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第8話 カンガルーの金玉

「これやるよ」  朝、冷蔵庫の扉を開け、朝飯がないことに絶望していると、南斗がコンビニ袋を差し出してきた。中にはおにぎりがふたつ。俺の好きな、おかかとツナマヨのラベルが見える。 「えっ、なになにどうしたの南斗。怖いんだけど」 「は? お前失礼すぎん? 分かったもうやらんわ」 「ごめんごめん、いただきますよありがとう」  早口で言いながら南斗から袋をひったくり、テーブルについた。 「そんでこのおにぎりひとつ千円とか言わないよね?」  南斗に訊ねながらも食欲には勝てず、おにぎりのフィルムを剥がした瞬間、のりの香ばしい香りが漂う。コンビニのおにぎりって、この瞬間が一番楽しい。 「そんなちっせえこと言うかよ。それはあれだ。こないだ来てくれたから」 「ああ、いいのに別に」  と言いながらももう三分の一くらい食べてしまっているので、今更返すことはできない。というか、南斗が俺の付き添いに感謝していることに少し驚いた。タトゥースタジオの受付で女と間違われ、その上俺を彼氏だとスタッフに勘違いされてブチ切れていたくせに、よっぽど心細かったらしい。そこまでしてタトゥーを入れたい人間の気持ちは分からないけど、今このタイミングでのおにぎりに、善行を積んでよかったと思えた。 「てかさ、透、あれから何か変じゃね? もしかしてお前も針ダメだったとかそういうオチじゃねえよな」 「別に」  やっと具までたどりついた。中からぽろっとこぼれ出た茶色いかたまりを指でつまんで、口へ入れる。向かいに座った南斗が、椅子の上であぐらをかき、じっと見てきた。一緒に住んで三年。最初はこんな風に上目遣いで見つめられるたびに緊張した。今は南斗の性がどっちつかずなことも、生物学的には男だということも知っている。  でも。  何だったんだろう、あの時の心のざわめきは。  うっすらと血の滲んだ南斗の白い肌。針先から繰り出される、なめらかな曲線と細やかな色使い。南斗が雨宮の作品と一生共に生きていく儀式にも似たその過程をただ傍観しているのは、ペットショップで分厚いガラス越しに子猫を眺めるようなもどかしさがあった。当事者になりたいわけではなかった。けれど二人の間で共有される期待や緊張やビジョンは俺の手の届かないところにあって、後半に南斗が痛みを克服してからは、俺は受付で待っていた。 「そんな顔で別にとか言われて、俺が納得すると思ってんのかよ」 「もともとこんな顔だし。ツナマヨうま」  頬杖をついた南斗の指先が、こつこつとテーブルを打つ。細い指だな、と思う。 「透」 「なに」  かじりつくのを一旦やめて返事をしてから、大きくほおばった。のりを切り裂く歯の感触。米粒ひとつひとつの弾力と、ツナマヨのコクを噛み締める。 「お前は人のこと助けようとするばっかで自分のことは置き去りだろ。言えよ」  ダチだろうが、と言った南斗の声には不満がにじんでいる。ごくりと飲み込んだ米のかたまりが思ったよりも大きくて、水で流し込んだ。 「じゃあ、ひとつ聞いていい?」 「ひとつでもふたつでも聞けよ」 「シャワーのときとか、着替えのときとか、タトゥー見るたびに、雨宮さんのこと思い出さない? あの時の痛みとか、消毒液の匂いとか、雨宮さんと話したこととか、思い出さない?」 「え? あー、あんま思い出さねえっつったら薄情ものってことになんのか? まだ一週間しか経ってねえから、見るたび俺くそかっけーなって思うけど……。透、お前の質問の意味が分からん」  そうか。そんなものなのか。彫り師と客のつながりなんて。急に空気が吸いやすくなって、俺はへへ、と力なく笑った。 「もう赤くなくなった?」 「かさぶたはだいたい取れたな。かゆみもだいぶ減った。見せてやるよ」  下着に隠されていたのはくらげだ。きめ細やかな南斗の肌の上で、透き通るような傘を伸び縮みさせている。波に逆らわず、けれど自由に広がる触手が反射する色は、赤にも青にも黄色にも見える。海の深さや豊かさまで感じ取れるような、繊細で鮮やかな彫り物。生きているみたいだ。南斗と一緒に、息をしている、このくらげは。 「やべえだろ、これ」 「うん、やばいね」  感想を的確に表現する語彙力がなくて、結局南斗の言葉を復唱するしかなかった。 「すげえよな、雨宮さん。こんな水彩画みたいな絵も描けるとか。あの人インスタ頑張ってねえから同じスタジオの彫り師よりフォロワー数少なかったけど、ネットじゃ予約は二ヶ月先までできなかった。多分無理やり俺をねじこんでくれたんだろ。もう俺下半身丸出しで外出てえくらい気に入ってんだけど」 「やめといてね。俺警察まで迎えに行くのいやだし。ていうか、何でくらげ?」 「くらげ好きだから。自由だし。あと美味いし」 「おはようございま__! What a ……」  突然背後からジェイクに声をかけられ、二人で振り返った。固まったままのジェイクに、「違う違うっ」と声を張り上げると、全く同じタイミングで南斗も被せてきた。余計にあやしくなってしまったが、なりふり構わずジェイクを引き止める。そうしなければ俺が南斗の股に顔を寄せていた理由が決していかがわしいことではないのだと説明する機会を、永遠に失ってしまうような気がした。  ジェイクの誤解を解くと、コーヒーを飲みながら彼が「実は僕も雨宮さんに彫ってもらうんですよ」と言った。 「ミクたん命って明朝体で背中に彫ってくださいって言ったんですけど、そんなのは日本じゃなくても彫れるでしょって言われて」 「雨宮さん、うまいこと誘導するね」 「俺だったらクソだせえで終わらすけどな」  南斗と顔を見合わせた。 「それでですね、いくつか候補は挙げてもらったんですが、透と南斗も何かいいアイデアがありますか?」 「コアラのマーチ」 「カンガルーの金玉」  南斗と俺が勝手なことを言うので、ジェイクはアハハハと大口を開けて笑い転げた。

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