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第9話 一生消えない傷がほしい

大きな背中の曲線は、さっきからほとんど動かない。すっきりとした首を強調するようないく筋もの黒いライン。耳を縁どる影にも似た細やかなデザイン。毎日見ているのに俺の眼球はちっとも雨宮のタトゥーに慣れず、一度それにとらわれるとなかなか視線をそらすことができない。だから息を殺して、パソコンのキーボードを叩くふりをしながら見つめる。気づかれませんように。  すー、すー、さささ。彼の握る鉛筆の芯が紙に擦り付けられるたびに、ごくわずかな摩擦音が静かな部屋を満たしていく。彼はスケッチブックより液晶タブレットで作業していることが多いが、今日はラッキーだった。タッチペンが画面をこする偽物みたいな音より、アナログの音の方が好きだ。  俺はすっかり雨宮さんの部屋に入り浸るようになってしまった。タトゥーを見せてもらうこともあるし、身体に落書きしてもらうこともあるが、だいたい彼は仕事をしている。今日みたいに彼がデザインを考えているとき、俺は大学の課題にはげむ。彼と時間を共有するとき、必ずしも言葉は必要ではなかった。  ただ、今日は課題があまり進まない。雨宮さんのせいだと思う。だって今日は、黒じゃない服を着ている、あの雨宮さんが。ボルドーとワインレッドの間みたいな大人びた色のカットソーからのぞく骨ばった手首とか、うなじから生えるようにのびるラインがいつもよりいきいき見えて、チラ見が止まらない。  ふいに雨宮の手が止まる。長い指の間を潜り抜けるように鉛筆がくるくると舞う。この人って器用だな、と思った途端に鉛筆が机のはじに転がり、物思いにふけっていた彼と目が合った。「ちょっと休憩」と、雨宮は大きく伸びをする。カットソーの裾が肘まで落ちてきて、白黒の腕がむき出しになる。 「雨宮さん、黒以外も着るんですね」 「あー、今日休みだからね。仕事の時はインクが飛んだりするから黒以外着ないけど」 「服かっこいいです」 「服だけ?」 「えっと……雨宮さんがかっこいいです」  あはは、と穏やかに笑って、「透くんっていい子だよね」と俺の隣に座りこんだ。  どんどん、と上から物でも降ってきそうな音がして間もなく、何語かわからない歌が聴こえ始める。南斗だ。 「にぎやかだよね、この家」  俺と同じように天井を見上げている雨宮がつぶやく。  すっかり当たり前になった他人の気配。いや、他人と呼ぶには近すぎるだろう。足音だけで誰が誰だか分かるのだから。壁一枚隔てたところに人の息遣いを感じて安心してしまうなんて、俺も案外寂しがり屋だ。 「雨宮さんは、人と一緒に暮らすのって疲れたりしませんか?」  言ってから思い出した。そういえばこの人は、ここに来るまでは同棲していたのだ。 「人によるかなあ」  真後ろにあるベッドにもたれかかるように両腕を置き、雨宮は瞳を閉じた。そのまぶたの裏に映っているのは、以前共に暮らしていた相手だろうか。 「俺は? 雨宮さん、俺は大丈夫?」 「え、うん。っていうか透くんがいなきゃここに住んでないよ俺」 「そうだけど、一緒に住んでて嫌なとことかないですか? 毎日部屋に来るのとか、実はうざかったりしませんか?」 「うざくないよ。全然」 「南斗は? ジェイクは?」 「いい子だと思うけど」 「ずっと一緒に住みたいと思いますか」 「えー、それはどうかなあ」  両手で後頭部をささえるようにして、雨宮は宙を見上げる。雨宮さんは大人だ。社会人だ。こんな狭い場所で俺たちなんかと共同生活を続ける必要は、おそらくない。  彼がここを出ていってしまったら、たぶんもう、会えない。 「雨宮さん」 「ん?」  切れ長の目が俺をとらえたのを確認してから、口を開く。 「俺にも彫ってくれませんか」  わずかに目を見開いた雨宮が、「どんなの?」と訊く。 「何でもいい。