか洗濯とかも」 山田はまるで聞いていないように、キッチンツールの引き出しを開き、ガサガサと音を立て買い置きのお菓子を漁り始める。 「で?」 「で、って。そんな」  意地の悪い切り返しに来夏の言葉が詰まった。  袋菓子を持つ山田は、腰を下ろしてまっすぐに来夏を見る。見つめ合って、先に根負けしたのは来夏で、いたたまれないというようにまた俯いてまう。 「別に俺は来夏を楽させてやろうとか、養ってやろうとか考えてる訳じゃないよ。自分がここで生活してるぶんは払うよって話」  山田はそう早口で言い終わると同時にお菓子の袋を乱暴に開け、スナック菓子を一枚口に仕舞いうとバリバリと音を出して食べ始める。  何かを紛らわすようにわざと粗雑に立ち振舞っているとしか思えない。 「だから、それがいらないって言ってるじゃない」 来夏は他所を向いたまま眉を寄せて弱々しくも反論したが、山田はそれを片手で制しほんの少し居住まいを正す。 「これこのままだと絶対着地しないと思うから先に言っておきたいんだけどさ」 山田は油のついた指先を気にして、ティシュをつまんだ。指を拭いたちり紙をそのまま丸め握り込む。それから座卓に腕を組んで身体を前のめり、来夏の顔を覗き込んだ。 「二人で決めたいなって。ちゃんと。俺も実家で気楽にやってきたからさ」  山田に近付かれた分、来夏は背を反って同じだけ距離を開けた。再度黙り込んで今度はテーブルの木目をじっと見つめた。 「それじゃあ納得できない?」 「や。そういうわけじゃなくて」  真正面からの山田の視線に、来夏は膝の上で拳をぎゅっと握った。何かを言いかけては出てきそうな言葉を飲み込む。誤魔化して口の端を上げるが結局は戻ってしまう。瞬きが増えて、喉の奥を鳴らすように唾を飲んだ。 「じゃあ、何?」  山田の声は穏やかで優しい。優しいからこそ逃げ場がない。 「こんなの決めるなんて、十五年後も一緒にいるみたいじゃん」  こちらが、ああ、先日の話か、と思い返している間山田は何度か瞬きをしていた。  おそらく山田も同じように思ったはずだ。  山田は、ゆっくりとした動きで頬杖をついた。 「俺はそういう気持ちがない人とセックスの話なんかしないし、ましてやお金の話なんて絶対にしない」  山田の笑みは、少しだけ揶揄いが混じっているようにも見える。  細められた目、片方だけわずかに上がった口元。  来夏はしてやられたというように耳を真っ赤に染める。  そんな来夏を見てカカカと声を上げ笑う山田だ。  さて、と咳払いをすると何事もなかったように続きを話し始める男の、なんと小憎たらしいことか。 「十五年後の約束より十五年以上の決まりを作ろうかなって」  あっけらかんとした声色で発せられたセリフに、来夏は目を見開く。口が一度ポカンと空いて、何を言おうかと考えあぐねいた末にため息を落としたのは、来夏が完全に白旗を上げた証拠だった。  そこには言葉にならない呆れがあるのかもしれない。  それとも惚れた者の弱みか。弱肉強食とも云えるかもしれない。  どちらにせよ、これ以上言い合っても埒があかないとでも言いたげに来夏は最後の悪あがきを見せた。 「でも先に言って欲しいよ。こんな高価なもの」  さっさと降参した来夏は、やはりタブレットに指を差す。直接触ったのはテーブルから一旦避けるため、画面に指紋がつかないよう縁を持った一度だけ。 「じゃあ去年の誕生日とクリスマスプレゼントの分も入ってるってことで。今年のは今度一緒に選ぼう」 「俺も何か山田くんにあげたい」  最終的に拗ねてしまった来夏に山田は、いらないよと笑うがそれも来夏のヘソを曲げる原因になってしまった。  でもでもだって、などと言い出しそうな来夏のうじうじとした態度に山田は吹き出す。  笑ってから、大きな深呼吸をする。何度か瞬きを繰り返す。何かに躊躇って、あー、と意味もなく一言発して引っ込める。  なかなか先に進まない場面を自分が作っているくせに、わずかに苛立ち始めたのも山田だった。  エアコンの風が、室内の湿り気をすっかり奪っていく。カサついた空気のなかで、山田はゆっくりと口を開いた。 