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『深緑が嫌いです』
やはり来夏の部屋である。
最近、二人の距離が近い。
心の距離とかそういう抽象的なものではない。
物理的に身体の距離が近いのだ。
今朝、山田くんのお尻ぷりぷりじゃない?などと薄気味悪い事を言った来夏が山田の尻を軽く揉んでいた。
実に不愉快なのは、山田も嫌がらない事だ。
しかしそれも致しかたない事かもしれない。お互いの認識が、確かな存在として確立したのだろう。
まぁ、そんな事よりも明日の天気の方がこちらには重要である。今更この二人がどうなろうと正直なところどうでもいい。見届けるしか術はないのだから。
そんな二人が今、腹這いでベッドに並び眺めているのは来夏の職場のチラシだった。
なんでも年に数度の大感謝祭が行われるとのことで、肌寒い日に羽織れるものが欲しいねと相なった訳である。
今夜は来夏が早番だった事もあり夕食は久しぶりに外で済ませたようだ。
正社員になった来夏のお祝いも兼ねていたらしいが、食べてきたのは普段から通う近所の中華料理屋だ。
帰ってきた2人は味が濃いけど癖になると言い合い、何故か一緒に風呂に消え、あとは寝るだけとベッドへ横になった後の話だ。
それは山田がチラシを指を差し、この色良いな、と呟いた時だった。
「え、その色ヤダ。白かアイボリーが良い」
瞬時にそう切り捨てたのは勿論この家の家主。
来夏が山田の言う事を理由も聞かず否定するなんていつもならあり得ないことだった。珍しい事もあるもんだとサッシを通り抜け室内に入り込んで来る生暖かい風に乗り様子を伺ってみる。
そう言われた山田は、ええ、と不満気に顔を顰めた。
「そんなの着たら俺すぐ汚すよ。ラーメンの汁飛ばす」
確か先日、山田は来夏に怒られていた。
二人が好んで食べる辛いカップ麺の赤い汁の飛沫が、色の薄い服にポツポツと染みを作っていたのだ。
おそらく山田なりに気をつけてはいるのだろう。選んだパーカーは、濃い緑色。なかなか趣きがあるじゃないか、と途絶えぬ風に任せ頷いてみたのだが、来夏は口をへの字に曲げてまで嫌がり「じゃあ茶色」と妥協案を出す。
そこまで否定する事か、という顔をした山田は肘を着いて頬杖を付き、チラシから視線を外した。
「まあ、何色でも良いんだけどさ。え、なんで?この色似合わない?俺」
「そうじゃないけど」
尻すぼみになる来夏の声に、山田は来夏を覗き込む。先を促すその目線に、白状せざるを得なかったのだろう。
「ランドセルがその色だった」
数秒だんまりを決め込み粘ってみたが、山田の視線に耐えきれず諦めたようにそう言った来夏の下唇が尖った。
完全に拗ねた子供である。
そこまで嫌がるには何か理由があるはずだ。
どれ。ここは一つ、そんな来夏の話を黙って聞くことにしよう。いや、黙って聞かせて欲しい。
稼働率の上がったエアコンの冷風のせいか、最近どうも調子塩梅が良くないのだ。
少し静かにして欲しいところではあるのだが、皆さんも知っての通りこの二人にそれはどだい無理な話なのである。
山田は宝物を見つけたように目を輝かせ「へえ!俺達の時代でちょっと珍しいね。あってもピンクとか。青とか?」と、幼少期を思い出したのか、身体を起こしその場で胡座をかいて笑顔でそう言うと「まぁ確かに名前より先にランドセルの色で覚えたかも」と、顎に手を添え付け加えた。
「それだよ」
山田の昔話は、来夏の指摘で一瞬で終わってしまった。
来夏が文字通り指を差したのは、山田の記憶の中にあるランドセルにだろう。
「その上名前が八月一日来夏だよ?八月一日って何ってなるでしょ。俺が好きでなったわけじゃないのに」
正真正銘の本名ではあるが、来夏にとっては顔を背けてしまうほどの大罪を背負った名のようだ。
そんな来夏とは対照的な山田である。
「え、来夏の名前すっごい羨ましいけど。名前がもう主人公じゃん」
山田の熱弁にも来夏の態度は変わらない。
むしろ、さらに不機嫌が増していく。