雨宮さんに全部任せるから、好きなようにしてほしいです」  だめですか? と訊く俺の両手は雨宮さんの腕をきつくつかんでいた。 「いいよ。脱いで」  そう言いながら立ち上がろうとした彼の腕を強く引っ張って、俺は「そうじゃない」と訴える。  そうじゃない。  そうじゃなくて。  いつもみたいに身体に落書きしてほしいんじゃない。 「本物が欲しい。みんなみたいに」 「一生消えないよ」 「だからいいんです」 「うーん、きみの肌はきれいだし、どうしても入れたいデザインとか場所とかがあるわけじゃないなら、お勧めはしないなあ」  まるで政宗にでも話しかけているような優しい口調が、俺の神経を逆撫でする。 「そんなこと南斗には言わなかったじゃん。ジェイクにも言わなかったじゃん」 「それは」  目を、そらされた。  俺はそれに、ひどく傷つく。 「ねえ、何で他の人には彫るのに、俺はだめなの? 俺には似合わない?」 「そんなことないよ」  責める気持ちを止められない。焦りを、止められない。 「じゃあ何で? なんで雨宮さんは俺には落書きしかくれないの? すぐ消えちゃうじゃんこんなの」  自分の襟口に指を引っ掛けて、鎖骨をむき出しにする。ぼやけた落書きを雨宮の視界に入れるために。 「分かった。一緒にゆっくり考え——」 「もうずっと考えてる! 雨宮さんのこと、朝から晩まで考えてるよっ」  自分が何を口走っているのかなんて、これっぽっちも理解していなかった。ただ焦燥にも似たいら立ちが細胞をふつふつと蒸発させていく。今すぐ何とかしなければ、自分が消えてなくなりそうだった。 「透」  雨宮の赤い唇から、俺の名前がこぼれ落ちる。初めて呼び捨てにされて、鼓膜が震える。 「一生消えない傷がほしい?」  夜の雨より深い黒が、俺の視線を吸い込んでいく。いつも物腰のやわらかな雨宮のどこにそんな力があったのだろうと思うほど、有無を言わせない強い力で腕を解かれ、い草の香りがほのかに鼻をくすぐる。知らない間に背中が畳についていて、雨宮の吐息が唇に触れた。 「……ほしいです」  声が震えた。本心を言うことが、こんなに怖いなんて知らなかった。 「俺はずっと、透の身体の一番奥に傷をつけたかったよ」  言葉を終える前に、深く口づけられた。冷静な彼から思い描けないほど情熱的に貪られて、息もできない。溺れてしまう。すがるように目の前の背中に手を回し、ぎゅっと薄い生地を握り込む。めがねがずり上がり、眉間に食い込む。ぱっと離れた唇が「邪魔」と言って俺のめがねを取り上げた。 「ない方がいいって言ったのに」 「ごめ……っ……」  すねたような声で言われてつい出てきた謝罪さえも、雨宮の中に飲み込まれてしまう。流れ込んでくる唾液。肉厚な舌。かちり、とぶつかる前歯の振動にさえ、どうにかなってしまいそうだ。 「裸の目で、見て」  一瞬合わせた視線。黒い宝石のような目が、欲で濡れている。  俺の髪の毛をかき回し、腰のアウトラインを確かめるようになぞり、シャツの内側に潜り込んできた彼の指先が、直接素肌に触れる。 「あ……」  バカみたいに甘い声が出てしまい、唇を噛んだ。 「大丈夫だから、聞かせて」  耳元で囁かれて、その息の熱さにぞくぞくする。南斗が音楽を止めないことを願う、そんな日がくるなんて。  かちゃ、とベルトのバックルをはずす音がしたかと思うと彼の手がするりと下着の中に入ってきた。 「あ、も、だめ……そんないきなりっ」  おかしい。キスだけに勃つなんてありえない。これじゃあ俺ばっか盛ってるみたいじゃん。閉じようとした足は簡単にはばまれてしまう。知らない。聞いてない。雨宮さんの指先が、こんな時だけ熱いなんて。 「あっ、あの、雨宮さん……っ、出ちゃう、かも……」 「おいで」  ベッドに引き上げられるときになって、腰が抜けていることに気づいた。  雨宮は着痩せするタイプだ。節張っていて細く見えるのは首すじや手首だけで、脱ぐと筋肉の隆起と身体中のタトゥーが溶け合って、深い陰影を生む。