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『不審電話』
「ちょっと、ごめん」
山田の声が普段ないほどに低かった。
焼肉定食という聞こえだけは良い夕食の空気がキンと冷えた。厚みのある牛肉を焼いただけの定食だが、二人は国産牛国産牛と言って喜んでいた矢先の出来事だった。
山田の手元に置いてあったスマホがブーブーと唸り着信を知らせ、その画面を見た山田の目つきは、来夏も黙ってしまうほどの冷たさがあった。
「え、うん」
雰囲気に怯む来夏である。
山田は、口に入れたばかりの牛肉を無理矢理飲み込むと、一つ謝罪の言葉を落とし、部屋を出て行った。
バタン、といつもより大きな音を立て、玄関のドアがついに閉められる。
「え?」
一人残されて箸を浮かせたままの来夏である。
久しぶりに二人で囲んだ食卓だったのに。
来夏の頭上に、ぽつねん、という文字が虚しく浮かんでいる。
見たことある人いると思ったら来夏だった、と国産牛を焼きながら笑ったのは山田だった。
閉店間際のスーパー、精肉コーナーの前で会ったのは本当の本当に偶然だったようだ。アパートの目の前にあるスーパーで少し良い肉が半額だったらしい。うきうきしながら二人並んで帰って来たのだろう。
和やかに続いていたそんな空気をぶち壊す一本の電話。
取り残された来夏は、ううん、とか、あれ、とか言って、山田が座っていたクッションの位置を直してみたり、玄関先を気にしてみたり、なんとなくスマホを弄ってみたりと落ち着かない。まったくもって挙動が不審である。
「ごめんごめん」
しばらくして戻った山田は、何事もなかったように再び箸を手にした。
来夏は目を逸らしたまま「あ、いや」と首を振り「全然。逆にごめん」と首を掻く。いつも通りにしているつもりかもしれないが、山田が纏う空気はどこか刺々しさがあった。
「何に謝ってんの?」
そう言って可笑しそうに笑ってはいるが捻くれた口はやはり少し投げやりだ。
「いや、その、俺、いて」と、しどろもどろになる来夏の視線は斜め下を向いたまま、低空飛行で彷徨いていた。
「来夏の家でしょ?」
「まぁ、それはそうなんだけどさ」
山田のため息に、来夏は意を決したように口を結ぶ。左手の指先を元気よく天井に向けてピンと上げた。
「あのっ。はいっ」
「はい。八月一日さん」
来夏の急な大声と挙手にも冷めた態度の山田は、どうぞ、と手のひらを見せ続きを促す。山田の視線は伏し目のままテーブルの上に注がれているが、机上の国産牛を見ている訳ではなさそうだ。
「お電話の相手、どちら様でしょうか……」
元気がよろしかったのは初めだけで、その後威勢は尻すぼみに消えていった。
山田のため息は、来夏の無駄な気遣いへの呆れだったのかもしれない。
それはシンプルに感じが悪いだろと突っ込みを入れたい。普通に態度が悪い。また一つ、山田の知らぬ部分を見てしまった。
山田自身も己の態度の至らなさに気付いたのだろうか。自分を落ち着かせるように深呼吸を一つ。
「正直に言って欲しい?それともふんわり嘘ついて欲しい?」と、また少し、小狡い事を言い出す始末。
気を抜くとあっという間に山田の口車に乗せられてしまう事を学習している来夏は「なにそれ」と言い、誤魔化すな、という顔を作った。
「山田くん、ちょっとイライラしてるし」
気を遣ってほしくない反面、そうはっきり言われると山田もバツが悪いのかもしれなかった。
山田は、箸をおいて髪をかき混ぜるように頭を掻いた。胡座の膝に肘を付けて、顔を背け頬杖をつく。
「まぁ、うん。そうだね。もう大丈夫。ごめん」