「うちの職場にいるんだよね、その、パートナーシップの」が、山田がそれを言い出すまでに数秒かかった。  その一言に来夏の手が止まる。眉が寄って、視線が彷徨いて、それからやっと山田の方を上目遣いで見た。  頬杖の山田は、手持ち無沙汰だとでもいうように、ただ付けられていただけのテレビのリモコンを右手に握ッタ。 「今五十代かな。臨職さんだけど生活課の窓口にずっといる。俺が働き始めた時にはもういたんだよね。同じ部署になったことないから名前と顔くらいしか知らないけど。でも、本当に普通の人なんだ。俺、勝手に子供のいる主婦だと思っててさ」 「主婦じゃん。主婦でしょ。子供いなくたって、男女のパートナーじゃなくたって」  山田は、来夏の言うもっともなセリフに「まあそれはそうなんだけどさ」と、笑いを混ぜた。そうして、後ろに手をついて足を伸ばす。 身体を腕に預け天井を眺めて、少し考えるようにぼんやりと首を傾げる。 「何年か前に噂で聞いただけなんだけど二十代から一緒に住んでたって話でさ。今じゃ話題にも出ないけど。皆忘れてんじゃないかな。でも俺はその話を聞いてからなんか不思議な感じがずっとある。なんていうか、生々しいっていうか」 「生々しい?」 「もしもとか、そういうものじゃなくてさ。何十年も普通に生活を積み上げてきたのかって」  来夏は聞きながら、ノートの端をじっと見つめていた。ノートの1ページ目にはギターのコードのメモがあった。同じページに走り書きで、洗剤、と記されていて先程山田は笑ったばかりだ。 いつ書いたものか来夏自身も覚えていないと笑っていた。 「その人、幸せそう?」  いじり過ぎたノートの角は、バラバラにささくれ立たってしまっていた。来夏の視線が上がらない様子に山田は僅かに苦笑いを見せる。 「職場の人が幸せかどうかなんて見てるだけじゃわかんないよ」 山田の淡白にも聞こえるセリフに「だよね」と同じように眉を困った形に下げて結局は同じように曖昧な表情を見せる。 「でも少なくともその人の生活の中には、一緒の戸籍に並ばない誰かが隣にいるんだなって、なんか思ってさ」 来夏の視線は、ノートの隅から離れなかった。 「来夏?」 「ああ、いや、戸籍とか。ちょっと考えた事なくて。正直」 「職業病かな。毎日住民票見てるから」  ははは、と山田は自嘲のように笑うと「実際パートナーシップってまだまだ足りない事多いんだよね。きっと彼女達もいろいろ調べたんだろうなぁって。なんか想像しちゃってさ。よく知りもしないのにね」と気を取り直すように身体を起こし、スマホの決済画面を開いた。 「スマホ代は別々にしないとダメだ。俺結構スマホ決済常習犯だから」  山田は独り言に笑いを重ねる。 下を向いて黙ったままで、笑ってくれない来夏を見て、バツが悪そうに声をかけようと口を開いたが「俺、別に山田くんと親子になりたい訳じゃないよ」と言った来夏の声で唇を結んだ。  山田は何度か頷いて、再度瞬きをして、やはりもう一度頷いた。  微笑んで、わかってる、と一言伝えるだけの事が精一杯だというように。 ◆◆◆  山田は敷かれた布団の上に仰向けになり文庫本を開いていた。  来夏は山田の腹に足を乗せて、ベッドの縁へと背を預けながら、ついさっきまで恐縮しまくっていたというのに、タブレットの設定を早々に終えスイスイとスワイプを続けている。 そんな中、来夏の「あ」と言う呟きが山田を物語から現実へ引き戻す。 「誕生日お弁当箱欲しい。二人分」 急な誕生日プレゼントのお願いに、山田は上半身を起こし、来夏は山田の腹から足を下ろした。 「お弁当作る」 山田は、どれどれ、とディスプレイを覗き込むと、何かに気付いてブハハと笑い出す。 「初めての検索が、お弁当箱、おしゃれ、って。なんか曲とか作るのに良いのかなって思ってたのに」と、贈り物の扱われ方を笑った。 来夏は、んふふ、とつられ笑いをすると「覚える覚える。これからこれから」と言ってスクロールを続けた。  これからここに根を張って生きてく準備とでもいうように。

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