ベッドサイドの淡い灯りを残し、部屋が闇に包まれる。導かれるままに服を脱ぎ、雨宮と向き合った。 「寒い?」  寒いと心許ないと恥ずかしいの境界線があいまいで、ただ小さく頷く。それ以上はもう、どちらもしゃべらなかった。肌が吸い付くように重なって、そこからしっとりと熱が生まれる。再び大きな手に包まれると、たまらなくなって雨宮の首元に顔をうずめた。下腹部で握り込まれた二つの芯。とてもじゃないが凝視なんかできない。目をつぶって、黒くすべらかな皮膚に鼻をこすりつける。うっすらと雨みたいな香りがする。そっか、これが雨宮さんの体臭なのか。誘われるように、舌で舐めあげた瞬間、ん、と短い声が聞こえた。  感じてる、雨宮さんが。  もっと聞きたくて、何度も舐めた。うなじに近いほど、吐く息が熱くなっていく。軽く吸い上げると、いよいよ雨宮が切羽詰まった声をあげ、俺の腰は勝手に前後しはじめる。その途端、ぐっと体重をかけられて、押し倒された。 「あ、んっ、っく…………」  自分がしたよりも何倍もいやらしく首すじを舐められる。それから鎖骨。そこからさらに下って乳首を舐められたとき、背中が跳ねた。ぬるりと熱い感覚に、捕食される小動物のごとく身体の中核が震える。食べられてしまいたい。骨も残さず、雨宮さんの中に閉じ込めてほしい。  二人の間でとろけていく欲の塊が、硬く激しく脈を打つ。ふたつの鼓動がひとつになっていくような錯覚。くちゅ、くちゅ、と体液の上下する音が雨宮の上腕の動きに合わせて響く。  長い前髪の向こうにひそむ黒い瞳が見たくて、雨宮の後頭部に触れた。言葉にしなかったのに、顔をあげ、視線を合わせてくれた。  雨宮さん、こんな顔するのか。  苦しげにひそめられた男っぽい眉。眼光の鋭さ。濡れた唇から漏れる、獣のような息づかい。彫り師でもハウスメイトでもないただの雄の顔をした彼に、キスしてほしい。その願いはすぐに叶えられて、俺はあっけなく雨宮の手の中で絶頂を迎えた。あ、と喘いでしまってから、雨宮の肩口に歯を立てた。いけないと思いながらも、他に自分を抑える方法が思いつかなくて。雨宮もほとんど同時に息をつめたので、それどころではなかったのかもしれない。上りつめた感覚はなかったのに、とんでもない高さから急降下するような長くて深い悦楽の中で、汗ばむ互いの身体をずっと抱きしめていた。雨宮さんの重さも、匂いも、精液も、全部そのまま腕の中に閉じ込めておきたいと思った。雨宮もそう思ったのかは分からないが、ずいぶん長いことそうしていた。  南斗の音楽がポップなチューンに変わり、そのあとバラードが流れて終わってからようやく、雨宮さん、と声をかけた。雨宮は俺の耳元で、なに、と体勢を変えずにささやく。甘い。声が、どこまでも甘い。 「あの……その……、()れなかったですね」  少しの間をおいてから、ああ、と俺の言葉を理解した雨宮さんが笑う。振動が直接肌から伝わってきて、くすぐったい。 「挿れちゃいたいと思ったんだけど、透は初めてでしょ」 「え、あ、いやっ」  童貞ではないと安心させたいが、そんなことはたぶん聞かれてない。今雨宮さんが確認しているのは穴のことだ。それが未使用であることって、童貞と同じくらい恥ずべきことなのか? 「え、あるの?」 「ないない、ないですっ」 「これからゆっくり時間をかけてしよう。気持ちよくしたいから」  これからがあるのか、ということにじんわりと胸が温まっていく。 「シャワー、一緒にする?」  身体を起こした雨宮が、ティッシュで腹を拭ってくれる。申し訳なくてすぐに起き上がった。 「いや、南斗もジェイクもいるし……」 「そうだね、風呂場じゃ声が響くしね」  誰の何の声が響くのかを理解した途端、俺は両手で顔を覆った。髪の毛の上でキスの音がして、「先に使っていいよ、おやすみ」と優しい声が降ってきた。

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