来夏は、山田自身が調子を戻そうとしてくれている事に安心したのか肩の力が抜けたように、食べよ、と声をかけた。
それから山田が箸を持つまで待って、一番厚い肉を箸先が掴んだ事に安心して「まぁ、正直に言って欲しいかな。やだなって思うかもだけど」と、付け合わせに用意したキャベツの千切りを肉と一緒に頬張った。
山田は開き直ったのか「前の。あー、セフレ?」と、たった今、口に放り込んだ肉を喰みながら疑問系で答える。
「セフレ。ですか」
「そん時は付き合ってるって思ってたよ」
口に入れた肉を飲み込んで、いつものように炭酸を飲むため冷蔵庫の前に屈みこんだ山田に「つかぬことをお聞きしますが、既婚者だった方…?」と来夏が聞く。
「そう」
「ええっと」
なんの用事で、とまでは立ち入ることが出来ない素振りを見せる来夏に気付いた山田は力任せに冷蔵庫の扉を閉めた。コップを二つ手に持ち腰を下ろしながら「久しぶりに会わないかってさ。バカにしすぎでしょ」と怒りを露わに吐き捨てる。
「着信拒否したら?」
来夏が非難めいた表情を見せたのは、電話の相手に対してだろう。
「負けたみたいでやだ。っていうかこっちは連絡先消してたし」
「向こうは消してなかった?」
「そうみたいだね。消せって言ったんだけどね」
「っていうかなんで相手が既婚者ってわかったの?」
コップを手渡されそのまま注がれる炭酸飲料。
来夏は、パチパチと気泡が飛び跳ねるグラスに口を付けて、探るように山田の顔を見た。
湧き上がる怒りや悔しさからか山田の顔がまた顰められる。そこには過去の自分への呆れも混じっているようにも見えた。
「土日は会えないって言うし、一人暮らしって言う割には家にも呼んでくれないしさ。二股かと思ってた時に、そいつの車の中に靴下落ちてるの見つけたんだよね。子供の。問い詰めたら白状した」
山田の、愛想が尽きたと言わんばかりの口ぶり。
その話を聞くにつれ、眉間に深い皺を作った来夏の顔も更に歪められていく。
「それ、よくまた会おうなんて言えるね」
「金貸してとかの方がまだマシだったかも」
山田の箸は、こんな話をしていても全く衰える事を知らなかった。いや、むしろこんな話だからこそ、過去の行き場のない怒りの矛先がすべて肉に向かっているかのような容赦のない勢いになっている。
「ええ?そうかな」
来夏は肉に手を付けられないまま、困惑したように声を漏らした。
「そっちの方がまだ可愛いってこと。どの面下げて会わないかとか言ってんだってなるじゃん。飯だけなんてある訳ないじゃん」
山田は、行儀悪くも咀嚼しながらそう言うとまだ充分に噛み砕いていないだろうに、口の中の牛肉を炭酸で無理やり流し込む。そして米を掻っ込む。
「ああ、まぁ。で、山田くんはなんて返したの?」
「今彼氏いるから無理って言った」
山田から急に投げられたその言葉に、来夏は一瞬動きを止めた。じわじわと赤くなる来夏の耳。けれど、彼氏、という甘い響きに浸るよりも先に、相手の男への警戒心と山田への心配が勝ったようだ。来夏は身を乗り出すようにして山田の顔を覗き込む。
「脅されたりしてない? 職場にバラすとか。結構聞くじゃない。そういうの」
「バラしたいならどうぞ」
山田は冷ややかに鼻で笑うと、テーブルの上のグラスに再び炭酸を注ぐ。1人だけ忙しない食卓だった。来夏の皿の上はやはり一向に減らないままだ。
「こっちは騙されてた訳だし幸いこれまでのメッセージは全部残してる。もし次に会うなら待ち合わせはラブホじゃなくて裁判所」
注いだ炭酸飲料を一気に煽り、一息で捲し立てた過激な発言。そのあまりの剣幕と山田らしい割り切った物言いに来夏の緊張の糸がふっと解けたように笑いを漏らした。
「極端過ぎるって」