「俺は山田がよかった。大輔が良かった。佐々木とか木村とか。こうすけとかけいたとか」
口から出てきたその具体的な名前は一体お前のなんなのだと聞きたいが、おそらく来夏の人生において何度か見かけたことのある、来夏にとっての極々普通の名前なのかもしれない。
むちゃくちゃな言い分を山田は困ったように笑った。
「名前はアレだけどさ。ランドセルは親に言わなかったの?」
来夏は仏頂面のまま、自身が勝手に呪縛にしている話の続きをボソボソと始める。
「だって茨城の爺ちゃん達からのプレゼントだったんだもん。入学式の朝開けてねって。サプライズのつもりだったのかもしれない。母さんも素敵って喜ぶし父さんも渋いねってさ」
「へえ、お洒落なお爺ちゃんだねえ!」
「お洒落かどうかはわかんないけど、俺は嫌だった。派手な柄のジャージもスニーカーも大人みたいな髪型も。中学が厳しくて、やっと皆と一緒になれてとにかくホッとした。母さんはつまんないって言ってたけど」
思春期にしては少々歳が行き過ぎているように思うが、来夏の横顔からは未だにどこか割り切れない気持ちが残っている事がわかる。山田は、寝そべったまま身体を起こす素振りも見せない来夏の髪を撫でた。幼児に優しく触れるように。
「来夏はご両親の事、あんまり好きじゃない?だから帰らないの?」
山田の直接的な質問に、来夏の口は益々尖っていった。
来夏は、撫でられて機嫌を良くして腹を見せる犬のように仰向けになるが、来夏は犬じゃない。その機嫌はまだまだ直りそうもなかった。
「嫌いじゃない」
来夏は、過去を遡るように目を閉じた。
「でも、登山で朝日を見に行くもの楽しかったけど、近所にできたおもちゃ屋にも父さんと並びたかった。母さんの職場の人がくれた流行りのお菓子も美味しかったけど、俺は学校で流行ってる駄菓子を家族で食いたかったんだ」
くだらないけどさ、と薄く笑う口元には自嘲が見える。
「お母さん、美容師さんなんだっけ?」
優しく、慎重に問いかける山田の声が掠れた。
「うん」
「見聞が広そうなイメージだ」
コロコロと笑った山田に、来夏はまた更に不満そうな顔を作る。
「よそはよそも限度がある」
「いいじゃない。うちみたいに都合の良い時だけ使われるより」
夜の静かな会話の中、時折住宅地の静寂を切り裂くような激しいエンジン音が国道から届いた。この季節の風物詩と言っても過言では無い。
彼らもまた、おそらく思春期を拗らせているのかもしれない。あまり煩いようなら警察に連絡してやると青筋を立てる山田を来夏は笑ったのだが、これはいつの話だっただろうか。
「別に否定されてるわけじゃないんだ。音楽もやるならこっちの方がチャンスがあるじゃんって。チャンスがなきゃやっちゃダメなのかよって」
来夏の瞬きが、ゆっくりと繰り返される。
「お母さんもそんなつもりで言った訳じゃないってわかってるでしょ?」
しかし来夏はそれ以上の追及を拒むようにふいと顔を背けたまま「だから深緑は嫌い。アイボリーにして」と、ぷくりと頬を膨らませ、そう溢したのだった。
そんな横暴な、と目を細めた山田の顔はやはりひどく穏やかだ。
「皆と同じが良かったんだ。うちの小学校、サッカーが強くて仲が良い子は皆サッカークラブに入っててさ。クラブに入りたいって言ったら皆と同じなんてつまんないじゃんって。俺がもっと粘れば入れてくれたとは思うけど、多分母さん達は本気で思ってる。良い悪いじゃなくてね。でも俺、昔は中身が皆と同じじゃないって気持ちが強かったからせめて周りと同じ事をして安心したかったんだ」
堰を切ったように出てくる来夏の過去で、部屋の床が埋まる。
賑やかな街並み、そんな風景の中、社交的な大人達の後ろに隠れる引っ込み思案な少年を思い浮かべてみる。おそらく山田も同じような想像をしているに違いない。頭を撫でる変わらぬ優しい手つきが、その証拠のように思えた。
来夏はいつの間にか、山田の膝に頭を預けていた。
「その頃には男が好きだって自分で気付いてたから」
山田は、そう、と呟き、それ以上は聞かなかった。
