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『麒麟のぬいぐるみ』
「何これ」
山田のオフィスリュックのジップに可愛らしいキーホルダーがぶら下がっていた。
目ざとく見つけた来夏の目が細められる。
じっとり、という言葉が実にそぐわしいその目つきに山田が気付いているのかはわからない。
「コンビニのくじ。職場の人から」
気温は着々と上がって来ている。
今朝のニュースでは関東で酷暑日になるという予報が流れていた。流石にそこまでの高温にはならないが、ここ北の地も観測史上初めての気温を連日叩き出していた。
数時間前の事だ。
無人の家に着くなり、山田はリュックを放り呻きながらシャツとスラックスを脱ぎ捨て下着に着ているランニング一枚になると今朝まで来夏が履いていた寝巻き代わりのハーフパンツに足を通した。
独り言にしては大きな声で暑い暑いと終始繰り返し、留守にしている間も湿気対策の為稼働しっぱなしのエアコンを自動のドライ運転から冷房最強に切り替えて、まずは居間のフローリングの床に寝っ転がる。
テーブルを足で避け、床を這って、リュックからスマホを取り出しとりあえずは一休み。
何をそんなに急いで確認する事があるのかと思えば、なんてことはない。ショート動画を死んだ魚の目で眺めるだけである。その合間、エアコンの風が身体に直撃するように空気口を微調整をしたりしながら。
来夏の昼の仕事が、いつもに増して忙しくなってきているのだ。
休みの日ですら人手の無くなる数時間店に足を運んでいる。
今月から正社員として働き始めた来夏は早速その洗礼を受けているのかもしれない。
人手不足といえば山田の職場も同じらしい。先日山田が愚痴っていた事だ。
仕事がないとごちる市民を毎日毎日目の端で見ている山田は、世の中の矛盾を感じると日々ぼやく。そんな山田に来夏はいつも、うちに来てって言ってよ、と流石に隠しきれなくなった蓄積疲労に自らの愚痴を重ねるのがこのところお決まりになってきていた。
最近は、定時退社をモットーとしている山田も帰りが遅い。しばらく続いている残業で、流石に辟易してきているようである。
話を戻そう。今は山田のリュックにぶら下がったキリンのキーホルダーの話だ。
「何番くじとかいうやつ?」
来夏の睨むような目はまだまだ元に戻りそうもなかった。
来夏は今し方帰ってきたばかりだ。
今夜は早目の帰宅ではあるが、朝七時からの勤務で実に十三時間労働である。休憩もあるだろうがほぼ立ちっぱなしな事を考えると、肉体疲労は相当だろう。
床で伸びていた山田につられた来夏も、着ていたワイシャツを脱ぎTシャツとスラックスで床に寝転ぶ。そうしてキーホルダーが目に入ったという訳だ。
「多分ね。本当はぞうさんが欲しかったんだって」
「ふうん」
来夏は疲れを言い訳にしたようにそっぽを向く。
「お菓子の絵のキャラだよね、これ。人気みたいだよ。映画にもなって」
山田は、そんな来夏を気にする事なく話を続けた。
「へええ」
興味があるのか無いのかわからない来夏の返事に「っていうか、そういうの来夏の方が詳しいんじゃない?コラボTシャツとかやってるみたいだし。って、何?」と、その異変にようやく反応を示す山田だった。
「え?別に」
棘が百本くらいは出ていそうな言い方に山田はようやく上半身を起こして胡座をかき来夏の肩に手を置いた。そうして強引に目線を合わせる。
「別にって顔じゃない。はっきり言って欲しいんだけど」
怒っているわけではなさそうだが、来夏の態度に山田の言い方にも微かな針が出た。普段滅多なことでは喧嘩にならない二人だが、流石に今日の暑さと疲れには敵わなかったようだ。
昼間流れた汗がつまらない苛々になっているのだろう。
「若い女から貰ったんじゃないの?ゾウが欲しいっていうのも嘘かもよ。山田くんと話したかっただけとかさ。そういうの、あるじゃん」
下唇を突き出して完全に拗ねた来夏は、面白くなさを隠す事なくやきもちをポイポイと投げる。
それを受け取る山田は、声をあげるばかりだ。
ひとしきり笑って「ある訳ない」と涙を拭く。
訳がわからないほど笑われた来夏が面白くないのは当然の事だろう。
「わかんないじゃんそんなの」と、更に不機嫌を募らせて、駆け足のように足をバタつかせ地団駄まで踏む始末。三十にもなる男が実に見苦しい。無様である。
「これ再雇用のおじさんから買ったんだよ。娘さんがラストワンのぬいぐるみが欲し買ったみたいでさ。可笑しいよね。五回やらされたらしいよ。一回八百円」
涙を拭き拭きしながら笑う山田から種明かしを聞かされた来夏は不機嫌の置き所がわからなくなり脱力すると「ええぇ」と、さらに身体を床と一体化させる。ごろりとうつ伏せてまるで蛙の標本のように。
山田はひとしきり笑うと「姉ちゃんもたまに狂ったみたいにやってる。このくじ」と付け加えた。
今度は、蛙になったままの来夏がフフフと笑う番だった。
漏れた山田のため息は、来夏の機嫌が治ったように見えた安堵からだろう。来夏は山田から聞かされる山田の家族の話が、どうやら何より好きなようだ。特に取り立てて特別な何かを持った家系ではないと山田は言うが、本人から語られるエピソードを来夏はいつも笑いながら聞く。
「ご飯どうする?」
一区切りをつけた山田からの一言で、蛙、もとい来夏はやっと身体を起こし動き始める。台所の買い置きを漁っている様子が音でわかった。
