12 / 16
三 『見晴台団地 五丁目 十五-八』
「ちょっと母さん。玄関の芳香剤トイレ用のやつだけど」
あとはチンするだけ、と小躍りしながらリビングへ入って来た由美子さんがソファに沈んでいるところで玄関が開いて、メグちゃんが帰って来たのかと思いきや、聞こえて来たのは大ちゃんの声でした。
「間違えて買っちゃったの」
由美子さんはソファに横になったまま大ちゃんの指摘を受け流し、テレビのチャンネルをパチパチと変え、お目当ての番組まで時間を潰しています。
「なんか匂いの成分とか違うんじゃないの?」
「お父さんの靴の匂い消してくれるならなんでも良いわ」
さして興味もなさそうに会話を切り上げ最後に一言。
「ああいうの無駄にオシャレにしないで欲しいんだけど」
「俺に言われても」
冷静に反論した大ちゃんは、飯ある?と言って手に持った紙袋を台所のテーブルに置きました。
「あ、そういえばおかえり」と、由美子さんは言ったのでした。
◆
「ああ。これダメだよ。オシャレだけど」
それは硝子で作られた、お洒落な金魚鉢のような球体の器でした。
土の表面は乾燥しているものの、その中は泥濘になっているのが一目でわかるほど。そこに追い討ちのように差し込まれた空アンプル。
「え、そうなんだ」
由美子さんは硝子鉢を下から覗き、一度食卓テーブルに器を置くと、窓辺に並ぶ大きな鉢植えの元に新聞紙を広げました。
ちょうど小生の足元、息吹のない細い枝だけが伸びた鉢が置かれました。
「これもダメ」
由美子さんは眉を寄せてアンプルを引き抜きます。大ちゃんも付き合うように小枝を覗いていました。
「水よりいいのかなって」
口を尖らせた大ちゃんはそこに胡座をかき膝に肘をついて頬杖を付きました。枯れ腐った枝をうりうりと人差し指で弄る大ちゃん。
「逆によくもってたよ」
由美子さんはどこからか軍手を取り出して、ビニール袋を広げると、その鉢を真っ逆さまにして袋の中へ豪快に投入します。
「え、もうダメってこと?」
「違う。鉢変えるだけ。っていうか自分でやんなさいよ」
「いや、母さん達の方が確かでしょ」
身体を丸めて二人並びボソボソと話す二人の背後に、ただいまと言う声。
「何やってんの」と怪訝な顔をした直ちゃんが二人を頭上から見下ろしました。
「んん?なんか枯らした」
帰宅の挨拶も交わさない二人。成人した息子と父親など、こんなものなのかもしれません。
「水あげ過ぎ。あと栄養剤差しっぱなしさ」
細枝は、由美子さんの分析通りの枯れ方でした。
「あれほんとだ。根腐れ起こしちゃって。切れ切れ」
「切るの?」
「腐ったところ切るのさ。助かるかわかんないよ?」
「こいつ、スーパーの外売りで八十円だったんだよね。最後の一個だった」
大ちゃんは、直ちゃんと由美子さんの背中に向かいぽつりと呟きました。
直ちゃんは何も言わずに台所から鋏を持ち出す と、ぶよぶよと膨張し液状化してしまった枝の足の感触を確かめながら刃を入れました。
そうしているうちにメグちゃんのただいまという声が聞こえました。
「帰ってたんだ。珍しい」
バックを廊下の階段元に放り、疲れた、と言ってストッキングを脱ぎながらリビングへ顔を見せたメグちゃん。大ちゃんの顔を見るなりそう言って形の良い眉を上げました。
脱いだストッキングをくるくると丸めソファに投げるメグちゃんに「洗濯機に入れなさいよ、もう」と由美子さんの怒る声。
メグちゃんは由美子さんの小言を無視して、そのまま冷蔵庫から缶チューハイを取り出すととにかくまずは呑ませてくれとでもいうように口を付け喉を鳴らします。
「そういえばお盆皆どうすんの?」
久々に全員が揃った山田家でした。
大ちゃんもメグちゃんも成人して久しく、盆に予定を合わせる事もなくなってきています。
由美子さんは急に帰ってきた来た大ちゃんの夕食を作る為、いそいそと台所に立ちました。
こちらに背中を向けた由美子さんが皆に聞こえるように問いかけます。
「普通に仕事」
「私も」
そう言ったのは山田家の子供達です。
「私も若い子に譲っちゃった。やっぱり小さい子いるとね」
「え、母さんも仕事?じゃあ僕だけ休みだ」
「墓参りだけだし日曜でもいいしね」
「なんか新しい蕎麦屋できたの知ってる?霊園のところ。寄ってこない?」
「え、ラーメンの方が良い」
台所と居間を往復する会話。久しぶりの賑やかさに家の中がいつもより明るく見えました。
「八月一日君は?忙しいの」
そう聞いたのはメグちゃんでした。
八月一日さんは、何度かこの家に遊びにいらしている大ちゃんのご友人です。
「超繁忙期ってやつ?夏休みで学生のバイトが帰郷したりで人足りないんだって」
すぐに出てきたパスタをズルズルと音を出しながら啜る大ちゃんをこの家では誰も気にしません。
そういう家です。
「昔はそういう時こそ帰んないで働いたもんだけどなぁ」
「そういう事言うのやめなよ。年寄りくさいよ」
そう注意したのは由美子さんでした。
最後の鋏を入れて短くなった枝に、こちらもどこかに置いていた栄養のある土を被せて、助かるかなぁ、と首を傾げながら溢した直ちゃんは軍手を脱ぎ捨て手洗い場に行きました。新聞紙の上には道具が出しっぱなしです。
「あんた片づけなさいよ。持って来たんだから」と大ちゃんに文句を付けて、直ちゃんもやっと食事にありつけたのでした。
雑で、平凡で、たまに冷たい。
何もないのに妙に愛しい、そんな家なのです。
◆
「八月一日くんこっちに来なって言いなさいよ。どうせあんた達忙しいと食べないで寝ちゃうんでしょ」
全員が夕食を終え、由美子さんが背中を向けお皿を洗いながら振り返りもせずにそう言いました。
「俺も言ったんだけど明日朝六時出だから遠慮するって」
だらしなくソファで寛いでいた大ちゃんは、八月一日さんの名前が出るとぴくりと肩を揺らし、背筋を伸ばして座り直しました。
「お店十時からじゃないの?」
そんな変化を悟られまいとしているのか、由美子さんの素朴な疑問に「それ俺も言った。でも開店準備がやばいらしいよ」と笑いを混ぜる大ちゃん。
「そうなんだ」
大変だね、と由美子さんはやはり背を向けたままでした。
「お前、こんなにでかかったっけ?」
大ちゃんは誤魔化すそう言って腰を上げると、天井に着いてしまいそうなほど伸びてしまった小生の頭を見上げました。
年がら年中家の中にいるというのにここまで見事な身体になったのは、やはり直ちゃんと由美子さんの献身さがあればこそでした。
足元に置かれた痩せ細った身体が、決してお洒落ではないけれど、空気穴のある鉢に植え替えられました。ここに来ればもう大丈夫よ、というように身にあたる冷房の風に任せて一番高くに開いた葉を揺らしました。
小生が、母の一部から離れ直ちゃんと由美子さんの元へ来てからどれくらいの年月が経つでしょうか。
居間の大窓の手前に母と共に並べられた小生。
隣の母もどことなく嬉しそうでした。
以前に比べてずいぶんと、その葉の数は少なくなったように思いますが。
ともだちにシェアしよう!

