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第44話

あの弦くんの「結婚報告騒動」から、わずか1ヶ月後。  洸くんの行動力は、俺の想像を遥かに超えていた。 「ほんまに俺の家の近所に決めるとは思わんかった……」  駅から徒歩数分、俺のマンションからも歩いてすぐの築浅ワンルーム。  段ボールがいくつか積まれただけのまだガランとした新居で、俺は新しく新調されたばかりのローソファに腰掛け、一息ついていた。  お兄さん譲りの有言実行というか、なんというか。物件探しの内見からすべて付き合わされ、今日はいよいよ引っ越し当日。ひと通りの荷解きを手伝い終えたところだった。 「やって、急に1人は寂しいやん? だから、1番大好きな人の側が良かってん」  恥ずかしげもなく、爽やかにそんな言葉を口にする。  俺が洸くんの幼稚園の先生だった頃は「おとうが一番好き」と言っていたのに。元宮さんがこれを聞いたら、本当に悲しみそうだな。なんだかんだ言っても、洸くんは元宮家のお姫様だったから。  キッチンから冷たい麦茶を持ってきてくれた洸くんは、実家にいる時よりもどこか誇らしげで、生き生きとして見える。 「はい、あらたせんせ。……あと、これ」 「ん? 麦茶ありがと……って、え?」  差し出されたコップの横、洸くんの大きな手のひらには、作られたばかりの鍵が乗せられていた。 「これ、俺の部屋の合鍵。あらたせんせの分」 「……流石に早すぎん? 10年も離れてたのに俺の事そんな信用してもええの?」  しかも、血も繋がっていないし、恋人でも無い。流石に不用心すぎるだろう。 「えー……この10年の間、どんな悪い事してきたん?」  少し眉間に皺を寄せて、からかうように俺を覗き込んでくる。それもぴったり隙間なく座っているから、急な緊張感に戸惑ってしまう。 「……悪いって言うか、俺も1人の人間やから」  良い人に見えていた人が、実は悪いことをしていたなんて、この世にはごまんといるだろう。俺だって、いつも正しいと思い込んでいるだけで、誰かに対して酷いことをしてしまっているかも知れない。  そんな俺の心を察したのか、洸くんは覗き込んでいた顔を少し真面目なものに変え、静かに問いかけてきた。 「……あらたせんせって、付き合ってる人おった?」  急な質問に、少し動揺する。家族から聞かれるこういうことは、なんだか気恥ずかしくて知られたくない、という気持ちもあった。 「……まぁもうええ歳やからな。それなりに」 「そっか、それって俺達と家族になってからも?」  ……これは答えにくいな。答え方によっては俺への信頼度が確実になくなる可能性がある。 「……いや、家族になる前と、東京に出てから……ちょっと、かな」  洸くんにつく、初めての嘘。  この嘘の意味は、自分でもよくわかっている。もう終わってしまったことだから、俺にとっては今更気にするようなことじゃない。だから出来るだけ、今の洸くんを傷つけるようなことはしたくない。そう思って、とっさについた嘘だった。 「……結婚しようとか思わんかったん?」  良かった、俺の動揺は見破られなかった。  それでも、その質問の意図が「好きな人のすべてを知りたい」という純粋な欲求からなのは分かっている。だけど、世の中には知らない方が幸せなことだってあるのだ。 「そうやなぁ。……思わんかった。だって、俺にはもう、家族がいたし。……いつか、戻れたらなっては思ってたから」  本当は、戻る気なんてなかった。昔の馴染みとして、たまに特別な日に呼ばれて顔を出せたらそれでいい。そんな都合のいい、簡単な関係に戻れたらいいと心底では思っていた。  普通に結婚して、子供が産まれて、その成長を見守って……そうやって、自分の中の長かった元宮さんへの恋もいつか笑い話にできればいい、そう思っていたはずなのに。 「……でも、俺が会いたいって言わな、あらたせんせ会ってくれへんかったやろ? 