「過ぎないよ。あいつが裏切ったのは俺じゃなくて自分の家族だよ。俺は別に良いよ。こんな独身眼鏡。でも、家族は違うでしょ」
山田の眼鏡の奥の瞳は怒りに満ちている。
「山田くんだって、嘘つかれて傷ついたのに」
ころりと転がって来た小さな声の来夏の言葉に、山田は一瞬だけ気まずそうに視線を彷徨わせたが、すぐに頭をガシガシと掻いて、いつもの調子を装うように笑った。
「ま、言いたいこと言ったし。次かけてきたら、マジで警察行く」
そう言って再び箸を持とうとした山田の手を「あのさ」という来夏の声が止めた。
「次、もし電話来たら俺が出ていい?」
「来夏が? なんで」
山田の手が止まる。怪訝そうに眉が上がった。
「彼氏になんか用、って言う」
真っ直ぐに山田の目を捉えた来夏の眼差しは思いがけないほど真剣だった。真剣で、純粋だった。
「ダメ?」
じっと見つめられ、山田は気圧されたようにわずかに上体を引いた。来夏の耳はまだ赤いままだったが、その目に誤魔化しは効かない。
「いや、いいけど」
山田の視線が左右に動いて、数秒遅れて首の後ろに熱が籠ってじわじわと赤くなっていく。
「でももうかかってこないと思うよ?」
照れ隠しのように、山田の指先がグラスをいじる。山田がグラスをゆっくりと回すその度に、透明な液体が揺れた。
「わかんないじゃん」
「まぁ。次かかってきたら、来夏に出て貰おうかな」
そう言って、山田は小さく息を吐いて苦笑いを浮かべた。
「っていうか、山田くんなんて言ったの」
来夏が興味の混ざった声で尋ねると、山田は思い出すのも忌々しいといった風に唇を尖らせ「思った事そのまま言ったよ。今電話かけてるその機械で倫理観って単語調べて読み上げて。って」と目元に皺を寄せ、舌を出したように言った。
「きっつ。山田くん敵に回せないわ」
少し体をのけ反らせて物理的に引いた来夏に、山田は笑う。
「でも来夏はそんな事しないじゃん」
「わかんないよ? 隠してるだけで本当はめちゃくちゃ遊んでるかもしれないし」
試すように、からかうように言ってみたものの、山田は動じない。
元より、来夏はそんな男のふりができる人間じゃない。この部屋にいる全ての物がそれを知っている。それは山田だって例外ではないはずだ。
「めちゃくちゃ遊んでるのを隠してる人は、携帯置きっぱなしにしないんだよ。俺調べ」
山田はテーブルの上にぽつんと置かれた来夏のスマホを指先で小突きそう言って、それから、ふっと面白おかしそうに鼻で笑った。
「ま、遊んでそうな見た目ではあるけどね」
「え、そう⁉︎ そんなチャラそう⁉︎」
思わず声を張り上げ、何故か髪を気にし出した来夏に、山田は「声がデカい」と手で制する。
「チャラいっていうかマジで遊んでる人って案外チャラい見た目してないよ。なんとなく」
「それも山田くん調べ?」
「そうだね。なんとなくね。でも、来夏と初めて会った時、紙一重だなって思ったな」
山田の視線が、初対面を思い出すように天井へ向いた。
「ええ、俺初めて会った時なんか変だった?」
「黒いパーカー着てキャップ被って、リュック背負って待ち合わせに自転車で来たの」
「うん。ご飯だけだと思ってたし」
「なんか、上手く言えないけどいいなって思ったんだよ」
山田は呟くように言って、手元のグラスを再び軽く揺らした。残った炭酸の泡が弾ける。
「だから逆に危ないなって」
「なにそれ。危ないって」
「いや」と、ついこの間の昔話を笑う山田。
「そういう事あったばっかりだったから騙されないぞ、みたいな。警戒はしてたかも」
再度首の後ろを掻いたのは照れ隠しだろう。そうしてまた箸を持つ。肉を一切れ、口に入れた。
「なんかねえ、俺すごい覚えてる。誕生日だったからさ」