「素麺でも茹でる?」
居間と台所を仕切る開けっぱなしの引き戸から顔だけを覗かせる来夏。
尻に根っこ生えた、と胡座のまま動こうとしない山田に「なんか食べに行く?コンビニでもいいけど」と、来夏はとにかく何かを食べようとあれはこれはと提案するが「今から出るのめんどい」
と、更に身体を伸ばす。
言い出したのは自分のくせに、差し出された案にことごとく難色を示す山田を、来夏はただ笑うだけだ。
来夏は決まらない夕食を一旦保留にするように「山田くんも忙しかった?」と声をかける。
「そうだね。忙しかったかも。疲れた」
山田は再び、疲れた、と呟きベッドへ寄りかかった。天井を仰ぎ、腕で目隠しをしてしばらくそうしていた。
来夏は、ベッドに腰掛けて足の間に山田をすっぽりと収める。上から覗き込むと、緩くオールバックにしていた髪が垂れ、二人のその横顔を覆い隠した。
「なんか頼もうか。俺もさすがに疲れた」
来夏は囁きを落として、まるでペットをあやすような手つきで山田の髪を撫でた。
しばらく無言で好きにさせていた山田が口を開く。
「昔、何歳の誕生日か忘れたんだけどキリンのでっかいぬいぐるみが欲しくてさ、父さんにお願いしたんだよね」
囁くような声だった。
来夏の髪で口元が見え隠れしていた。少しだけ笑っているようにも見えたし、歪んでいるようにも見えた。
「ライオンとかじゃないんだ」
ふふふ、と来夏は小さく笑うと山田も同じ分だけ笑い声を上げる。
「キリン、良くない?自分関係ないんでみたいな顔してて」
「そう言われれば」
来夏はやはり静かに笑い、うんうん、と頷いて相槌を打つ。
「父さんとレジに並んでる最中、特撮ヒーローのベルトじゃなくていいのかって何回も聞かれてさ。サッカーボールとか、自転車とか。後からあれがよかったって言われるのが嫌だったのかなって思ったりもしたんだけど、そういう物を欲しがる子が良かったのかなって。そういう、なんていうか男の子らしい物を欲しがる子がさ。なんとなくね。最近そう思う」
山田の昔話が言葉を吟味しながら話しているような速度で進んでいく。
「なんか思い出してさ」
来夏は、物語の先を促すように背後から腕を回す。山田は、安心し切ったように体重を預けた。
「父さんが誘ってくれたキャッチボール、なんで断っちゃったんだろうとか。婆ちゃんの病院もっと行っておけばよかったなとか。なんでかな。最近よく思うんだよね」
山田は瞼を覆っていたようやく腕を解く。黒髪のカーテンの奥で、二人の目が合ったようだった。
「爺ちゃんが死んだ時さ、皆、良かった良かったって言いながら泣いたんだ。俺は中学生だった。今ならわかる。ほんとに苦しまなくて良かった。朝、起きてこなくて。本人はまだまだ死ぬつもりじゃなかったと思うけどさ。なんかそういう事すごい思い出す。年取った証拠かな」
山田は、排膿し切ったような、どこかすっきりした眼差しで来夏を見ている。下を向いていたままの来夏の表情は、やはり髪に隠れて山田の目にしか触れられない。
山田は、自分を隠してくれるカーテンの毛先を一束だけ指に巻き付けて、それからそっと、指先を離した。
「もし来夏がこれから、将来ね。やっぱり子供が欲しいとか、やっぱり東京に帰りたいってなったときは、来夏が後悔しないようにして欲しいんだ」
来夏は黙る。何度か瞬きをしたかもしれない。どう返事をしようかと考えあぐねいているようには、何故だろう、あまり見えないが。
「どうしてそういう事言うの」
「もしって言ったよ」
山田の両の頬を掌が包む。目を逸らすなと言うように。その距離の無さは唇が触れてしまうほどだ。
「山田くんは俺のこと少し見くびり過ぎだよ。俺はめちゃくちゃ嫉妬深いよ。そこらの女の子より女々しい。自分でも思う。まじで依存するから。逃げるなら今しかないよ?」
声のボリュームを上げそう言う来夏。
「だから長続きしなかったの?」
「腹立つ」
来夏は、山田の憎まれ口に優しく包んでいたはずの頬を指でつまんだ。
「痛タタタ」
言葉だけでは足りない気持ちの代わりだというように、来夏はその頬を引っ張って放した。
思いの外、指先の力は強かったようだ。
つままれた頬が赤くなっている。山田は本気で痛がる。痛がりながら、山田は来夏の太ももにやはり頭を預けると、片側の頬を摩りながら「そっくりそのままバットで撃ち返すからキャッチしてくれる?」と笑った。
「山田くん野球できんの?」
「できない」
「じゃあ打ち返せないじゃん」
「まぁ、確かに」と、二人の間抜けな会話で昔話は幕を閉じたのだった。
結局二人の夕飯はデリバリーになった。
ただの作業のように牛丼を口へ運び、重たくなってしまった身体で無理矢理シャワーを浴びる。
煎餅布団のシーツはどうしても面倒くささが勝ってしまったようで、あちこちに皺がついてヨレヨレのままだった。
狭い布団に、ぎゅうぎゅうになった二人を見下ろす。
本当に疲れていたのだろう。横になって数分でどちらからともなく眠りに落ちたようだ。
疲れといえば、このところどうにも身体が重い。干からびているというのにだ。
少しは楽になるかと考え、水分が抜け切って変色してしまった身体の一部をはらりと足元に落とした。
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