戻れたらって思ってる人が、ほぼ音信不通って、そんな事ある?」  洸くんの言葉が痛い。俺がその場を取り繕うような嘘をついたのを、見抜いて、傷ついたんやろうか。  「……ごめん。ほんまは結婚まで本気で考えてた人がいた。やから、その間はその人の事だけを考えてた。……でもいざって時に、どうしても考えてしまうねん。俺が結婚したら、もうあの家族には戻れへんなって。……みんなの知らんところで別の家庭を作って、それをもし知ったら、きっと……ほんまのお母さんがいなくなった時みたいに、洸くんが泣くんやろなって」  俺の情けない言い訳じみた言い草に、流石の洸くんも呆れただろうか。いつでも優しくて、いざとなったら頼れる、そんな新先生を演じてきたのに。 「……でも、洸くんの事を言い訳に、俺は逃げたんかも知れん。1人の人生を背負う勇気がなかった。10年前、洸くんの前から逃げたみたいに」  洸くんは俺の話を、真剣に聞いてくれている。  最初から嘘なんてつかなくてもよかったんや。家族のことなんてすべてお見通しで、すべて受け入れてくれる。元宮家は全員、そういう人たちだった。 「……俺はあらたせんせの事知れたら嬉しい。嬉しかった事も、辛かった事も悲しかった事も。やからこれからも、俺の知らんあらたせんせの事、いっぱい教えてくれたら嬉しい」  そう笑いながら、そっと俺の首に手を回してくる。そのどこまでも包み込んでくれる洸くんの本音が、俺の心にグッとくる。家族の延長線上に急に分かれ道が出来たって、それはそれでいいのかもしれない。 「……俺、帰ってきてよかった」 「……それって、今の俺に会えたからって事?」 「……うん、そう」  少し洸くんの肩に顔を埋めてそう呟くと、 「俺の事、家族以上に好きになった?」  なんて、今度は可愛らしく聞いてくる。 「……なんか、好きにさせるの上手いなぁとは思ってる」  ふふっと少し照れながら、遠回しに認める言葉を吐き出してみたけれど、洸くんはそれに気づいてくれただろうか。 「純粋に思ってる事いうただけやのにぃ」  と、洸くんも、ふざけながらも照れて笑っている。でもなんだか、この空気も悪くない。 「で、どうする? この合鍵。俺が握りしめすぎてあっつあつになってるけど?」  急に男らしいトーンでふざけながら、洸くんが俺を試くる。  ……でも、冷静に考えて、血の繋がった家族でも恋人でもない俺が、当たり前に、いつでも家に入れてしまう合鍵を持っているのって世間一般的におかしくないんだろうか。 「会社でな、女の子に家に遊びに来たいって言われてるねん。あらたせんせが持っててくれたら、言い訳できるねんけどなぁ……」  なんて、最終手段として、現実的にあり得る言葉で俺を誘惑してきた。  胸の奥が、ほんの少しだけツンと疼く。わかっていた。カッコいい洸くんのことだから、そんなこと当たり前にあるということくらい。 「……俺が持ってたらいつ入って来られるかわからんもんな。……それは相手を傷つけへん、いい言い訳やとは思う」 少し嫉妬したなんて、そんな恥ずかしい事を絶対に悟られない様に、控えめに手を出して、鍵をそこに載せるように促す。  結局こうやって、俺は洸くんに少しづつオトされていく。  それが、思っていたよりも心地いい。誰かに必要とされて、俺も、その人をじわじわと染み入る様に必要としていく。こんな心地のいい関係なんて、存在するんやな。 「………正直に自分の事、俺にだけ話してくれたあらたせんせのこと、俺は信用してる。それに、それだけ特別ってこと」  ふふっと照れくさそうに笑う洸くんを見て、俺もその言葉の重みを噛み締めるように頷いた。  まだ恋人同士になったわけじゃない。だけど、この部屋の鍵を受け取ってしまった時点で、俺はもう、洸くんの手の中に完全に引き込まれてしまっているのだった。

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