来夏はそう言って、やっと一切れの肉を口に放る。
「そうだったよね。それさぁ、先に言って欲しかったよ」
「別に。俺も普通に仕事だったし」
「言ってくれたらもっと良い店行ってたって」
「普段行かない店行ったじゃん。それだけで充分」
「誕生日行く? 毎年その店で食べるとか」
「いいねって言いたいところだけど、なんか、潰れる気がする」
来夏が言いずらそうにぽりぽりと人差し指で頬を掻くと、山田は飲み込む肉で盛大に咽せてしまった。
「それは俺の業で?」
「業」
数秒黙って考えて、神妙な眼差しと口ぶりでそう言った山田の言葉を繰り返して、来夏が笑い声を上げた時だった。
「え、嘘でしょ?」
テーブルの上に置かれたスマホが唐突に激しく震え出したのだ。ブーブーと硬いガラスを震わせる音が、仕事の愚痴を笑い混じりで話していた部屋の空気を再び変えていく。
来夏は箸を持ったまま息を呑んで液晶を覗き込んだ。
「来た。しかも非通知」
山田の声が心なしか低くなる。来夏はごくりと唾を飲み、覚悟を決めたように身を乗り出した。
「出てみる?」
「うん」
来夏は差し出されたスマホを恐る恐る受け取り通話ボタンをスライドさせ耳に当てる。山田は固唾を飲んで来夏の表情を見つめていた。
「はい」
来夏は咳払いをすると、睨みを効かせるような鋭い目元を作る。ドスの効いた低い声を意識したのがわかる第一声。
これが来夏の中の悪い男のイメージなのかもしれない。だとしたら随分と薄っぺらい脳内である。
数秒間が空いて、来夏の気負った肩がみるみるうちに丸くなっていった。眉間の皺が消え途端に困惑し恐縮した顔に変わる。
怪訝な顔になったのは山田の方だ。
「あっ、いえ、加藤じゃないです。山田の携帯です。あ、はい。すみません」
相手には見えないというのに上半身を折り会釈をして通話を切る。来夏は液晶を消し、見えない汗を飛ばしてスマホをテーブルに戻した。
「え?」
山田が拍子抜けしたように首を傾げる。
「間違い電話」
「本当に間違い? こんな時間だよ?」
「うん。年配の女の人、おばさんっぽかった」
二人の間に、数秒の奇妙な沈黙が流れた。それから、どちらからともなく、せき止めていたものが溢れ出すように笑いが込み上げてくる。
「ウケる。着拒だな」
山田は皿に残った最後の肉を口に放り込み、クツクツと喉を鳴らして笑った。それにつられて、来夏の顔にもようやくいつもの緊張感のない笑みが戻る。
「うん。そうしな」
来夏は「はぁ、お腹いっぱい」と腹を摩り行儀悪くもそのまま身体を倒し仰向けになった。
国産牛のほとんどが山田の胃に収められたが、俺の肉をよくも、などという事は微塵も思っていないようなすっきりとした表情だった。
「牛になる」と言って、山田も同じく天井を仰ぐ。
山田の横顔にも、もうさっきまでの刺々しさは残っていない。
「あ、でさぁ、さっきの話なんだけど」と、来夏は新たに始まった生活の出来事をまた話し始めたのだった。
◆◆◆
少し開けた窓から入る風が二人の寝息に混じり合う。
深夜になればまだまだ肌寒いが、そりゃあ寝苦しくもなるだろう。
例の煎餅布団で、くっついて寝ているのだ。
明日の朝になれば二人とも手足がはみ出てぐちゃぐちゃになるのいうのに。
夜も更けた国道から、けたたましいエンジン音が聞こえて、それを追いかけているパトカーのサイレンが聞こえた。
窓から見えるほどに近い国道を走る傍若無人なバイクや車の音が届いたのだ。
その音で目を覚ました山田が「うるさ」と言って窓をきっちりと閉める。
そしてエアコンのスイッチを入れた。
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