「うちには多分なんでもあった。なんでもあったけど、俺には何にもないと一緒だったの」
数秒黙っていた山田だが、自分の膝を枕に丸まってしまった来夏の後頭部をぺちんと叩く。
「贅沢者め」
ふふふ、と来夏は笑ってから今一度瞬きをすると「わかってる」と言って、山田の腰に腕を回した。
そうして数秒そうしたままで、これから多分めっちゃ忙しい、と泣き真似をして、山田の腹にぐりぐりと顔を押し付けてやはり犬のように甘えるのだった。
◆
夜半過ぎの二人の会話は、秘密を打ち明ける時のように小さかった。
「来夏のお母さんは知ってるの?」
「多分。言ってはないけど。山田くんは?」
「俺も言ってはないよ。でも気づかれてるかもしれない。なんとなくね」
来夏の返事は、こちらまで届かなかった。
二人はあのまま、同じベッドで夜を過ごした。
狭い狭いと言い合いながらも、その声には甘やかさが混じっていた。
カーテンの隙間から切り取られたようにはっきりとした三日月が覗いている。
東京から見る月も、同じように欠けているのかと、そう考える。
◆◆◆
『はいはいはい。おはよ。どした?』
朝の空気の中にこの部屋には珍しく女の声がした。
「ごめん朝に」
スマホをテーブルに置いたまま、来夏は口を開く。山田の出勤を見送った後の話だ。
夏が近づいている。
来夏は半袖のシャツを着て、第一ボタンを開けるか閉めるか何度か試して数秒迷い、結局別のシャツを着た。伸びた髪をくるくると後ろにまとめ、サイドに垂れた前髪を気にして鏡を覗く。
「あのさあ、お金送るからこの間の店のお菓子また送ってくんない?」
『お金いいよ。何、珍しい。美味しかった?』
声の主は、来夏の母親だ。
一人の時、定期的に連絡を取っている事を知っている。特に重要な話をするわけではない。
母親の話す事を聞き流したような相槌を打って、忙しいからと通話を終わらせるのが常だ。
「いや、山田くんの家ですっごい喜んでたって聞いたから」
確か先月あたりに、母親から届いた焼き菓子を山田の家へ持って帰らせていた事があった。
いらないよ、と言う山田に、残しても勿体無いから、と半ば強引におしつけたのだが、半分は本心だろう。
一つ摘んだだけの菓子箱を、職場に差し入れに持って行っているのも何度か見た事がある。
『やだちょっと!そうするならそうするって言ってよ!もっとちゃんとしたの送るから!』
端末が震えるほど大きく高い声を出されて、まるで母親が隣にいるかのように来夏は顔を顰めた。
「良いんだって。あんまりかしこまったりしたら変でしょ」
『え、山田くんは?今一緒なの?』
「仕事」
『なんだ』
「っていうかあんたは元気そうだけど、皆元気?父さんは?」
『元気元気。今屋久島行ってる。お父さんも挨拶に行かなきゃって』
「余計な事言わないでってば。友達なんだから。もう切るよ。俺も仕事」
『あ、私もやばい。今日新しい店の下見あるんだった。じゃあね。ちゃんと食べなさいよ。仕事も真面目にね。あんたちょっと昔から斜に構えてるとこあるから。山田くんと仲良くね。そのうち挨拶させて頂戴よ』
「はいはいはいはい。じゃあね」と、言い終わらないうちに来夏は通話終了のため画面をタップする。
はぁあ、と、独り言と一緒に大息を吐いて、セットした髪が崩れないよう指先でぽりぽりと頭皮を掻き、黒いナップサックを肩にかけ来夏は玄関を出たのだった。
来夏の車のエンジンが、徐々に遠くなって行く。
そして訪れるのは、窓から入る陽の光が身体を焦がす静かな時間だ。
今朝、思い出したように注がれた水分が足元を泥濘にしていたが、一日中稼働している人工の風が表面だけを乾かしていく。
締め切った部屋はどうしても空気が薄くなる。
わずかな酸素をため息のように吐き出すくらいで、こちらは抵抗しようとも何もできないのだから仕方がないと、項垂れるように湿気った空気に身を任せた。
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